第140話 皇帝陛下の狼狽
「陛下っ!? どうなされたのですかっ!」
がんがんっ、と扉の叩かれる音。
ファルマスの突然の悲鳴に、外に立っていたのであろうグレーディアがそう反応したのだ。そして部屋にヘレナとファルマスが残された時点でアレクシアが鍵を締めたため、外からは開かないようになっているのだ。だからこそ、このように激しく叩いているのだろうけれど。
あー、どうしよう、と頭を抱えそうになる。
「ええと……」
「な、ななななっ!? こ、これは一体何だぁっ!?」
「陛下ぁっ! 陛下ぁっ!」
どうすればいいのだろう。
ファルマスにしてみれば突然蛇が現れたわけだから、驚きもするだろう。そして護衛対象であるファルマスが悲鳴を上げれば、グレーディアが反応するのも当然だ。
とりあえず蛇を捕まえるべきなのだろうか。
「陛下っ! 扉をお開けくださいっ!」
「う、うるさいグレーディア! 心配をするでない!」
「何があったのですか!」
「構うな! 何もない! 気にするなっ!」
「あのような悲鳴を上げられて何もないなどということはないでしょう!」
「よいっ! ヘレナ! 捕まえろ!」
ファルマスが部屋の隅で、壁に背中をつきながら戦闘姿勢を見せている相手。
その相手が蛇だ、ということを知れば、恐らくグレーディアは笑うだろう。
ヘレナはやや呆れつつ、ファルマスをそこまで怖がらせている蛇の頭をひょいっ、と掴む。そのまま麻袋の中に突っ込んだ。
随分弱っているようだし、このくらいならばファルマスでも捕まえることができると思うのだが。
「へ、ヘレナ! 早くその袋の口を縛れ!」
「はい。大丈夫です、縛りました」
「ぬ、抜け出してはこんだろうな!? しっかりと縛るのだぞ!」
「ご安心ください。ちゃんと縛りました」
どうしてそんなにも怖がるのだろうか。
割と目とか斑模様とか可愛い部分もあるというのに。それに食べれば美味しいし。
「陛下!」
「安心せよグレーディア! 何事もない!」
「しかし陛下!」
「くどい! それ以上叫ぶな!」
ファルマスのそんな一喝に、グレーディアの言葉が止まる。
さすがにそこまで言われると、グレーディアとしても押し通せないのだろう。心の内ではすぐにでも、ファルマスの安否を確認したいのだろうけれど。
恐る恐る、といった様子でファルマスが麻袋を見ながら、ぺたん、と座り込んだ。
「あの……申し訳ありませんでした、ファルマス様」
「な、何故、蛇が……」
「いえ、以前、遠乗りに連れて行っていただいた際に捕まえたものなのですが」
「まだ生きていたのか!?」
確かに、一月以上も前に捕まえた蛇がまだ生きている、というのは不思議だろう。
だが案外生き延びるものなのだ。だからこそ、蛇は滋養強壮にいい、とされているのである。
ヘレナも聞いた話では、餌も何一つ与えずに三ヶ月生きた蛇もいたのだとか。
「はい。エカテリーナちゃんと名付けてみました」
「何故名付けた!?」
「いえ、親しみがわくかと思いまして」
「飼っておるのか!?」
「そろそろ食べます」
「何故食べるのに名付けるのだ!」
何をそこまで驚くのだろう、と首を傾げる。
そして、部屋の隅でぺたんと座ったまま動かないのは何故なのだろう。腰でも抜けたのだろうか。
「あの。ファルマス様……?」
「な、何だ……」
「もう蛇は捕まえましたが……」
「……」
ファルマスを驚かせたのはエカテリーナちゃんであり、もう麻袋の中に閉じ込めている。
そもそも毒を持つ種類ではないのだが、これで危険はないと判断していいだろう。だからこそ、戻ってきてもいいと思う。
しかし、ファルマスはそのまま座り込んで、動かない。
「……あの?」
「時にはこのように、床に座ってそなたと語らうのも良かろう」
