第175話 ヘレナ様、悩む
「では、ファルマス様。行ってらっしゃいませ」
「ああ。また、今宵来る」
朝。
出仕してゆくファルマスを、去り際の口付けと共に見送る。
いつも通りの悪戯な口付けだが、やはりその唇に残る感触は慣れないものだ。そしてヘレナは扉を閉じ、そしてソファへと座った。
そして、考える。
なんだか最近、こんな風に考えることがやたら多いのだけれど。
「ええと……」
まずは状況を整理してみよう。
元々、ヘレナはかりそめの正妃扱いだった。宮廷におけるアントンとノルドルンドの争いにおいて、アントンの派閥の発言力を増やすためにファルマスの寵愛を受けている、という形にするだけだった。
それが気付けば一周忌の夜会にファルマスと共に出て、国外から正妃として認識される程度になった。なってしまった。
ここまではいい。
ヘレナは軍人だ。それが国を守ることに繋がるのであれば、どのような卑怯な作戦でもやってみせる。ヘレナ自身はそういった詐術には疎いが、立案された作戦が卑怯だが効率的であるならば逆らわないのだ。
ゆえに、ファルマスがヘレナの立場を利用することが政治の安寧に繋がるのであれば、存分に利用してくれ、とでも言ってのける。
だが、最近なんとなく気付いてきた。
何か違う。
ファルマスから感じる愛情は恐らく偽装だとか、振りだとか、そういうものではない。
本当に心からヘレナを愛してくれていると、そう感じてしまっているのだ。
「……」
物凄く恥ずかしくなって、とりあえず腹筋を百回やっておいた。
悩み事があるときには体を動かすに限る。ちなみに、昨夜はファルマスから愛情溢れる抱擁を受けてから一緒に『百合の間』で鍛錬をした。それも全て、なんだかよく分からないことを言われたヘレナが恥ずかしかったからである。
思い出すと更に恥ずかしくなり、更に腹筋を百回追加する。
都合二百回の腹筋を終えて、ヘレナは再びソファに腰掛ける。
だが、きっとこの胸の高鳴りは、体を動かしたからというわけではないだろう。
――ヘレナ。俺は、お前を生涯幸せにすると、誓おう。
――だから、俺と……ずっと、一緒に、いて欲しい。
かーっ、と顔に熱が走ってゆく。
この言葉を曲解するほど、ヘレナは鈍感ではない。
男と女が抱き合い、耳元でそのような甘い言葉を囁かれて、「はい、ではファルマス様の近衛騎士としてこれからも頑張ります! それが私の幸せですから!」などと答えれば、それは最早鈍感を通り越してただの馬鹿である。
だから、一応、理解できるのだ。
これがファルマスからの、プロポーズである、と。
「あー……」
更に跳ねる鼓動を抑えるように、ヘレナは胸を押さえる。
勿論ながら、その程度で止まってくれるはずがない。もっとも、止まったときには死んでいるだろうけど。
荒くなってゆく吐息は、どれほどの鍛錬を重ねても出るはずがないほどに激しい。
心動かされるとは、まさにこのことか。
考えることにも疲れてきたけれど、いつものように思考を放棄できない。
閉じた瞼の裏にすら、ファルマスがちらつくような気さえしてくる。
「ずっと、一緒に……」
ヘレナは元より、かりそめの正妃としての己を許容していた。
政治の混乱とやらがもう一年は続く、と言っていたが、それが終わり次第自由の身になれるのだと思っていた。そのときには、真っ先に戦場に戻ろう、とさえ考えていたのだ。
ヘレナは骨の髄まで軍人である。
その頭は戦場においてしか働かず、その体は戦場でこそ十全の力を発揮する。そのような女が、帝国の頂点たる皇帝の妻――皇后になどなれるわけがないのだから。
だが、ずっと一緒にいる、という言葉は、即ち結婚をしよう、ということだ。
そのくらいのことは、ヘレナだって理解できる。
「あー、もう……」
だが、それが嫌ではないのだ。
心の底でもやもやする感覚はあるけれど、決して悪いものではない。むしろ、奇妙な心地よささえ感じてしまう。
どうしてこれほど悩まねばならないんだ、とヘレナは立ち上がり。
とりあえず心を落ち着かせるために腕立て伏せを百回やることにした。
思えば、そんな兆候は前々からあった。
