第119話 ヘレナズブートキャンプ 3

 マリエルの宣言はあまりに予想外のものだったが、しかしかといって訓練を怠るわけにはいかない。

 ひとまずヘレナは宣言を流して、そのまま次の訓練に入ることにした。


「点呼ぉっ!」


「いぃちっ!」


「にぃっ!」


「さぁんっ!」


「しぃっ!」


「ごぉっ!」


「よしっ!」


 ヘレナが点呼、と叫べば、そのままアンジェリカ、フランソワ、クラリッサ、シャルロッテ、マリエルの順にそう数を叫ばなければならない。それがどのような状況であっても、だ。

 現在のように。

 ヘレナの前で五人全員が背中に壁をつけ、ほぼ直角に膝を曲げているーーいわゆる空気椅子という状態であっても。


 ぷるぷると全員の腿が震えているのが分かる。

 そもそも彼女らは令嬢であり、このような訓練など経験はないのだ。それだけ、鍛えるべき筋肉が多くある。

 まだ完成していない体力ではあるが、それを虐めて虐め抜くことで、より強靭な筋肉となりえるのだ。


「う、あぅ……」


「誰が休んでいいと言ったクラリッサ!」


「も、もぉ……」


「隣が支えろ!」


 崩れ落ちるクラリッサを、隣のフランソワ、シャルロッテが支えて起こす。

 そんな二人も限界に程近いのだろう、苦悶の表情を浮かべながらだ。

 ぜぇ、ぜぇ、と荒い息が響き、白い肌に汗が流れている。


 だが、それで終わらせるヘレナではない。


「クラリッサ」


「は、はいっ!」


「私が憎いか」


「そんなこと、はっ……!」


「正直に言え。私は逃げ出したいと言うならば止めん。ただし、この程度の訓練で音を上げるような惰弱な人間であると、生涯軽蔑し続けよう」


「うっ……!」


 クラリッサが、悔しさの混じった眼差しでヘレナを見てくる。

 そんなクラリッサに対しても、ひたすらに甘さを削り、ただ追い詰めるだけの言葉に変えてゆく。


「よぉし! 立て!」


「はいっ!」


「そのまま気をつけ!」


 空気椅子から、直立に変わる五人。

 ようやく足の負荷が取れた、という安心がやや過るのが分かる。

 あまり負荷を与えすぎても、明日の朝に起きられなくなるのだ。このあたりの調整は難しい。


 気をつけをした全員の前で、仁王立ちをする。

 そして――何も言わない。


「……」


「……」


 ただ直立不動のヘレナと五人が、睨み合うだけの時間。

 一体これはどういうことなのだろう、という疑問が走っているのが分かる。


「は、発言をよろしいでしょうかっ!」


「許さん!」


 マリエルがそう言ってくるが、棄却する。

 だが、マリエルは気付いたのだろう。そして、それ以外の面々はまだ分かっていないようだ。

 徹底的に足腰を虐めた後の、気をつけ。

 それは――バランスを保つことが、難しいのだ。


「う、ぅっ……」


「ひぅっ……」


 次第に、体力の覚束ない者から、バランスを崩してゆくのが分かる。

 ただ直立で立ち続けろ、というのも難しいのだ。

 じっと見据えるヘレナを前にして、倒れるわけにも足を踏み出すわけにもいかない五人が、ただ焦燥と共に耐え続ける。


「点呼ぉっ!」


「いぃちっ!」


「にぃっ!」


「さぁんっ!」


「しぃっ!」


「ごぉっ!」


「よしっ!」


 そして油断をしていれば、すぐさまそのように声を出させる。

 特に、一番に言わなければならないアンジェリカは、その瞳に憎悪すらも浮かべながらヘレナを見据えていた。

 いつだって、新兵訓練とはそうだ。

 教官とは、新兵に恨まれれば恨まれるほど良いのだから。


 さて、次に何をやらせるべきか――そう、直立している五人を見ながら、悩む。

 下半身はあまり虐めすぎると、明日からに支障が出る。

 体力のまだ完成していない彼女らに、最も必要なものは体力向上だ。

 ここは、少しゲーム感覚での訓練を行ってもいいかもしれない。


「よしっ! 休憩っ!」


「は、ぅ……」


 最初に倒れたのは、クラリッサ。

 それを追うように、アンジェリカ、フランソワ、シャルロッテもまた腰を落とす。

 体力、という面では最も完成されているであろうマリエルも、玉のような汗を袖で拭いながら座り込んだ。


 休憩を与えない、というのは前時代的なものだ。

 適度な休憩は必要だし、水分補給は絶対に必要となる。脱水にでもなっては訓練に支障が出るのだ。

 ちなみにアレクシアに言って、何かあってもいいように、すぐに宮医を呼べる手配すらしてある。


 思い思いに、それぞれが水分を補給しながら休む。

 この中で、最も体力がないのはアンジェリカだろう。だが、彼女は純粋にヘレナに対しての憎悪、恨みで体を動かしているようにすら思える。同様にフランソワも、ただ一心に真面目に行っているため、根性が体力を超越しているのだ。

