第131話 節目の美酒

 最終訓練を終え、ヘレナは全員(約一名除く)への抱擁を終えたのち、部屋にある寝台を片付けさせた。

 もう彼女らは新兵訓練(ブートキャンプ)を終えたのだ。これ以上、ヘレナの部屋で寝泊まりをする必要などない。そして彼女らも訓練の成果か、拒否することなく五人で協力して寝台を運び、片付けた。

 ヘレナの寝台と、普段ファルマスが使用し、訓練の間はアンジェリカが使っていた寝台だけが残る。

 妙に広くなった部屋に、ヘレナは小さく嘆息した。


「……ふぅ」


 濃厚な一月だった。

 新兵訓練の教官役をしたことは何度かあるが、あれほど異なる才能に溢れた小隊を指導したことなどない。

 フランソワの弓、マリエルの棒、シャルロッテの格闘、クラリッサの馬、アンジェリカの投擲――どれも、鍛えれば一線級の活躍ができる者ばかりだった。だからこそ指導にも熱が入ったし、指導そのものが楽しかったとも言える。

 ヘレナは嘆息の後、ソファへ腰掛けた。

 既に四人の令嬢は部屋に戻っており、アンジェリカはルクレツィアと共に帰っていったのだ。寂しい気持ちはあるが、しかし訓練を乗り越えた彼女らをいつまでも拘束するわけにはいくまい。


「お疲れ様でした、ヘレナ様」


「ああ……確かに、少し疲れたな」


「まさか、あのように皆様が変わるとは思いませんでしたが……」


「私にとっても、意外なことばかりだったさ」


 ふっ、とアレクシアの言葉に微笑む。

 最も意外だったのは、シャルロッテの徒手格闘だろうか。フランソワの弓にも驚いたが、何よりあのシャルロッテが徒手で戦えるなど思いもしなかったのだ。マリエルの才能は以前から感じていたし、クラリッサも血族に『白馬将』がいることを考えれば決して意外ではない。アンジェリカの投擲も、投矢(ダーツ)を昔からやっていたのだ、と本人から聞いたため、そういうこともあるのだろう、と納得したものだ。

 だが、アレクシアはそんなヘレナの呟きに、首を振る。


「ヘレナ様」


「む?」


「わたしは一応、初日から現在に至るまで、姿の見えない場所で待機しておりました」


「うん」


 知っている。

 ヘレナがそもそも頼んだことだ。姿の見える位置にいられたら、訓練中の甘えに繋がるかもしれない、と思ったからこそ、女官と侍女は姿を隠すように、と命令しておいた。

だが、食事の提供などは女官の仕事であるし、姿が見えなくても声が聞こえる場所にはいてくれ、とそう言ったのだ。

 それがどうしたというのか。


「憚ることなく申し上げてもよろしいでしょうか」


「あ、ああ……」


「調教か洗脳としか思えません」


「人聞きの悪いことを言うな」


 アレクシアの言葉に、ヘレナは唇を尖らせる。

 心をへし折り、上官に従わせる、というのはどのような新兵訓練でもやっていることだ。 特別なことなど何もしていない。せいぜい、初日にやった蛇を捕まえることぐらいだ。

 それを調教だの洗脳だのと言われるのは、ヘレナにとって心外な言葉である。


「まぁ……皇太后陛下も、これでお分かりいただけたでしょうね」


「何がだ?」


「そういうところです」


 む、とヘレナは首を傾げる。

 アレクシアが何を言っているのか分からない。ルクレツィアに一体何が分かったというのか。

 随分と馬鹿にされているようにも感じたが、しかしアレクシアにはアレクシアで、何か感じるものがあるのかもしれない。

 何より、これ以上追求したところで、なんだか怒られる未来しか思い浮かばないので、やめておいた。ヘレナが後宮で最も怖い相手はアレクシアなのだから。


「さて……では、わたしは夕餉を取りに行ってまいります」


「ああ。任せた」


「はい。少々お待ちください」


 アレクシアがそう言って退席すると共に、ヘレナは部屋の端に置いてある、荷物の山へと向かう。

 後宮へ入った初日から持ってきていた荷物なのだが、未だに整理しているのは一部だ。というより、もう一年後には出られるわけだから、当座はこのままでいいじゃないか、とさえ考えている。

 そんな荷物の山の一部――酒瓶の入った場所を探る。

 ファルマスとの初めて会った夜と、その翌日の自棄酒で随分飲んでしまった気はするが、まだ数本は残っていた。何故残っているのかというと、禁酒令を出した女官がいるからである。

