第161話 混乱の朝

 誰かこの状況を説明してください。

 真剣に、訳の分からない現状にヘレナはそう思うしかできない。


 まず、昨夜はファルマスの訪れがなかったため、のんびり一人で鍛錬をしてから眠りについた。ファルマスの訪れがない日は、アレクシアがヘレナが眠るまで部屋にいるため、色々と話を聞くことができた。

 そしてヘレナが思っていた以上にバルトロメイがシスコンであり、アレクシアがブラコンであるというあまり知りたくなかった現実を知ってしまった。聞くべきじゃなかったかもしれない。

 その後眠って、アレクシアが出てゆき、今しがた起きたところだ。

 さぁ早朝の鍛錬をするか、とまず柔軟体操をして、寝起きの固い体が解れてきた、と思ったあたりで何故か訪室があったのだ。

 また朝早くからアンジェリカでも来たのかな、と何気無く尋ねると、まさかのファルマスだった。来ないと言っていたのに。

 一体どういうことなのか、とひとまず扉を開いて、その瞬間に抱きしめられた。


 もう一度。

 誰かこの状況を説明してください。


「あ、あの……ファルマス、様?」


「……すまぬ、ヘレナ」


「い、いえ。か、構わないのですが……一体……?」


 別に、こうやって抱きしめられることが嫌、というわけではない。

 だが、あまりにも行動が謎すぎるのだ。昨夜は『極天姫』の部屋を訪れていた、という話だったのに、何故早朝からヘレナの部屋を訪れてくるというのか。

 そして、もう一つ。

 どことなく、ファルマスの体に残る奇妙な甘い香り――それが、どことなく不愉快だ。


 お互いに無言で、時が過ぎる。もっとも、ヘレナは特に何も考えていなかったのだけれど。

 ファルマスは暫くそうやってヘレナを抱きしめて、それから、ゆっくりと離れた。


「……中に、入ってもよいか?」


「あ、はい。どうぞ」


 ファルマスの言葉に頷き、部屋の中へと誘う。

 何を考えているのかはよく分からないけれど、とりあえず来たのだからもてなす方がいいだろう。ファルマスが沈黙したままでソファへと座り、項垂れるのを確認してから、お茶を淹れる。ファルマスも気に入ってくれた、湯冷ましからの冷めたお茶からまず出し、その間に薬缶を火にかけておいた。

 そこまで終わってようやく、ヘレナはファルマスの前に座る。


「あの、ファルマス様……?」


「……このような早朝から、すまぬな。起こしたか?」


「いえ、起きてはいましたけれど……」


「そうか、ならば良かった。無性にそなたに会いたくなってな。余の惰弱を許せ」


「そ、そのような……」


 いつもながら、直接的にそう言われて困惑してしまう。

 そして、そうやって言われるのも嫌ではないのだ。困ったことに。


「何か、あったのですか?」


「……『極天姫』の部屋へ、行った。そちらで、夜を明かした」


「はぁ……」


 多分そうだろう。だからこそ、昨夜は来れないと言っていたのだし。

 朝までいた、というのは少し意外だけれど。疎んじているような素振りをしていたし、短い時間だけ訪れて帰ったのではないか、と思っていた。

 ああ、だから甘い香りがあったのか、と納得する。

 恐らく、香木を焚いたときの香りだ。つまり、クリスティーヌが部屋で香木を焚いていたのだろう。


「だが、ヘレナ。余が寵愛するのは、そなただけだ」


「え……ええと、そう言われましても……」


「このように言ったところで、言い訳にしかならぬやもしれぬ。だが、これは真実の想いだ。そなたに手を出しておらぬのも、政治的な理由があってのものだ。いつとて、余はそなたを抱きたくてたまらぬ」


「うっ……」


 そう思い切り直接的に言われると、物凄く照れる。

 太いと言われてしまった腕は、少しくらい細くなってくれただろうか。腹筋が割れているのはファルマスの好みだろうか。そんな風に思考が益体もない方向へ逸れていった。

 いかんいかん、と首を振る。


「そ、それが……どうか、なさったのですか?」


「クリスティーヌに、どうやら何かを盛られたらしい……昨夜のことを覚えておらぬ」


「なっ……!」


 思わぬ言葉に、ヘレナは腰を浮かせる。

 ファルマスは、ガングレイヴ帝国における最高権力者――皇帝だ。クリスティーヌがいかにハイネス公爵家の令嬢だといえ、皇帝に毒を盛ればそれは明らかな国家反逆罪である。下手をすれば、家ごと取り潰しにされておかしくない。

