第213話 後宮の戦-急転-
「くっ、何故だっ……!」
相国アブラハム・ノルドルンドは後宮の中庭で繰り広げられているその光景に、思わずそう歯を軋ませた。
やや高い位置にいるノルドルンドの視界に見えるのは、、次々と折り重なって倒れてゆくこちらの私兵に、吹き飛ばされて空を舞っている私兵――そして、その後方で侍女の後ろで隠れているファルマス、そしてルクレツィアの姿である。前方でファルマスの味方らしい数人が戦っているが、その姿はよく見えない。
だが、ノルドルンドが見る限り、私兵たちは中庭の中央あたりから向こうに進むことができておらず、そこに屍を築いている状態だ。回り込んで向かおう、という者がいても、的確に阻まれる――一体、これは何の悪夢だというのか。
完璧な計画だった。
グレーディアという、唯一の護衛を失ったファルマスなど、あっさりとその命を絶てる存在だった。
ヘレナ・レイルノートを戦場に追いやったことで、邪魔をする者などいなくなったはずだった。
そのために少なくない金を使ったし、グレーディアを無力化するために危ない橋も渡ったのだ。そして、孤立したファルマスを守る者など、誰もいないはずだったのだ。
だというのに、この体たらく。
一体、何がどうなってこうなったのか、さっぱり分からない。
後宮に入ったファルマスに、逃げ場などなかったはずだ。そして後宮にいる者など、僅かな女騎士を除いて戦いのいろはも知らない令嬢ばかりだったはずだ。
「何をしておるかっ! 殺せっ!」
「おやおや、ノルドルンド君。随分と焦っているようではないかね?」
「ディートリヒ、殿……」
くっ、と唇を噛みながら、堪える。
ハイネス公爵家は、現在の最大戦力だ。少なくとも、ここに揃っている二千人の私兵は、全てハイネス公爵家が私的に雇っている者ばかりなのだから。
ゆえに、この場において、ディートリヒを怒らせるわけにはいかない。もしもその勘気がノルドルンドに向けば、ここにいる私兵にノルドルンドを殺せ、と命じてくる可能性もあるのだ。
だからこそ今は、ディートリヒを怒鳴りつけたい気持ちを必死に抑える。
「しかし、おかしいね。実におかしい。君の計画というのは、これほどうまくいかないものなのかね? 我輩をあまり失望させないでほしいものだよ」
「……善処、いたします」
「うむ。言う通りにすればいい、と言ったのは君なのだからね」
ふふっ、とディートリヒが笑う。
そんな笑い声も不快になってくるけれど、しかし何も言わない。
ただ、その代わりに不甲斐ない私兵の連中に向けてだけ、罵声を放つのみだ。
「殺せぇっ! 何をしておるかっ!」
「し、しかし、抵抗が、思った以上に激しく……」
「一体誰が抵抗をしているというのだっ!」
「それが……八人ほどの、女だと……」
「ふざけるなっ!」
兵の報告に、そう怒鳴り声を上げる。
意味が分からない。たかが八人ほどの女に、二千人からなる兵士が止められているなど、ありえないにも程があるだろう。
それも、女だ。恐らく銀狼騎士団の女騎士なのだろうけれど、こちらの私兵は全て男である。男と女には基本的な自力の差があり、力では絶対に勝っているはずなのだ。
それが、止められるなど――。
「貴様も前線で戦わんかっ!」
「は、はっ……!」
「そんなに苛々するでないよ、ノルドルンド君」
誰のせいだと思っているのだ、と怒鳴りつけたくなる。
ファルマスを後宮に逃がしたりせず、抜け道を封鎖して挟撃すれば、もう終わっていたかもしれないのに。
だが、そこでふと、考える。
これまで、ノルドルンドは数多くの政策を打ち出してきた。それも、できる限りノルドルンドに利益が回るものばかりを、だ。それがどれほど民に負担のかかるものであっても、容赦無く押し通した。
ノルドルンドにとって、民など己の利益のために働く者に過ぎない。
そこに慈悲の心などないし、搾取するだけ搾取して、死なない程度に働かせていればいい――そう考えているのだ。
だが。
果たして本当に、ノルドルンドの政策は上手くいっていたのだろうか。民のことなど何一つ考えない政策が本当に上手くいっていたのならば、今更ノルドルンドが反乱を起こさなくても、国民が勝手に蜂起したのではなかろうか。
今現在も、市井の民は特に不満もなく日々を過ごしている。
ならば――ノルドルンドの懐へと流れてきた、政策により生じた金は、どこから出てきたのだ。
「まさか、ファルマス……!」
ファルマスは、ノルドルンドのそんな考えを、読んでいたというのか。
ただ甘言を与えていればそれでいい、という愚かな皇帝。だが、本当はノルドルンドの出す政策がどのように民に影響を与えるか、ということを見越して。
その政策が、あたかも実行されたかのように手配したのだ。民に被害を与えることなく。
それができるならば、奴はどれほど頭が回るというのか――!
「くっ……まさか、読まれていた、ということか……!」
そして、最悪の予感。
ノルドルンドをそのように警戒していたということは、遠からずノルドルンドが反乱を起こす、ということを見越していた可能性もある。
そもそもクリスティーヌを後宮に入れ、姦計を企てたのはハイネス公爵家である。それが失敗した、という報告は聞いていたが、もしかするとその時点で予想をしたのかもしれない。
ハイネス公爵家と、ノルドルンドが繋がっている、と。
そしてヘレナ・レイルノートという邪魔者を戦場に追いやると共に、ノルドルンドが動くと考えた。そして、その備えとして、後宮に予め兵を伏せていたのではないか――そう考えれば、納得ができる。
「だがっ……!」
ファルマスがそう読んでいたとしても、どちらにせよ多勢に無勢であることには変わりない。たかが八人だ。二千人という、こちらの戦力に比べれば些細なものに過ぎない。
どれほど今は撃退されていたとしても、向こうの力はいずれ尽きる。そうなれば、今度こそ物量の勝るこちらが勝利するはずだ。
そのときこそ、ファルマスは終わり――!
だが、そこでふと気付く。
先程からノルドルンドが一人で顔色を赤くしたり青くしたりと忙しく、独り言ばかり叫んでいるというのに。
後ろにいるはずのディートリヒが何も言ってこない、と。
ノルドルンドにしてみれば、ただ癇に障るだけのディートリヒには黙ってもらうのが一番なのだけれど――おかしい。
「ディートリヒ殿……」
そう、ノルドルンドが振り返ろうとしたそのとき。
ぽんぽん、とその肩が叩かれた。
なんだ、近くに寄ってきていたのか――そう、安心してノルドルンドが振り返った、その目の前に。
金髪の。
悪魔が。
いた。
「ひっ――!?」
「アブラハム・ノルドルンド」
「き、きき、きさ、きさまっ!? 何故ここにっ!? どういうことだ!?」
「お前だけは――」
目の前にいたのは――ヘレナ・レイルノート。
ノルドルンドが間違いなく、最前線へ送ったはずの、邪魔者。
絶対に、間に合わないはずの場所に。
生きて帰ることすら困難なはずの戦場に、送ったというのに――!」
「――絶対に殴る、と決めていた」
瞬間。
ノルドルンドのでっぷりと肥えた腹に。
ヘレナの、鋭い拳が思い切り突き刺さった。
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