第215話 後宮の戦-変わらぬ愛-
程なくして、帝都の治安維持のために、と駐留していた残りの禁軍によって、賊徒たちが後宮から連れ出されてゆく。
彼らが行ったのは、国家の転覆を図っての反乱だ。少なくとも、死罪を免れることはないだろう。結局、後宮であのまま暴れようとも、おとなしく捕まろうとも、彼らの行く末は全く変わらないのだ。
だが、それでも彼らがヘレナに降伏した、最大の理由。
それは。
あまりにも次元の違う強さに、恐怖したがゆえに。
ヘレナは賊徒の全員が連れ出されるのを見送り、そして相国アブラハム・ノルドルンド、ならびに公爵ディートリヒ・ハイネスを厳重に縛ってから連行させた。
首魁であるノルドルンドとディートリヒは、一族郎党全てを斬首に処されてもおかしくないだろう。そして、それと同時にハイネス公爵家の領土は没収されるはずだ。強いて恩赦が与えられるとすれば、この中庭でファルマスを守る、と戦ったクリスティーヌだけではないだろうか。
もっとも、クリスティーヌはクリスティーヌでファルマスに毒を盛った前科があるので、どうなるかは分からないが。
「ファルマス様」
「……ヘレナ」
そして、ようやく。
アレクシアたちの後ろで守られ、どうにか生き延びたファルマスと、そう出会う。
後宮で、皇帝と側室が会う、という格好ではあるまい。そのようなことは分かっている。
ヘレナは鎧姿であり、かつその顔は返り血による血飛沫に塗れているのだから。
だからこそ。
これは側室としてではなく、騎士――皇帝を守るためだけに命を賭ける戦士としての、謁見だ。
「ご無事で、安心いたしました」
「……ああ」
「生きた心地が、しませんでした。本当に、良かった……」
「……」
そう、騎士としての謁見だ。
ならば毅然として、ファルマスのお褒めの言葉を待たねばならない。
だというのに。
ヘレナは、その両目から涙が溢れてくるのを、止めることができなかった。
「ファルマス、様……本当に、本当に、ご無事で……!」
「よい、ヘレナ」
ファルマスが、跪くヘレナの元へと近付き。
その肩に、まず手を置いて。
それから、ヘレナの体を、ぎゅっと抱きしめた。
「へ……?」
「俺も、本当に、安心した……よくぞ、無事で戻ってきてくれた!」
「ふぁ、ファルマス様! お召し物に血が……!」
「構わぬ!」
返り血に塗れたヘレナを抱きしめれば、当然その血が服につく。
だというのにファルマスはそれを厭うことなく、ただ震えながらヘレナを抱きしめ続けた。
その温もりを感じ、その吐息を感じ、本当に安心する。
帝都への帰り道、ひたすらにファルマスの無事だけを願った。
僅かな時間すら惜しい、と全くの不眠不休で、全速力で戻った。夜の闇の中ですら、馬を休めることなく駆け続けた。
少しでも遅れれば、ファルマスの命はなかったかもしれない――そう考えると、ぞっと冷たいものが背中を走る。
だがそれでも。
ファルマスもヘレナも、生きている。
「し、しかし、ファルマス様……血が。汚い、ですし……」
「そなたが、俺のためにかぶった血を、何故俺が厭わねばならぬ」
「で、ですが……!」
「ヘレナ……本当に、本当に、よく、戻って、きてくれた……!」
その声が、涙声である、ということに気付く。
涙の理由は、賊徒に襲われた恐怖でもなく、生き延びた安心というわけでもなく。
ただ、ヘレナが無事で戻ってきたこと――それだけを、ただ喜んで。
温かな涙の粒が、まるで心まで洗い流してくれるような気がする。
だからこそ、ヘレナもまた、ファルマスを抱きしめる。
その重みを、その温かみを、ちゃんと感じられるように。
「ヘレナよ……そなたには、守られてばかりだ」
「そんな……」
「俺を守ってくれたのは、ここにいる側室の者たちだ。彼女らがいなければ、俺の命などとうに奪われていたであろう……」
「ならば、それは、彼女らの誉れとして……」
「そなたが、鍛えたのであろう。であれば、俺はそなたに守られたも同然だ」
抱き合うファルマスとヘレナを見守る、七人の側室と一人の皇女、十数人の女官に、一人の皇太后。
その視線が、妙に生ぬるい。
まるで、何か微笑ましいものを見るように。
「あ、あの、ファルマス様……!」
「そなたに会えぬ日々は、胸が張り裂けるようだった。そなたの戦死の報告が来やしないかと、眠れない夜もあった。だからこそ、今、そなたがここにいること……俺は、それが何より嬉しい」
「し、しかし、その、周りに……!」
「愛している、ヘレナ。二度と、この手より離しはせぬ。二度と……このように、俺を不安にさせないでくれ……!」
「あ、あの……!?」
ファルマスが、僅かに離れて。
涙の痕が残る眼差しで、じっとヘレナを見据えて。
そして。
唇を、重ねた。
「――っ!」
いつもの通り、反応はできたはずなのに避けることができない。
拒むことができない。ファルマスの抱きしめてくる力から、逃れることができない。
まるで力が抜けたかのように。
心地よい微睡みに、身を任せているみたいに。
「あらあら……若いっていいわねぇ」
「こほん……そういったことは、部屋でやってほしいものですが。後宮の秩序が……」
「感極まったのでしょう。ヘレナ様は戸惑っていらっしゃるみたいですけど」
「まぁ、ヘレナ様なら兄様にお似合いよね!」
「……そういう問題なのですか?」
「きゃー! きゃー! わたしも、わたしもバルトロメイ様といつかはっ!」
「クララー」
「いや、ちょっと、今いい空気だから! 空気読もう!」
「はぁ……なんだか力が抜けましたの。お茶でも飲みましょうか」
「今なら、紅茶が物凄く甘ったるい気がしますわ。あと誰か蹴りたい」
「是非わたくしを!」
ルクレツィアが、イザベルが、アレクシアが、アンジェリカが、レティシアが、フランソワが、エカテリーナが、クラリッサが、シャルロッテが、カトレアが、クリスティーヌが。
全員がじっと見守る中。
「ヘレナ、愛している。一生を、俺と共に生きてほしい。絶対に、幸せにしてみせる。ヘレナのためならば、世界の全てを敵に回しても構わない」
「ファルマス様ぁーっ!」
衆人環視の中、まるで見世物のようになったヘレナが、そう叫んで。
後宮の戦は――ようやく、ここで終わった。
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