そもそもヘレナの部屋を、やたらファルマスが訪ねてくる、というのもおかしな話なのだ。かりそめの正妃として寵愛の姿勢を見せる、というだけならば、別に後宮に来る必要などない。何度か寵愛の姿勢だけ見せておけばいいだけの話であり、極論を言うならば月に一度でも顔を見せに来ればいいのである。
だというのに、ファルマスは新兵訓練(ブートキャンプ)の際に出入り禁止を告げたとき以外、訪れる期間を二日以上開けたことがない。
何より――その、去り際にいつもやる、悪戯な口付け、とか。
思い返すとやたら恥ずかしくなり、ヘレナは更に百の腕立て伏せを追加した。
それでも、どちらにせよ心は落ち着いてくれない。
「そういえば……」
思えば、二人で出かけた遠乗り。
その帰り道にも、なんだか奇妙なことを言っていた気がする。
そう――確か。
――清廉なる政治を行う体系を作り上げてみせる。それまで耐えてほしい。そのときこそ、そなたを堂々と迎えに行こう。
迎えに来る、とファルマスは言った。
後宮から出してやる、ではなく。
つまり。
あれは――皇后として迎えに来る、という、そういう意味だったのではないだろうか。
「えぇ……」
もう、考えるのが嫌になってきた。
自分が皇后になる、という未来など全く想像がつかないけれど、ファルマスの言葉を信じるのならば、その未来は間違いなく訪れるのだ。
戦場で自由に戦うこともできない、息苦しい身になってしまう。
だが、その隣にファルマスがいてくれるのなら――それは決して嫌ではない。
ファルマスの覇道を支え、そして共に歩む、というのも悪くはないのだ。
そう――悪くない。
「あーっ!」
更に腕立て伏せを百回追加した。
さすがに朝から腹筋を二百、腕立て伏せを三百やると、さすがのヘレナでも額にいい汗が浮かび上がってくる。
悩み事があるときには体を動かすに限る、とは前々からヘレナが思っていたことだけれど、どれほど動かしてもこの悩みが解決するとは思えなかった。
すると――部屋の扉がこんこん、と叩かれる。
「おはようございます、ヘレナ様」
「ああ、おはよう」
「本日も精が出ますね」
ほっ、と僅かに安心したように息をつくアレクシア。
クリスティーヌの一連のあれがあった際に、ソファで怒りに震えるヘレナを見て以来、このようにいつも通り鍛錬をしているヘレナを見ると安心するのである。
だがヘレナは、アレクシアの訪れと共に腕立て伏せを中断し、そのままソファへと座った。
「アレクシア」
「はい?」
「少し……その、相談に乗ってはくれないだろうか」
「……何かあったのですか?」
随分と弱気なヘレナの言葉に、そう眉を寄せるアレクシア。
今ヘレナがどのような表情をしているのか、自分では分からない。
だけれど多分、アレクシアが不安になる程度にはいつもの顔ができていないのだろう。
「昨夜、なんだが……」
「はい」
「陛下が、お渡りに、なられてな……」
「はい、存じております」
アレクシアが知っているのは当然である。
ファルマスが訪れたそのときまで、アレクシアとは一緒にいたのだ。
だから問題は、その後。
「それで、な……」
「はい」
「これが私の勘違いだというならば、それでいいんだ。それなら、私も何も気にせず鍛錬を続けることができる。だが、私としてはどうにも勘違いだとは思えなくて。で、もし勘違いだとしたらならば陛下に失礼なことをしているということは十分承知しているのだがかといってその真意を聞くことができなくて」
「……あの、どういうことでしょう?」
「ええと……」
どこから説明するべきか悩んでしまう。
だが、ここはいっそのことシンプルに言った方がいいだろう。
ごくり、と唾を飲み込み、ゆっくりと口に出す。
「陛下に……その、ずっと一緒にいてほしい、と……生涯幸せにしてみせると、そう言われたのだが……」
「……」
「わ、私は、プロポーズを、受けたのだろうか……?」
「……ヘレナ様」
これまでに見たことがないほど、心の底から呆れたような顔を浮かべながら。
本当に理解できない、とばかりに側頭部を手を押さえながら。
「……今更、何を仰っているのですか?」
アレクシアは。
全く己の現状を理解していないそんなヘレナに、呆れの溜息を吐くしかできなかった。
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