第141話 閑話:妹姫の覚醒
「はい、それでは本日の授業はこれで終わりです」
「ええ」
国立学園の教授をしている、老齢の男がそう頭を下げると共に、アンジェリカ・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴは教科書を閉じた。
ルクレツィアより許しを受けた、自由にしていい時間は午前のみだ。午後からは招聘した教師などによる教育が行われ、それを受けなければならないのである。
アンジェリカにしてみれば面倒極まりない時間であるけれど、この時間をちゃんと受けなければ、午前中の自由すら失われるかもしれない。だからこそ、一応真面目に受けているのだ。もっとも、大半は頭に入っていない、という事実はあるけれど。
「姫様、真面目になられましたね」
「……そうかしら?」
「以前は、何度も逃げ出していたではありませんか。このように、黙って最後まで授業を受けることなどありませんでした」
「……そう、だったわね」
思い返してみれば、真面目に受けた記憶などない。
アンジェリカはまだ十二歳であり、遊びたい盛りである。それを、役にも立ちそうにない歴史の授業を受けて時間を過ごしたくなどなかったのだ。だからこそ授業を放棄し、逃げ出し、適当に過ごしていた。
だけれど、今は違う。やりたくない、というのは本音だが、それ以上にやりたいことができたのだ。
そのためならば、我慢くらいはしなければならない。
「次の授業も真面目に受けてくださいね」
「分かってるわよ」
「特に、次の授業はダイアナ様ですから」
「うげぇ」
思わず、教師の言葉にそう顔をしかめる。
ダイアナ・スカーレッド侯爵夫人は、アンジェリカに対して礼節の授業を行う教師だ。週に二度ほどしか教えられていないが、とにかく厳しいのである。
以前のアンジェリカならば、どうでもいい、と舌を出して逃げ回っていた。それを鬼のような形相で追いかけれたことも、何度となくある。
そして歴史の教師がアンジェリカの前を辞し、軽くお茶を飲んで休憩する。
授業と授業の間には僅かながら休憩時間があり、その間は侍女にお茶を淹れさせ、飲んでいるのだ。
「はー……」
授業を受けながらも、ずっと考えていたのは自分の戦闘能力についてだ。
現在のアンジェリカは、石の投擲による攻撃しか持ち合わせていない。勿論、石を投げて当たればそれなりのダメージになるし、そこが外であるならば残弾は無限だ。矢筒に入れられる数しか持ち歩けれない弓兵と比べれば、その継戦能力は高い。
だが同時に、一撃一撃が軽いのだ。アンジェリカの力不足という部分もあるが、矢のように貫くことはできないし、格闘や棒に比べると威力に一歩劣る。
だからこそ、ずっと自分の戦闘能力を向上させるための、新たな方法について悩んでいたのだ。
ヘレナは短刀のようなものを投げてはどうか、と言っていた。
だが、刃物というのは総じて重い。投げることは可能だろうけれど、精密な投擲は不可能だろう。
それに、短刀を幾つも持ち歩く、というのは難しい。多く持てばそれだけ動きが鈍くなってしまうのだから。
つまり、狙いを定めて投げられる程度に軽く、かつ鋭く相手に刺さり、しかも数を持ち歩ける、という条件がつくのである。
「何かないかしらねぇ」
「……何がでしょうか?」
「何でもないわよ」
先程から側に控えている、アンジェリカの専属侍女であるティナの疑問に、そうひらひらと手を振る。
ティナには分からない悩みだ。
「うーん……」
「姫様、もう間もなくダイアナ様がいらっしゃいます」
「もぉ? はぁ……もーちょい休ませて欲しいんだけどさぁ」
「ですが……」
「分かってるわよ。言ってみただけ。さっさと呼びなさい」
「はい」
アンジェリカの言葉に、ティナが扉を開いて出てゆく。
そのまま、やや老齢に差し掛かった、というくらいの女性と共に戻ってきた。
鋭い眼差しでアンジェリカを見つめる女性――ダイアナ・スカーレッド侯爵夫人。ガングレイヴ帝国の貴族の中でも高位に位置するスカーレッド侯爵の妻であり、実質的に侯爵家を掌握している、とさえされる女性だ。
それゆえにルクレツィアに信用され、このようにアンジェリカに対しての礼節の授業を任されているのだけれど。
「よろしい。今日はいましたね」
「いるわよ。授業だもの」
「その気持ちを常に持っていただけるのなら助かるのですが」