 そのうちの二本、そして二つのグラスを、ヘレナは取り出した。


「ヘレナ様、夕餉を持ってまいりました」


「ああ……そこに並べてくれ」


「……そちらは、お酒ですか?」


「ああ」


 別段、隠すつもりはない。

 というより、アレクシアも誘おうと思っていたのだ。

 酒を飲むのは楽しいが、独りで飲むというのも味気ない。自棄酒ならば一人が一番だが、このように仕事を終えた後の酒は、誰かと一緒に飲むのが最高なのだ。


「……ヘレナ様」


「そんなに多くは飲まん。だが……教官として、厳しく彼女らに接し続けた。私も少々、疲れていてな」


「……」


「無事に訓練を終えることができた。祝いの酒、というのも悪くあるまい」


「……はぁ」


 軍でも、何かの節目には必ず飲んでいた。

 戦いの終わりだったり、訓練の終わりだったり、その機会は様々だったが。

 だからこそ、今夜は美味い酒が飲めるだろう――そう感じて、ヘレナは酒瓶を出したのだ。


「アレクシア、付き合ってくれ」


「……わたしも、飲むのですか?」


「節目の美酒は、誰かと一緒に飲むのが一番だ」


「いえ、わたしは……」


「そう言うな。アレクシアには、いつも支えてもらっている。今回も色々と頼んだ。労いの意味でも、私に酌をさせてくれ」


「……」


 固辞するアレクシアを、そう誘う。

 酒が飲めない年齢、というわけではあるまい。

 アレクシアは少し考えて、しかし大きく溜息を吐いて、ヘレナの前に座った。


「分かりました。わたしでよろしければ、お付き合いしましょう」


「助かる」


「ですが、わたしは『陽天姫』ヘレナ様の部屋付き女官ではなく、あくまで『青熊将』バルトロメイの妹であるアレクシアだと認識していただきたいのですが、よろしいでしょうか」


「……む?」


 よく分からない提案に、そうヘレナは首を傾げる。

 アレクシアがバルトロメイの妹だということは、当然知っている事実だ。部屋付き女官であるアレクシアも、バルトロメイの妹であるアレクシアも、全く同じだとそう思っているのだが。

 それゆえに、アレクシアの提案はよく分からない。

 そして、分からないことは考えない。だからこそ、ヘレナは頷いた。


「分かった。ここにいるのはバルトロメイ様の妹アレクシアだ」


「ありがとうございます、ヘレナ様」


「では、飲んでくれ。折角だし、私の夕餉をつついでもいいぞ。空きっ腹に酒というのもよく回る」


「……では、いただきます」


 アレクシアのグラスに酒を注ぎ、くいっ、とアレクシアがそれを傾ける。

 それほど酒精の強いものではないし、飲みやすいものだ。思わぬ感覚だったのか、ややアレクシアが驚いたような素振りを見せる。


「美味しいですね」


「ああ。それほど高い酒ではないが、甘みが強いと評判だ。酒精も強くないから、飲みやすい」


「ええ。お酒は苦手だったのですが、これなら飲みやすいです」


「私は別のものを開けよう」


 ヘレナは先程開けた瓶とは、別の瓶の蓋を開く。

 アレクシアのグラスに注いだものは甘みの強いものだが、比べてこちらは甘みが少なく、酒精の強いものだ。酒が苦手だ、というならば、あまり勧められない類のものである。

 それを手酌でグラスに注ぎ、くいっ、と傾けた。

 強い酒精が、喉を焼くような感覚。思わず、くーっ、と声がしみ出るのが分かった。


「そちらは、どのような味なのですか?」


「ああ……こっちはあまり勧められん。アレクシアはこっちを飲んでくれ」


「承知いたしました」


「おっと……乾杯をしていなかったな」


 ヘレナは手に持つグラスを、アレクシアに近付け。

 それに呼応するように、アレクシアもグラスを出した。

 ちん、グラスの淵同士が合わせる。


 後宮における、誰よりも信頼できる女官、アレクシアとの二人酒が、和やかに過ぎてゆく――。












「ですから何度も何度も何度も何度も言っているようにここが後宮であるということはヘレナ様が常々お忘れになられているということをわたしは常々危惧しておりますし大体後宮でブートキャンプとか何を考えておられるのですかわたしは後宮という場所について何度も何度も何度も何度も説明申し上げたはずですがヘレナ様は何一つ聞いていてくれていなかったのですねそもそもアンジェリカ姫にあのような軍隊の訓練を施すことなどルクレツィア皇太后陛下が予想していると何故思うのですかあのような訓練を施されるなんて露ほども思っていなかったに違いありません聞いているのですかヘレナ様!」


「……え、えと。ごめん」


 そして、ヘレナは誓った。

 真っ赤な顔で目を据わらせながらヘレナを見る、この女官とは二度と酒を飲むまい、と。

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