第35話 サバイバルの終わり
「はぁ……はぁ……」
森での
アンジェリカ・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴはようやく、最初に目的地と示された一本杉へと辿り着いていた。
遠くからでも見えるほどの威容を誇り、周囲一帯が草原であるそれは、目の前にあると異常なまでの威圧感を放っている。
「やっと、着いた……」
ここに至るまで、長い旅路を経てきた。
最初に一本杉へと真っ直ぐ向かえば、それは深い谷に阻まれた向こうにあった。ならば迂回してみればと西から回れば濁流の川が道を阻み、東から回れば瘴気を放つかのような沼が道を阻む。さらにそれを迂回すれば切り立った山を越えねばならないという、まるで試練のために用意されたような代物だった。
それを、七日だ。身一つで、せいぜいマントと塩だけを持たされているだけの軽装で。
だからこそ、アンジェリカはここに至るまで、ひたすらに生き抜くことに尽力した。
今、自分の腰に下げてある肉こそが、その証でもある。
元より遠距離攻撃に優れるアンジェリカは、その装備である
石を投げて野生の兎や鹿を仕留め、ヘレナに教わったように血抜きをして解体し、塩焼きや燻製にして食べた。
最初こそ何の罪もない動物を殺すことに忌避があったけれど、今となっては何も感じない。自分が生きるために他の何かを犠牲にすることは自然の摂理である。アンジェリカがこれまで生きてきて、夕餉に食べていたものも元は生きていたのだ。そう割り切ることで、アンジェリカは自分の空腹を満たした。
「やっと着いたか、アンジェリカ」
「……ヘレナ、様」
そして――そんな一本杉の根元にいたのは、敬愛するヘレナ・レイルノート。
いつも通りの、威風堂々とした様子で。きっと現在、憔悴しているアンジェリカよりも眠っていないだろう。だというのに、まるでその疲労を感じている様子はない。
ヘレナとて、アンジェリカたちと同じく、七日間をこの森の中で過ごしたというのに。
これが、経験の差か――そう、感じなくもない。
「お前は四番目だ。だが、順位よりもここまで到着できたことを褒めよう」
「わたくし、四番目……」
「ああ。最初に到着したのはクラリッサだ。やはり、鍛えていた地力があったのだろうな」
「……」
少なからずショックではあるけれど、それでも割り切らねばなるまい。
思えば、二日目くらいから他の誰とも会っていない。最後に会ったのは、朝に別れたマリエルだっただろうか。
それぞれきっと、異なる道でやってきたのだと思う。
「アンジュ!」
「アンジェリカさん!」
「ご苦労様でした、アンジェリカさん」
「みんな……!」
そして、ヘレナの後ろから出てくるのはマリエル、フランソワ、クラリッサ。
久しぶりに出会った戦友の姿に、思わず涙が溢れてくる。たった一人で、孤独に道を歩み続けてきた。心が冷たくなってゆくのが分かったし、ヘレナからの――恐らく偽物だっただろうと思ってはいるが――夜中の襲撃にも、ひたすら迎撃を続けて、どことなくささくれ立っていることも分かっている。
そんな自分の心に、三人の戦友たちという心強い存在が、まるで沁みてくるような気持ちだった。
「アンジュは、どんなルートで来ましたの?」
「わたくし……山を越えてきましたわ……もう、疲れた……」
「わぁ! 山ですか! わたし山は通ってないです!」
「え……じゃあフラン、どうやって……?」
「はい! 川を泳ぎました!」
「……」
アンジェリカは道中で見た、濁流が激しく打ち付ける川を思い出す。
泳いだことなど一度もなかったし、体を冷やしてもいけないと泳ぐことは諦めた。まさか、フランソワはあの川を通ってきたのだろうか。
「まさか、フランが川を渡るなんて思わなかったわ……泳げるなんて知らなかったし」
「わたし泳ぎは得意なんですよ! クラリッサ!」
「あの川は、さすがに渡れる気がしませんわ……あたくし、せいぜい沼を越えてきたくらいですもの」
