第160話 閑話:『極天姫』の姦計 後
「うっ……」
鈍い痛みが頭を襲う。
まるで水底から浮かび上がってくるかのような酩酊と共に、ファルマスはゆっくりと目を開いた。
霞んだ視界に映るのは、真っ白な天井。状況を把握するにも、頭の回転が足りずただぼんやりと見つめるだけだ。
何故これほどに頭が痛むのか――そう、思わず左手で頭に触れようとして。
そんな左腕に――何か、奇妙な重みがあった。
「む……」
「あら、陛下。お目覚めですか?」
寝台の上で、ファルマスは仰向けに眠っている。それは理解できる。
だが同時に、そんなファルマスの伸ばした左腕の上に頭を乗せた、女がそこで寝ていた。
触れる毛布の感覚から、ファルマスは一糸纏わぬ全裸。そして隣に寝る女もまた、肩から下は毛布の中にあるも、その肌を晒している。
どう考えても、事後――そんな言葉しか浮かばない姿だ。
「なっ……!」
「あら、陛下。どうなされたのですか?」
「こ、これは……一体……?」
「あんっ」
女――クリスティーヌの頭から腕を抜き、そのまま寝台を降りる。
乱雑に散らばっている服は、ファルマスのものとクリスティーヌのものが混ざっており、ひとまずまだ鈍く動かない体のままで、ファルマスは下だけ履いた。
そこで、だんだんとはっきりしてきた記憶を思い描く。
「クリスティーヌ……貴様、一体……!」
「陛下……寝ぼけておられますの? まだ朝も早いですし、どうぞお眠りくださいませ」
「ふざけるな! 貴様、余に何をした!」
「あら……何を仰っておりますの? 昨夜はあんなにも愛してくださったというのに」
うふふ、と笑うクリスティーヌに、どうしようもない怖気が走る。
ファルマスが、クリスティーヌを抱くはずがない。愛しいヘレナにすら手を出さずに耐えているファルマスが、その一時の気分だけでこのような女に手を出すはずがない。
だが――そう、否定をすることができない。
覚えていないのだ。
昨夜、クリスティーヌの部屋を訪れたことは覚えている。
気乗りのしない、ただハイネス公爵家の面子を保つためだけに訪れただけであり、長居するつもりなどなかったのだ。だからこそ、クリスティーヌの勧めてくる酒を一杯飲んだら帰ろうと思っていた。
だが、その一杯を飲んでから、全く記憶がない。
部屋の中にはファルマスとクリスティーヌ以外に姿はなく、そして脱ぎ散らかされた服と全裸の二人。どう考えても、ファルマスが酔った勢いで手を出したのだ、と言われて否定できないのだ。
「ぐっ……!」
だからこそ、クリスティーヌの言葉に対し、そう何も言えない。
嘘を吐くな、と言うことは容易だ。だが、クリスティーヌが嘘だと白状するわけがない。そして、現状はファルマスも自身が行為に及んだのだ、と認めざるをえないのだ。
何故このようなことに――そう自問するが、答えは出ない。
「さ、陛下。お休みくださいませ。わたくし初めてでしたのに、陛下は激しくなされたので疲れてしまいましたわ」
「くっ……このっ、女狐がっ……!」
「何を仰っておりますの? わたくしは後宮の側室で、陛下は後宮の主ですわ。わたくしに手を出したところで、それは陛下が当然のことをしたに過ぎませんことよ」
「……っ!」
一体、ファルマスは何をされたのか。
酒に何かの薬が混ぜられていたのかもしれない。意識を奪い、眠らせるための毒だ。それが混入されていたのならば、現状は理解できる。だが、その証拠はない。
テーブルの上を確認してみたが、昨夜飲んだ酒の瓶も、グラスも綺麗に片付けられている。
そして、何より――。
「あら、垂れてしまいましたわ」
「むっ……!」
「陛下の大切な子種ですもの。僅かにも無駄にできませんわよね」
うふふ、と歪んだ笑みを浮かべながら、糸を引く白濁液を指の間で伸ばすクリスティーヌ。
それこそ――ファルマスが昨夜、クリスティーヌに手を出した、という何よりの証。
つまり、混入されていた毒はただ眠らせるためのものではなく、ファルマスの理性を奪い、性的な行動に出させるためのもの――つまり、媚薬だったということだ。
