第86話 閑話:宰相の憂鬱
アントン・レイルノートの朝は早い。
まずは亡き妻の位牌に手を合わせて、供えているグラスに入った酒を新しいものと交換することから始まる。元々酒豪であった妻からすれば微々たる量であり、「これじゃ少ないよ!」と文句を言っているだろうな、と思いながら。
そして出仕の準備を整えたら軽い朝食を摂り、すぐに出勤である。
本来、宰相という家臣の中でも最高位に位置するアントンは、重役出勤をして問題ない身分だ。にも関わらず、アントンは誰よりも早く宮廷へ出仕する。それは『宮中侯』という各部署の不正を調査する役職であることに加えて、本人の真面目な性格に起因するものだ。
宮中侯が常に、不正には目を配らせている――それが、宮廷における一つの抑止力となるのである。アントンがずぼらな性格で、だらだらと出仕するような態度を見せれば、それだけで不正がしやすい職場が出来上がるのだから。
「ふぅ……」
歳のせいか、歩いて出仕するのが辛くなってきた感はある。
だが、仕事上あまり運動ができない身であるため、せめて毎日歩いて出仕をしようと決めているのだ。そんな風に気をつけてはいながらも、何故か腹回りの肉は落ちてくれないけれど。
朝早くに準備をしている商店や、他に出勤している者たちと挨拶を交わしながら、アントンは宮廷へと到着する。
「おはようございます、レイルノート侯爵閣下」
「うむ、おはよう」
守衛の兵士に身分証を見せて、宮廷へと入る。
もう何十年も出仕しているアントンであるし、守衛の兵士とも大抵は知り合いだ。それでも顔パスというわけでなく、常に身分証を提示して入るようにしている。
その結果、守衛の兵士も「宮中侯でさえ身分証の提示が義務なのだ」と引き締まり、身分証の提示を行わない入宮を防ぐのである。アントンがこれを徹底するようになってから、身分証を持ってくることを忘れた事務官が、何人か門前払いをくらったらしい。小さなことではあるかもしれないが、これを徹底することで小さな不正を防ぐことができるのだから、それで良いのだ。
「……」
誰もいない、早朝の宮廷を歩きながら、己の執務室へと向かう。
日によっては、どこかの部署に寄って重要書類を確認する日もあるが、今日は特にそういう予定もない。また、抜き打ちでどこかの部署の不正がないかを確認する日もある。この不正確認は当然、何の通告もなく行われるものだ。アントンが時々これを行うようになってから、部署の不正が大幅に減ったと聞く。
執務室の扉を開き、そのまま椅子へ座る。そんなアントンの前には、何枚もの書類が重ねられていた。昨日、アントンが帰宅してから完成した書類たちである。朝早くに出仕し、夜遅くに帰るアントンではあるけれど、それでも夜に完成する書類というのも存在するのだ。
「ふむ……これは少し、陛下に采配を仰ぐべきか」
アントンが朝早くに出仕する理由は、もう一つある。
それはアントンが早急に確認し、日中に決済を行うことのできる書類が増えれば、それだけ各部署が円滑に執務を行える――それが最大の理由である。宰相であるアントンの承諾を早急に得ることができれば、それだけ早急に行うことができる政務が増えるのだ。
だが、さすがにアントン一人で承認することができないと判断する要件があれば、まとめて皇帝へ意見を仰ぐのである。あくまでアントンの役割は、『皇帝陛下に奏上するまでもない書類の承認』であるのだ。
もっとも、かつては『皇帝陛下に奏上することもなく全ての案件を承認する』という役割であった、相国という地位があったが。あの頃は本当に、己の存在意義を見失って嘆いたものである。
皇帝であるファルマスに確認を仰がねばならない書類をまとめて、アントンは執務室を出る。
アントンが朝の書類確認を終えたあたりで、ようやく各部署の役人たちがちらほらと出仕してくる。それぞれと挨拶を交わしつつ、目指す先は皇帝の執務室だ。
皇帝といっても、常に玉座で踏ん反り返っているわけではない。皇帝がやるべき仕事も多いし、確認するべき書類も多い。そのため、皇帝には皇帝の執務室があるのだ。謁見や他国の使者を相手にするとき以外、玉座は誰も座していないのが常である。
執務室の扉を叩く。
だが、扉の向こうから返答はない。
「おや……?」
普段のファルマスならば、この時間には執務室にいるはずだ。
他国の使者を歓迎する宴が開かれたため、深酒をしたのかもしれない――そう考えるが、よく考えればそれは一昨日のことだ。昨夜は、特にファルマスが出席するようなものはなかったはずである。
ならば、少し寝坊をしているのだろうか――そう考えるが、それは明らかにおかしい。
ファルマスには、常に護衛として元『赤虎将』グレーディア・ロムルスが侍っている。元々軍人であったグレーディアが寝坊をすることは、まずあり得ないだろう。寝坊をしたのならば、グレーディアが起こしに行くはずだ。
「……」
何かあったのだろうか。
しかし現状、他国との関係は落ち着いている。内紛の気配も特にない。間者が侵入することはまずないだろう。ファルマスが凶刃に倒れたという可能性は考えにくい。
だが、そこではっ――とアントンは目を見開く。
『明日から一月ほど、陛下が宮廷を留守にしても問題ないでしょうか』
『問題ないわけがあるか馬鹿者』
それは、宴の席で己の娘、ヘレナと交わした会話である。
ただの冗談だろうと、そう思っていた。事実、昨日ファルマスは問題なく執務を行っていたのだから。
だが、それが冗談でないとするならば。
今日から一月もの間、皇帝がこの宮廷に不在となる――。
「まさか……!」
だっ、とアントンは駆ける。
どうか、この予想がアントンの考えすぎでありますように、と。
そう願いながら。
「おや……おはようございます、レイルノート侯爵」
「ぐっ……!」
しかし、その予想は。
後宮に続く廊下の入り口に立つグレーディアの姿を見て、確信へと変わった。
「ロムルス殿! 陛下は……!」
「残念ですが、レイルノート侯爵。儂は、この廊下を誰も通すなと命じられておりまする」
「まさか……!」
「ええ、一月ほど」
目の前が、真っ暗になるようだった。
あの馬鹿娘は、本気で皇帝を鍛えるつもりなのだ。
一月もの間、
「グレーディア、殿……!」
「どうか、押し通るなどと申されませぬよう。この身は老骨なれど、一個中隊程度にはまだ負ける気はいたしませんな」
「……」
元『赤虎将』。その威容と、老いても筋骨隆々の姿を見て。
アントンは、天を仰いだ。
どうか、一月後。
ここから出てくる皇帝が、せめてまともであってくれ、と。
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