 だが、ファルマスは首を振る。


「証拠はない。だが、あやつに出された酒を飲んで以降、記憶がないのだ」


「……眠り薬、ということですか?」


「分からぬ。だが朝方……余は、クリスティーヌと二人で、裸で寝ていた」


「……」


 ずきり、と心が一瞬痛むのが分かる。

 そして、どうして痛んだのかよく分からず、ただヘレナは胸に手をやった。


「正気を失わせる、薬のようなものを使ったのやもしれぬ……だが、飲んだのは酒だ。状況証拠だけで糾弾しようにも、余が酒に呑まれたのだ、と向こうに主張されては返す言葉もない」


「……それ、は」


「そして、証拠不十分でハイネス公爵家の令嬢を断罪した、となればハイネス家は黙っておるまい。そのときこそ、公爵家領が蜂起してくるやもしれぬ。現状、軍を南北に分けて禁軍のみでしか帝都を守っておらぬ現状で、それは避けたい。もしハイネス家とリファールが同時に侵攻してきた場合など、帝都が落ちる可能性すらもある」


「……」


「だが、分かってほしい。余は、抱きたくて堪らぬそなたを相手にしてすら、己を律しておる。どれほど酒を飲んだとしても、だ。だというのに、酒に呑まれてクリスティーヌを抱いたなど……ありえぬ」


「……」


 やはり、政治の情勢などはよく分からない。まぁ、とりあえずハイネス家を今敵に回すのはまずい、ということだけ分かっておけばいいだろう。

 リファールが大人しい今だからこそ、三正面作戦という無茶な現状がどうにか成り立っているのだから。


 そして、ファルマスがそれほど己を律することができるというのに、前後不覚でクリスティーヌを襲う、というのは俄かに信じがたい話だ。


「媚薬のようなものを使われたのか……それは分からぬが、これからクリスティーヌは、余に寵愛された、と吹聴するやもしれぬ。そう言われても、どうか、余を信じてほしい」


「それは……勿論です。ファルマス様を疑いはしません」


「そうか……ありがとう、ヘレナ」


 ファルマスがふっ、と薄く笑みを浮かべた。

 随分と疲れたような顔をしている。加えて、漂う不快な甘い香り。

 これほど香りが漂うなど、部屋の中は煙で満ちていたのではないか、とさえ思える。


「ええと……」


「すまぬ、ヘレナ。そなたという者がいながらにして、余は……」


「……」


 随分と、ファルマスは気落ちしている。

 それも当然か。元々、宮廷が落ち着くまでは正妃を迎えることができない、子を作ることはできない、と言っていたのだ。その上で、ヘレナにも手を出していない。それが、薬を盛られて既成事実を作り上げられたのだ。気落ちするな、というのが無理な話である。

 だが、ヘレナとしてもこのように消沈しているファルマスは見たくない。


「ファルマス様」


「……どうした?」


「今日は、すぐに宮廷にお戻りになられなければいけませんか?」


「いや、まだ時間はあるが……」


「では、ご一緒に来てもらってもよろしいでしょうか?」


 ヘレナは立ち上がり、扉へと向かう。

 そして扉を開き、立ち上がって後ろへ続くファルマスと共に、後宮の廊下を歩いた。

 思えばこのように、ファルマスと共に歩く、というのは初めてだ。いつも部屋に来たファルマスを部屋で見送るだけだったし、新鮮な気持ちになる。


 そして暫しファルマスと共に歩き、到着したのは『百合の間』。

 ゆっくりと、その扉を開く。


「……ここは」


「はい。ファルマス様の用意してくださった、鍛錬用の道具が置いてある部屋です」


「……ああ、ここだったのか。用意はしろ、と言っておいたが、場所までは聞いていなかったな」


 ファルマスと共に、部屋の中へと入る。昨日まであった全身鎧(フルプレート)は、今頃クラリッサが着ているだろう。

 何故ここに、という疑問を隠そうともせず眉を寄せているファルマスに、ヘレナは笑顔で。

 ダンベルを手渡した。


「……何だ?」


「ダンベルにございます」


「いや、それは見れば分かるが……」


「ええ」


 ヘレナはこれ以上ないくらいに、輝くような笑顔を見せて。

 ぐっ、と自身も、ファルマスに手渡したものの三倍ほど重いダンベルを持ち上げる。


「悩んでいるときは、鍛錬をするに限ります。鍛錬をすれば幸せになれます。幸せになれば、もっと鍛錬が楽しくなります。短い時間ではありますが、共に鍛錬をしましょう」


「……」


 白い歯を見せて笑うヘレナと。

 手元にある軽めのダンベル。

 その両方にファルマスは目線を向けて、そして限りなく筋肉な意見に、苦笑するしかなかった。

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