「……マリーは、沼?」
「ええ。正直、汚くて入るのは嫌だったんですけど……まぁ、拭けばいいや、と。あたくしも吹っ切れましたわ」
「……」
アンジェリカは道中で見た、虫の死骸が浮かんでいた沼を思い出す。
深さが分からなかったし、少し触っただけでもどろりとした感触のしたそれに入るのは、生理的に無理だった。よく見れば、マリエルの白かったはずの訓練着の下半身がやや緑色に染まっている。
川と沼。
どちらも、アンジェリカは迂回して抜けてきた。だからこそ、二人ともアンジェリカよりも先に到着していたのだろう。
だけれど、そこで疑問に思う。
明らかにアンジェリカよりも早い道を通ってきた二人に比べても、さらに早く到着したのはクラリッサ。
彼女は一体どうやって――。
「でも、一番凄まじいのはクララですわ。あたくし、とても真似できる気がしませんし」
「わたしも無理です! クラリッサだからできたんですよね!」
「いや、まぁ……なんとかなるかな、って思ってね」
えへへ、と照れながらクラリッサが頬を掻く。
マリエルとフランソワにそれほどまでに言わせるなど、どれほど過酷な道を通ってきたのだろう。
だけれど、そんな二人の賞賛に対して、ヘレナは呆れの表情で溜息を吐いた。
「まったく……私としても、あのような道を通ってくる弟子は前代未聞だ。お前の護衛についていたディアンナも、信じられないと言っていたぞ」
「申し訳ありません、ヘレナ様……でも、私はあの道が一番早いと思って……」
「事実、最短で到着しているのは事実だがな……それでも、一歩間違えれば死んでいた。さすがの私も、訓練で弟子を死なせるわけにはいかない。今後は、自分の命にもちゃんと気を遣え」
「はい、分かりました」
「ちょ……ど、どんな道で来たのよ!?」
アンジェリカは思わず、そうクラリッサに問いを投げる。
ヘレナにそこまで言わせるような道など、どこにあったのだろう。
フランソワが越えてきた、濁流の迸る川を泳いで渡るよりも危険な道など――。
「崖を下りて、登ったんだ」
はぁ、と溜息を吐きながら。
そう、ヘレナが――小さく、言った。
「言葉にすればそれだけのことだが、落ちれば間違いなく死ぬ高さのクライミングだ。まったく、報告を聞いた時には私も肝が冷えたぞ」
「は、はぁっ!?」
「まぁ、それだけ己の力に自信を持っていたということになるが……」
アンジェリカの顔からも、血の気が引く。
一本杉を目の前にして、目の前に現れたのは深淵が如き崖だった。とてもじゃないが、アンジェリカにあの崖を降りて、そのまま逆方の崖を登る気にはなれない。
だが、確かに道としては最短――。
「それを己の力のみで越えたことは賞賛に値するが、同時に大きな反省点でもある。いいかクラリッサ、己を過信するな。最短の道よりも、時には迂回をしなければならないときがあることを理解しろ」
「はい、ヘレナ様」
「わたしもいつかは崖を登れるようになります!」
「ふむ。では、今後の訓練に綱登りでも追加するか。全身の筋肉を鍛えるには良い方法だ」
「あたくしも頑張りますわ!」
そんな風に会話をする、ヘレナと弟子たちを見ながらアンジェリカは思った。
今、こうしてヘレナの弟子となって、鍛えてきた自分。
この七日間を耐えて、ここまで辿り着き、アンジェリカは自分が成長したものだとばかり思っていた。少なくとも、ヘレナの足元にくらいは及ぶことができた、と。
だけれど、そんな見通しは甘すぎた。
「わたくし……もっと頑張らねばなりませんわ……!」
深淵の崖を身一つで登り下りしたクラリッサ。
濁流の川を泳いで渡ったフランソワ。
汚れを厭うことなく沼を越えたマリエル。
彼女らは――戦友たちは、アンジェリカよりもさらに高みにいるのだから。
「ところで、シャルロッテはどうした?」
「さぁ……?」
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