第74話 訓練、そして

 ファルマスは結局茶を飲み終わってから、眠そうな目を擦りながら出仕していった。

 いつも通りに去り際の口付けはあったけれど、それだけだ。ヘレナとファルマスの間にある色気など、この一時の口付け以外に何もない。

 今回は避けることなく受け入れて、そしてそのまま見送った。


 そしてアレクシアがやってくるまである程度の鍛錬を行い、時間を潰す。

 ヘレナはこうして体を鍛えることで十分に時間を有効活用することができるが、他の令嬢は一体何をしているのだろう。ふと、そう疑問に思う。

 基本的にヘレナは無趣味だが、鍛錬がある意味趣味のようなものだ。

 だが、仮に鍛錬に全く興味のない令嬢がいたとするならば、何をして時間を潰しているのだろうか。意外に一日というのは長いもので、何もしない時間というのは苦痛極まりないものだろう。


 ふと疑問に思っただけだが、疑問に思った以上は誰かに聞きたい。

 フランソワやクラリッサに聞いてみようかと思ったが、よく考えればあの二人は、午前にヘレナの訓練を受けている。

 そして午前に体力を使い果たすため、午後からはきっと体を休めるだけだろう。マリエルも同様の気がする。

 ならば、ヘレナの知っている、鍛錬に参加していない者に聞くのが一番だろうか。


「ヘレナ様、そろそろ午前の訓練のお時間です」


「ああ……そうか」


 考え事をしていたせいで、食の進みが悪く、まだ朝餉は少し残っている。

 ヘレナは急いでそれを口にかきこみ、そのまま水で流し入れて立ち上がった。


「では向かうとするか」


「はい。わたしは食器を下げてから中庭へ向かわせていただきます」


 アレクシアが一礼して、ヘレナの食べ終わった食器を片し、トレイに載せる。

 いつもはもう少し早い時間に食事を終えるのだが、今日は随分と考え事をしてしまっていたらしい。


 ひとまずヘレナは部屋を出て、中庭へ向かう。

 そこにはいつもの面々――フランソワ、クラリッサ、マリエルの三名だけだった。今日は銀狼騎士団の者たちも、ルクレツィアもいないらしい。


「おはようございます! ヘレナ様!」


「お、おはようございます」


「おはようございます、お姉様」


「うむ、おはよう」


 銀狼騎士団の面々がいると、途端に狭くなる敷地だが、四人だけだと随分広く思えるものだ。

 何かがあったのだろうか。

 とはいえ、銀狼騎士団の面々についてはティファニーの管轄下にあるため、ヘレナが知らない任務についている可能性もある。そもそもとして、彼女らは後宮の警備をするための人員であるため、ここに参加する必要など全くないのだ。


 今日は、この敷地を存分に使える、と思って鍛錬を行うべきだろう。


「では、本日の鍛錬を行う。まずは各自、柔軟体操だ」


「はい!」


 全員の返事と共に、それぞれ思い思いに体を解す。

 一律で行うべきなのかもしれないが、既にヘレナは朝の軽い鍛錬により体が温まっているし、それぞれ体が固いな、と思うところを重点的に行わせるべきだろう、と自由にさせている。

 元よりここは後宮であり、軍ではないのだ。そこまで縛る必要もあるまい、という判断である。


 各自の柔軟体操が終わったことを確認し、続いて軽い運動に移る。


「では、まず正拳突きを左右百本ずつだ、はじめ!」


「はい!」


 一、二、三、と数えながら、三人がそれぞれ拳を突く。

 ただの惰性で行わないように、一度突くごとに足を揃え、再び足腰を引く、という形にしてあるのだ。これにより、姿勢も自然と矯正される。

 そして数をこなしていくうちに、疲れた者は拳の先が下がってゆくのだ。それをヘレナは横で見ながら、下がっている者に注意をし、時に姿勢の指導を行うのである。

 だが最近はこればかりやっているためか、三人とも随分慣れたようだ。


「……ふむ」


 だが、三人の表情は、あまり芳しいものではない。

 惰性で行わないように、とやらせているが、どうしても繰り返す訓練は惰性が出てしまうものだ。特に鍛錬というのは一朝一夕で終わるものではなく、日々繰り返し続けるものなのだから。

 フランソワは楽しそうに行っているが、それはフランソワの極端なまでにポジティブな性格ゆえだろう。

 クラリッサは嫌そうな顔をしているし、マリエルも飽きた、と表情が語っている。


「アレクシア」


「はい、ヘレナ様」


「手頃な棒を四本持って来てくれ。私の背丈ほどもあればいい」


「は……はぁ」


 アレクシアが首を傾げながら、ヘレナの命に従って席を外す。

 軍ならば「やる気がないならば戦場で死ね」となるところだが、ここは後宮である。基本的に命の危機に晒されることはないし、このように鍛錬をしている成果というのも出にくいのだ。