「いえ、ソファに……」
さすがのヘレナも、皇帝であるファルマスを床に座らせたまま、何かを語ろうとは思わない。
そんなことをしては、さすがに不敬と言われてしまう。
「……」
「……」
暫し、そう見つめ合って。
ファルマスの顔が、真っ赤になっていくのが分かった。
「余を……笑ってくれるな」
「へ?」
「腰が抜けて……立てぬ」
林檎のように紅潮した頬で、そうファルマスが呟く。
蚊の鳴くような声音だが、しっかりとその内容は聞こえた。
どうやら蛇が出てきたことに驚きすぎて、腰を抜かしてしまったらしい。
「ええと……すみません」
「……そなたの荷物に、勝手に触れたことの報いか」
「それほど驚かれるとは思わなかったもので……」
「余の注意が散漫であった。そういえば遠乗りのとき、腰につけていたな……その麻袋を」
あああ、と嘆きながら、ファルマスが頭を抱える。
一体どんな感情なのか分からないが、どちらにせよこのままにしておくわけにはいかないだろう。
「ではファルマス様」
「む……?」
ひとまず、麻袋をやや遠い、荷物をまとめている場所へと置いておく。
もうそろそろ食べるつもりだったが、先程の蛇の動きを見ていると、あまり元気がなかった。放っておけば死んでしまうかもしれない。
マリエルやフランソワあたりと、近々また鍋パーティでもしよう、と頷く。
そしてファルマスに近付き。
「失礼します」
「な……?」
「では」
「なぁっ!?」
ひょいっ、と首の後ろ、そして膝の裏に腕を回し、持ち上げた。
ヘレナよりも背が低く、細身であるファルマスは軽い。この程度ならば、抱えたままで走ることもできるだろう。
突然の浮遊感に襲われたからか、ヘレナの首へとファルマスが手を回す。
やや震えているのは、蛇に驚いた残滓か。
「どうぞ」
少しだけ歩き、ソファの上へと下ろす。
そこまで終えてから、ファルマスが大きく頭を抱えるのが分かった。
腰が抜ける、というのは、極度のストレスを感じた後、安堵を伴うことで発生するものだ。腰に力が入らず、引っ張って立ち上がらせてもすぐに座り込んでしまう。大抵の場合、初陣の新兵などは戦いが終わると共に腰を抜かしていたのだ。
そして腰が抜けてしまった場合、時間の経過を待たなければ治らない。だからこそ、抱えてソファまで運んだのだけれど。
ファルマスが、不満そうに眉を寄せる。
「くっ……」
「あの、申し訳ありませんでした。ファルマス様がそれほど蛇をお嫌いとは思わず……」
「それは、いい。もう、よい」
「では……?」
「そなたには、良い意味でも悪い意味でも翻弄されてばかりだ……。まさか、俺が抱かれて運ばれる日が来るなど……」
「ええと、駄目でしたか……?」
割と戦場では、足に傷を負った者などを運ぶのは当然だった。
しかし、よく考えれば皇帝を抱えて歩く、というのは失礼に値するのではなかろうか。皇帝を床に座らせたままにする、というのも失礼に値するし、どちらが良かったのだろう。
「……もう、よい。少し、休ませてくれ」
「はぁ……」
「あの蛇は……なるべく早急に処分せよ」
「承知いたしました」
「……酒をくれ。飲まねばやってられん」
力なく項垂れながら、ファルマスがそう言ってくる。
余程苦手なのだろう。何がそれほど苦手なのか、ヘレナには理解できないが。
「分かりました。ええと……おつまみ作りましょうか?」
「ほう……何かあるのか?」
「エカテリーナちゃんの姿焼きでしたら」
「いらんっ!」
ファルマスの叫びに、ヘレナは唇を尖らせる。
美味しいのになぁ。
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