嫌味のようにそう言ってくる言葉に、アンジェリカは返さない。
アンジェリカが逃げ出していたことは事実なのだ。今更取り繕うつもりはないし、これからの態度で示すしかあるまい。
ダイアナが所定の位置につくと共に、持ってきていた荷物を開く。
「では姫様、今日はテーブルマナーの講義といたします」
「テーブルマナー、ね」
「姫様も皇族の一人として、他国の重鎮と会食を行うこともあるでしょう。その際に、姫様のマナーがなっていなければ、それだけ他国の人間にガングレイヴ帝国が見下されます。お立場を考えたうえで、覚えてくださいませ」
「はいはい」
言いながら、アンジェリカの座る前にまず、ダイアナがクロスを敷き、皿を置く。勿論、そんな皿の中には何も入っていない。
そして皿の隣に、並べてゆくのは銀食器(シルバー)だ。最も大きいものを内側に、外側に行くにつれてサイズが小さくなってゆく。アンジェリカから見て左手側にフォーク、右手側にナイフが並べられてゆくその様を見届け。
こんな、ちゃんとした会食にアンジェリカが出ることなんてあるまいに、と思いながらも、文句は言わない。
「おや……」
「どうしたのよ」
「申し訳ありません姫様。スプーンを忘れてしまったようで。厨房で借りてまいりますので少々お待ちください」
「はぁ……分かったわよ。さっさと揃えなさい」
ダイアナが一つお辞儀をして、部屋から出てゆく。
ただでさえ気乗りのしない礼節の授業なのだから、さっさと終わらせてほしいものだ。面倒極まりない。
はぁ、と大きく溜息を吐きながら、アンジェリカは目の前に並べられた銀食器(シルバー)に目をやり。
目を、見開いた。
「これ……」
並べられたナイフの一本を、手に取る。
銀製のそれは軽く、先端は丸みを帯びているものの細く、鋭い。
そして逆側にあるフォーク。
その先端は鋭い三本の針であり、硬い肉すら貫ける代物だ。
天啓のように――アンジェリカの脳に、稲妻が走った。
「これよっ!」
「ひ、姫様っ!?」
「どうして気づかなかったのよわたくし! これこそ理想的な武器じゃない!」
「あ、あの、どうされたのですか!?」
ティナの言葉を無視して、アンジェリカは立ち上がる。
ここはアンジェリカの私室だ。当然、その壁には長くずっと趣味としてやってきていた投矢(ダーツ)の的がある。
アンジェリカは随分と離れたその的に向けて。
無言で――ナイフを投げた。
さくっ、と投矢(ダーツ)の的の中央に、ナイフが突き刺さる。
「いけるわ!」
「え、えぇぇぇ……」
銀食器(シルバー)は軽いし、数も多い。そして投げやすく、そして突き刺さる鋭さを持っている。
何より湾曲したフォークは先端さえ外に向けていれば、自分に刺さることがない。そしてナイフは先端が丸みを帯びているため、そう簡単に自身を傷つけない。つまり、持ち歩くのも容易ということだ。
銀食器(シルバー)は――アンジェリカにとって理想的な武器になりえる。
フォークを三本掴み、指の間に挟んで構える。
他の刃物のように、滑り止めがついているわけではない。そして細いがゆえに投矢(ダーツ)と同じように扱うことができるだろう。
アンジェリカはそんな三本を、的に向けて思い切り投げる。
小さな的だというのに、そんなフォーク三本は一本をほぼ中央に、そして残る二本も中央近くに突き刺さった。
興奮し、アンジェリカは叫ぶ。
「こうしちゃいられないわ! ティナ! すぐに仕立屋を呼びなさい!」
「ど、どうされたのですか、姫様!」
「ちゃんと数を持ち歩けるようにしないと! わたくしの太腿を囲むベルトを作って、そこに全部差し込んで使えるようにするのよ! そうすれば敵に残る本数を悟られずに済むわ! さぁ! 早く!」
「え、えぇぇぇ……」
興奮したアンジェリカが、そうもう一度、銀食器(シルバー)に手を伸ばし。
その途中で、別の手に阻まれた。
それは。
右手でアンジェリカの手を押さえ、左手にスプーンを持った――ダイアナの姿。
「あ……」
「姫様、何が言いたいか分かっていますね」
「え、ええと……」
「銀食器(シルバー)を的に向けて投げるなど何を考えているのですかっ!」
アンジェリカが、己に最も合った武器を発見したと共に。
宮廷に――そんな雷が落ちた。
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