 新兵の中には、初陣でろくに体が動かず死に瀕したために、以降の訓練を真面目に行うようになった、という例もある。

 少なからず実戦を経験する、というのは兵士にとって必要なことなのだ。彼女らは兵士ではないが。


 アレクシアが戻り、ヘレナへと四本の棒を渡す。

 重さも手頃、といったところだろう。恐らく物干し竿を切ったものなのだろうけれど、断面も綺麗に磨かれている。

 これならば、危険もあるまい。


「……百!」


「よし、やめ」


 左拳の突きが百を迎えた時点で、そう止める。

 普段ならば少し休んで、それから基礎体力作りを繰り返すだけだ。だからこそ、クラリッサもマリエルも飽きが来ているのだろう。

 たまには応用の訓練をするのも、悪くはない。


「休憩をしたら、次の訓練に移る」


「はい!」


「え……な、なんですか、その棒?」


 クラリッサがそこで、ヘレナの持つ棒を指差す。

 時間があれば、衝撃の緩衝材を先につけたいところだが、生憎そのような時間はない。

 それに、このくらいの棒ならば、ヘレナは自在に操ることができる。


「ああ……次の訓練は、実戦形式で行う」


「じ、実戦ですか、お姉様!?」


「ああ。だが、今日のところは仮の実戦、といったところだな。この棒には緩衝材がない。だからこそ――」


 座って休む三人の前に、棒を三本置く。

 そして、もう一本を、ヘレナが持ち。

 その先端を向け――構えた。


「全員で、私にかかってくるがいい」


「――っ!」


 応用編――棒術。

 これまで拳を突くことばかりをさせてきたが、それでも少なからず腕力はついているだろう。

 そして棒は最も入手しやすい武器の一つであり、また武器として完成されたものだ。

 突く、薙ぐ、払う、という三つの基本動作を行うことができ、そしてどちらの面も攻撃に使うことができる。

 例えるならば、両方に穂先のついた槍を扱うのと同じなのだ。


 そして棒は不殺の象徴とも言える武器であり、実戦を行っても殺し合いになることはない。

 まずは棒術を覚えてもらって、それから定期的に三人での手合わせを行わせるのがいいだろう。


「で、では! いきます! ヘレナ様!」


「うむ。本気で来るがいい」


「はいっ!」


 フランソワがまず立ち上がり、棒を手に取る。

 そしてヘレナの見様見真似に構え、その先端をヘレナへと向けた。

 クラリッサとマリエルも、おずおずとその棒を手に取り、フランソワの横に並ぶ。


「は、ぁっ!」


 まず、動いたのはフランソワ。

 他の二人が動くのを躊躇している間に、まず突出して攻めてくる。その勢いは良く、何より初めて武器を持った状態で、武器を持った相手に立ち向かえる、という勇気は評価に値するだろう。

 だが――それだけだ。


「ふんっ」


「わわっ!?」


 突いてくるフランソワの棒を、一薙ぎで叩き落とす。

 勿論この鍛錬で、三人を傷つけるつもりは毛頭ない。だが、武器と武器の戦いにおいては、少なからず武器の衝突があるのだ。

 それにより手が痺れることもあるが、それは「傷つける」という範囲に含まれない。


「私は言ったはずだ。全員でかかってこい、と」


「うっ……」


「フランソワの勇気は賞賛しよう。だが、突出した一人の動きよりも、統制された集団の動きこそが敵にとって脅威となるのだ」


 クラリッサ、マリエルの二人へ棒の先端を向ける。

 それだけで、二人が怯えるのが分かった。


「安心しろ、私からは一切攻撃をしない。反撃も決して体には当てない、と約束しよう」


「ほ、本当ですか、お姉様……」


「勿論だ。私に弟子を痛めつけて喜ぶ趣味などない」


「で、でしたら……」


「だが」


 ふむ、とヘレナは顎に手をやり。

 三人に、強く宣言した。


「もしも私の棒を落とすことができたならば、私に出来ることならば何でもやってやる。そのくらいのご褒美は必要だろう」


「な、何でも……?」


 ごくり、と何故か唾を飲み込むマリエル。

 だが、少しでも火が点いたらしい。やはり飴と鞭は必要なものなのだろう。

 もっとも、この三人を相手に、ヘレナが棒を落とされる未来など想像すらできないが。


 だが――。


「なるほど、話は全て聞かせていただきました」


 そう言って、フランソワから棒を奪い取るティファニー。


「さすがはヘレナ様。これで『ヘレナ様の後ろに続く会』の会報に、新たな一面を書くことができます」


 そう言って、クラリッサから棒を奪い取るディアンナ。


「このような千載一遇の機会、逃すわけにはいきませんね」


 そう言って、マリエルから棒を奪い取るメリアナ。


「……え」


 どこに潜んでいたのか、突然出て来て棒を奪い取り、構える銀狼騎士団幹部三人に。

 ヘレナは、そんな短い一語しか発することしかできなかった。

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