だが、それが薬の効果であったとはいえ、ファルマスが手を出した、という事実には何の変わりもない。
「さ、陛下……」
「余に触れるなっ!」
クリスティーヌが伸ばしてきた腕を、振り払う。
こんなことが、あってなるものか。ここまで、上手くやってこれた。ノルドルンドはファルマスを愚かな皇帝だと信じて疑わず、不正の証拠は限りなく集めた。粛清を行った後、ファルマスが権力を取り戻したときに中核となる臣下も得た。そして何より、ファルマスにとって最も愛しく得難い、強く美しい正妃もいるのだ。
それが――このような毒婦の奸計で、潰されることになる。
そんなことが、許されるものか。
「あら……わたくしの体ではご満足いただけなかったのですか?」
「謀るでないわ! 女狐めが!」
「何を仰いますの、陛下。お疲れでしょうか?」
「ふざけるなと言っておる!」
散らばった服の中からファルマスの服を探り、そして着る。
このような場所に、もういられるものか。僅かにでも、ハイネス家の面子を考えて、保守的に行動したのが不味かった。
もうこうなっては、粛清を進めるしかない。ハイネス家に関してはまだ資料が足りないが、それでも公爵位を剥奪できる程度までは追い込むことができるだろう。
だが、財産没収の上で国外追放、とするにはまだ証拠が足りない。結局、伯爵あたりまで爵位を落とす形で、領土は残すままになってしまう。
それは、帝国に獅子身中の虫を残す他の何でもないのだ。
病魔は根絶しなければ、いずれまた身を蝕むのだから。
急ぎ、ハイネス公爵領へ手の者を送り込まねばなるまい。そして証拠を固め、いざとなれば騎士団を一つ動かして、ハイネスを殲滅する覚悟を持つ。
「あら……お帰りですか、陛下」
「二度と来るか! 貴様の姿などもう見たくはない! この俺を謀ったこと、覚悟せよ!」
「おやおや……では、わたくしは一人で陛下の和子を育てることとしますわ」
「なんだとっ……!」
「大丈夫ですわ、陛下。ただ一度の間違いで、そう簡単に子などできない――そう考えておられるかもしれませんが」
うふふ、と笑っていない目を細め、口元を歪めるクリスティーヌに、思わず背筋が震える。
一体何を考えている――そう問い詰めたいが、しかし言葉にできない迫力が、そこにある。
「わたくし、陛下の子を産みますわ」
「貴様……っ!」
「今日をもって二度とご寵愛をいただけぬとも、結構ですわ。わたくしは、必ず陛下の子を授かってみせます」
「くっ……!」
無性に腹が立つ。
自信満々に言ってくるが、実際のところただ一度の間違いくらいでは、そう簡単に子を成すことなどできまい。だというのに、えもしれない自信がそこにある。
これが、女の覚悟だというのか。
「では陛下、またのお渡りをお待ちしておりますわ」
「二度と貴様の顔など見たくないわ!」
服を全て着て、それから『極天姫』の部屋から出る。
普段ならば、帰る頃合に後宮の入口あたりで、グレーディアが待っているはずだ。だが、今日は普段帰る時刻よりも随分と早い。
まだ痛む頭で、ファルマスが選択したのは後宮の出入り口に向かうのではなく、更に奥へと向かうことだった。
何故か、分からないけれど。
どうして、これほど焦がれるのか不思議だけれど。
無性に、ヘレナに、会いたかった。
「ヘレナっ!」
駆け足で渡り廊下を抜け、それから三つ並んだ三天姫の部屋――その中央。
ヘレナの部屋の前で、ゆっくりと止まり、そして呼吸を正す。
こんこん、と扉を叩くと、扉の向こうで動く気配がした。まだ日も昇って僅かだというのに、既に起きているらしい。
「どちら様……」
「俺だ、ヘレナ」
「ファルマス様!?」
がちゃり、と扉が開く。
まだ寝起きなのか、僅かに髪に寝癖が残るヘレナが、姿を見せて。
ファルマスは耐えられず。
「ファルマス様、何故このような朝に……」
「ヘレナ……っ!」
戸惑うヘレナを。
そのまま、強く抱きしめた。
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