 だが、クラリッサは元々、それほどやる気ではなかった。だからこそ、諦めが先に立ってしまうのだろう。

 シャルロッテがついてこれているのが謎極まりないが、彼女は彼女で何かやる気に繋がるものがあるのかもしれない。

 マリエルは……まぁ、今も熱っぽい視線を向けているのは、無視することにした。


「よぉしっ、立てっ!」


「はいっ!」


「では五人並べ! アンジェリカから順に数を数えながら、正拳突き!」


「はいっ!」


「右正拳突き百回! はじめ!」


「いぃちっ!」


 ふんっ、ふんっ、と拳を突き出す五人。

 もう体を動かしたくもない、という表情のクラリッサだが、しかし毎日やっていた正拳突き、ということでどうにか耐えられているのだろう。逆に、正拳突きをしたことがないアンジェリカ、シャルロッテはやや混乱しながら、しかし隣の見様見真似でやっていた。姿勢には色々と指導すべきところがあるが、今はこれでいいだろう。

 次第に拳に勢いがなくなってゆくが、しかし咎めない。


 そもそも、全員の体力の絶対量は違う。

 マリエルはこの部屋にいる中では、ヘレナの次に背が高く、年齢もシャルロッテと並んで最も高いのだ。比べ最年少のアンジェリカは十二歳であり、フランソワに至っては最も身長が小さい。

 そんな五人が、全員同じ成果を出せるか、と問われれば否だ。

 ならば、どのように判断するか。

 それは。


「アンジェリカ! もっと気合を入れて突け!」


「は、はいっ!」


「そんなへっぴり腰で敵が倒せるものか! 戦場で死にたいならば、今私がここで殺してやろうか! 嫌ならば全力を出せ!」


「はいっ!」


 徹底的に、全力を出させることだ。

 手を抜いたり、力を出し惜しんだりすれば、すぐさま怒声を繰り出す。逆に、ふらついてはいるが全力で必死のクラリッサに対しては何も言わない。

 最初に言ったのだ。

 ヘレナは平等だ、と。

 誰かを依怙贔屓することなどなく、全員に平等に接することこそ、教官としての務めなのだ。


「ひゃぁくっ!」


「よしっ! 引き続き左正拳突き百回! はじめっ!」


「いぃちっ!」


 そこで、ひとまず任せて視線を外す。

 正拳突きが終われば、そろそろ昼が近い。もうそろそろ、扉の向こうで侍女たちが集まっているかもしれない。

 そして、慣れない運動をした彼女らには、きちんと食事を摂らせなければならないのだ。

 だが、そう簡単に食事にする、というのも面白くない。


「にじゅうごぉっ!」


「シャルロッテ! もっと気合を入れろ!」


「にじゅうろくぅっ!」


「アンジェリカ! お前の力はその程度か! 泣き出すほど悔しければもっと力を込めろ!」


「にじゅうななぁっ!」


「驕るなマリエル! 私が見ていないとでも思ったか! さぼるならば回数を倍にするぞ!」


「にじゅうはちぃっ!」


 ぜぇ、ぜぇ、と息を荒げながら、汗を流し、必死に動く令嬢たち。

 ここが本当に後宮なのか疑問に思ってしまう光景である。


「ひゃぁくっ!」


「よしっ!」


 ひぃ、と疲れきった表情のまま、しかし腰を下ろすことはない五人。

 ヘレナの許可なくして休んではいけない――ここまでの流れで、それはちゃんと理解したのだろう。

 そんな五人の前で、ヘレナはしっかりと睥睨し。


「では、昼食とする! ただしっ!」


 そして取り出すのは、もぞもぞと中で動き続ける麻袋。

 しっかりと口を縛っているその中に入っているのはーー蛇。


 体のサイズは大きいが、毒はない種類だ。噛まれても多少傷になる程度で、命に関わることはない。

 いずれ振舞おうと思っていたが、今日はいい機会だ。


「五人で協力しろ! 誰でもいい! これを捕まえることができれば、昼食とする!」


「え……?」


 ヘレナは麻袋のしっかりと縛っている口を開き。

 そして中から――大きめの蛇が部屋の中へ、放たれる。


「はじめっ!」


「きゃああああああああああああああああああ!?」


 その瞬間。

 ヘレナの部屋の中に、五人の絶叫が広がった。

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