第87話 訓練開始

「んん……?」


 最初に感じたのは、後頭部を襲う鈍痛だった。

 昨夜は随分と深酒をしてしまったようで、同時に激しい吐き気がこみ上げてくる。思えば、ヘレナと話している途中から記憶がない。さらに感じるのは、体の節々の痛みだった。

 どうやら、硬い床の上で寝かされているらしい。重い瞼をどうにか開くと、そこに見えたのは石の床だった。

 深酒をしすぎて、床で寝てしまうとは情けない。せめて寝台に誘導してくれればいいのに――そう思いながら、何気なく見上げると。


 そこに。

 知らない女が、いた。


「あら………お目覚めですか?」


「む……?」


「はじめまして、ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴ陛下」


「――っ!」


 思わず、ファルマスは飛び起きる。

 拘束などはされていなかったらしく、起き上がることは容易だった。しかし問題は、自分の服装に全く見覚えがないということだろうか。

 普段からファルマスは、比較的高価な衣装を着ている。それは宮廷においてもそうだし、私室や後宮においても同じだ。寝るときにも、仕立て屋に作らせたオーダーメイドの寝間着を使っているくらいだ。

 だが、今ファルマスが着ている服には、全く見覚えがない。どこをどう見ても、平民ですら身につけはしないだろう麻でできた安物の服である。恐らく、眠っている間に着替えさせられたのだろう。


 だが、おかしい。

 悪意があってファルマスを攫ったのであれば、服程度で済ませるはずがない。少なくともファルマスの身は動けないよう拘束して、帝国に身代金を請求する程度のことはするだろう。もっとも、そうなった瞬間に騎士団が動くことになるだろうが。

 政治的な目的があってファルマスを攫ったのであれば、未だファルマスの首が繋がっていることでさえ疑問だ。少なくとも、敵対国家にとってファルマスの命は、何よりも欲しいものなのだから。


「き、貴様っ! 何者だ!」


「あら……」


 そして何より、目の前の女。

 ここは恐らく、後宮の一室だろう。テーブルやソファなどは片付けられているし、調度品も一つも置かれていないが、間違いなくそうだろうと思える。そして後宮にいる女については、ファルマスは書面上において全て把握している。

 後宮で見知っている顔は僅かなファルマスだが、少なくとも目の前の女の顔に、全く見憶えはなかった。


「まぁ、私の名前なんて今は関係ないわ」


「ど、どういう……!」


「それより、これを見て」


 女が、手に持っていたものを石の床に撒く。

 からん、からん、と音がして、その床に散らばったものは。

 木剣、木の棒、木斧――様々な、木製の武器だった。

 ファルマスは意味が分からず、目を見開く。


「好きなものを取りなさい。あなたが、最も手に馴染むものを。必要ないと言うなら、素手でもいいわ」


「……貴様、何が目的で」


「ああ、大丈夫よ。いつでも変更はできるから。何度も試す機会はあるからね」


「……」


 話が通じない。

 だが、武器を与えてくれると言うなら、これ以上のことはない。どうにかこの女を撃破して、逃げる必要があるだろう。

 この女への処罰は、ファルマスの安全が確保されてからでも問題ない。

 ひとまず、好きなもの――ファルマスが今までグレーディアとの模擬戦において鍛えられてきた、木の棒を手に取る。武術師範であるグレーディアからファルマスは、「いざというときには、相手と距離を取れる攻撃手段の方が良いでしょう」と言われて、槍術を主に学んでいるのだ。槍がなくなれば短刀を、それもなくなれば素手で、と教えを受けているのである。

 女から警戒を解くことなく、ファルマスは棒を構える。


「それでいいのね」


「……」


「ああ、さっきから名前を聞きたがっていたけれど……私は、リリス・アール・ガルランド。ガルランド王国第二王子、ラッシュの妻と言ったら分かるかしら?」


「なっ――!」


 思わぬ真実に、ファルマスは言葉を失う。

 ガルランド王国第二王子ラッシュといえば、先日の宴に出席をしてくれていた人物だ。挨拶をした際に妻の姿はなかったが、「自由な妻でして」と話をしていたことを覚えている。

 だが、ガングレイヴ帝国とガルランド王国の関係は決して悪いものではない。むしろ、友好的だとさえ言えるだろう。

 そんなガルランド王国第二王子の妻が、ファルマスを攫う理由など――。


「まぁ、御託はいいわ。とりあえず、かかってきなさい」


「……」


 リリスと名乗った女が、武器もなく構える。

 恐らくその戦闘スタイルは無手なのだろう。構えに淀みはなく、極めて自然で隙がない。

 どこから攻めるべきか――そう、棒を構えて僅かに逡巡する。

 友好国の王子の妻であるならば、下手に傷つけるわけにいかない。もしも殺してしまえば、それだけで外交問題に発展する可能性だってあるのだ。

 ゆえに、ひとまず牽制で――ファルマスはそう考えて、棒を突き出す。


「はっ!」


 だが、そんなファルマスの突き出した棒は。

 流れるような拳の動きで、あっさりと逸らされる。

 そして、どこを動かせば人間が最適な動きをすることができるのか――それを分かった上での、鋭い踏み込み。

 ファルマスにしてみれば、まるで影が動いたかのようにすら感じて。


 その次の瞬間、ファルマスの鳩尾へと拳がめり込んだ。


「が、ふっ……!」


 痛みと、激しい吐き気が襲ってくる。

 ただでさえ酒の残っている体は、まともに動いてくれない。ファルマスは全力で突いたつもりであっても、二日酔いの体で万全の一撃を出すことなどできるわけがないのだ。

 しかもその上、鳩尾への一撃。思わずファルマスは膝を付き、口を押さえる。こんな場所で嘔吐するわけにはいかない、と。

 だが、攻撃がそれで終わったわけではない。

 膝を付き、無防備なファルマス――その顔に、思い切り蹴りが放たれる。

 当然ファルマスに避けることなどできず、脳を揺らすような一撃に意識を失いそうになった。


「がっ……ぐ、はっ……!」


 歯が折れていないことが、唯一の救いか。

 それでも立っていられず、ファルマスは倒れこむ。ぷるぷると足を震わせる姿は、まるで生まれたての小鹿のように。

 そんなファルマスを、リリスは見下しながら。


「さ……武器を変えるのなら、どれでもいいわ」


「う、あ……」


「ちなみに、アーサー王子とうちの主人も、別の部屋で同じ状況。アーサー王子にはアルベラ姉さんが、うちの主人にはヘレナ姉さんが」


「……へ、レナ……だと?」


 そこで、ファルマスは思い出す。

 いつだったか、ヘレナと話していたこと。

 それは――ヘレナの下にいる、二人の妹の話だ。


――アルベラは剣術の達人で、リリスは徒手格闘の達人です。


 つまり、この女――リリスは、ヘレナの妹。

 あの強いヘレナが、『徒手格闘の達人』と称した女。


「ちなみに、言っておくけど」


 再び、リリスが構える。

 女だから手加減するべきだとか、殺してしまったら隣国との関係がとか、そんなこと考える必要など何一つない。

 本当に強い、達人の構え。


「私に勝つまで、この部屋から出られないからね」


 その、立ちはだかるあまりにも大きな壁に。

 ファルマスは、絶望すら覚えた。

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