第71話 久しぶりのお渡り

 結局、訓練はそのまま終了し、ヘレナは部屋に戻って昼餉、そして己の鍛錬へと入った。フランソワ、クラリッサ、マリエル共にまだ体力が少なく、午前に訓練をしただけで燃え尽きてしまうのが実際だ。

 そして、体力がまだ作られていないうちに、無理な訓練をしては体を痛めることにも繋がる。だからこそ、ある程度三人の体力が出来上がるまでは、訓練は午前のみ、ということにしているのだ。

 午後はヘレナも、自身の体を鍛えるための鍛錬をしなければならないし、現状はこれを継続するのがいいだろう。


 そして腕立て伏せ、腹筋、屈伸といった日々行う鍛錬と共に、ルクレツィアから教わった基本のステップを行う。ひとまず一周忌の夜会においては、この基本のステップだけ確実に踏むことができれば大丈夫だ、というお墨付きを貰った。

 あとは一周忌の式典前に、ルクレツィアに確認をしてもらい、それで仕上げである。

 思うように動かない足に苛立ちながら、しかしどうにかして覚えてゆく。だが、二十八年間やったこともないことを、すぐに覚えろ、というのも無理な話である。回数を重ねて、体に覚えさせる以外のことができない。

 ルクレツィアの言葉を思い出しながら、必死に足元を見ず、流れに身を任せるように、ステップを踏み続ける。


 そうしているうちに、夕餉がやって来て。

 そして――ファルマスが、訪れる。


「久しいな、我が『陽天姫』よ」


「お疲れ様です、ファルマス様」


 いつも通りにグレーディアと共にやって来たファルマスは、早々にグレーディアを帰らせ、そしてアレクシアを退室させてからヘレナの前に座った。

 数日会っていなかっただけだというのに、随分と久しぶりに思えてしまう。


「その……なんだ、変わりはないか」


「色々とありますが……」


「ほう。余も少々所用があってな、来ることができなかった。余の来れなかったとき、何かあったのか?」


「はい。ええと……」


 色々とありすぎて、何から説明していいやら分からない。

 以前に来たのが、そもそもいつだっただろうか。

 確か、フランソワと共に午前の鍛錬を始めてからは、来ていなかったはずだ。つまり、ヘレナとティファニーが久しぶりに中庭で会ったあの日から、ということになる。


「ファルマス様から聞いていなかったので驚いたのですが、まさか後宮の警備に『銀狼将』ティファニー自らやって来るとは思いませんでした」


「ああ……あやつか」


 ファルマスが、ややげんなりした風に髪をかき上げる。

 それと共に、小さく嘆息。


「余は、後宮の警備に銀狼騎士団の一個中隊を派遣するように言ったのだ。編成は任す、と一任していたのが不味かった。まさかティファニー・リード自らが率いてくるなどとは思わず、な」


「……八大将軍自ら来るなど思いませんよね」


「最前線も少々混乱しているらしい。三国連合との最前線の一角を、『黒烏将』のみで守っている状態なのだそうだ。余としては、早急に『銀狼将』を最前線に戻したいのだが、本人が頷いてくれないのだ」


「まぁ……」


 ヘレナ至上主義であるティファニーは、そう簡単に頷かないだろう。

 そもそもヘレナがアルメダ皇国との最前線に、ティファニーが三国連合との最前線に派遣されたことで、かなり鬱屈が溜まっていたようなのだ。その状態で、ティファニーが再び離れた最前線に戻るとは思えない。

 まったくもって、八大将軍は優れた名将が多い代わりに、性格に難のある者ばかり揃っているのだ。


「他に何かあったか?」


「はい……ええと、最近、午前に他の側室たちへ訓練を施すことになりました」


「他の側室というと、レーヴン伯の娘か」


「はい。フランソワもそうで。あとはクラリッサ・アーネマンという令嬢なのですが、ご存知でしょうか?」


「アーネマン伯の三女か。書面上でしか知らぬが、確か『歌人』の位を与えていたはずだが、そなたと親しいのか?」


「ええ。元々、フランソワの友人でした。それで、共に訓練を、と」


「まぁ、良いだろう。側室たちも、運動不足の解消に丁度良いだろうからな」


 ファルマスは鷹揚に頷く。

 後宮はファルマスの管轄下にあるが、かといって訓練をする程度の自由は認めてくれるのだろう。そもそもファルマスの訪れない午前中に行うことを、制限するとは思えないが。


「それと、『星天姫』マリエル嬢も、一緒に参加をしているのです」


「……『星天姫』が、か?」


 ファルマスは目を細める。

 それは、疑いの眼差し。そもそも、茶会における行動の逐一をファルマスに報告しているため、マリエルの評価は限りなく低いのだ。

 その状態で、ヘレナの行う訓練に参加している、となれば、疑うのも当然だろう。


「私にもよく分からないのですが、ひとまず私に対しての害意はなさそうですので、共に訓練に参加させています」


「……ふむ。話を聞く限りでは、ヘレナに敵対していたように思えるがな」


「ですが、最近は随分と親しく接してくれております。何故か『お姉様』と呼ばれていますが……つい昨日、フランソワとクラリッサ、それにマリエル嬢と四人で鍋を食べたのですけれども、その材料も全てマリエル嬢が用意してくれたくらいですし」


「……」


 ファルマスが、沈黙する。

 顎に手をやり、何やら考えているのだろう。

 残念ながらヘレナの頭の出来はあまり良くないので、ファルマスが何をそこまで懸念しているのかは全く理解できない。


「……ふむ」


「え、ええと」


「いや、構わん。話を聞く限り、害意はなさそうだ。だが、決して油断をするでないぞ。あやつは爵位こそ低い家の出自だが、財力にかけては他に追随する者がおらぬ」


「承知いたしました」


 アレクシアからその話は聞いていたが、頷いておく。

 ファルマスまでもそう言ってくるということは、やはりマリエルの実家の財力は凄まじいのだろう。ファルマスですら軽視できない程度に、財力に関して飛びぬけているのかもしれない。

 そうでなければ、正妃に最も近い三天姫の一人として扱われないだろうし。


「だが、安心した。特に困ったことなどはなさそうだな」


「困ったこと、ですか?」


「『月天姫』あたりが茶々を入れているのではないか、と懸念していたが、あやつはどうだ?」


「まぁ……別段、といったところでしょうか」


『月天姫』シャルロッテ・エインズワース。

 正直に言って、最近存在を忘れるくらいにどうでもいい。

 とはいえ、父アントンの政敵であるノルドルンドの縁者なのだから、警戒しておかねばならないのだろうけれど、あまりにシャルロッテは幼すぎる。

 年齢なら、フランソワの方が下だというのに。


 特に今、困ったことはない。

 だが、強いて言うなら。


「ただ、ルクレツィア様からダンスを教わったのですけれども……上手く踊れるか不安です」


「ああ、そういえば教えたと言っていたな」


「基本のステップのみですが、まだ練習中です。本番までに、上手く踊れるようになるか……」


「ふむ」


 ダンスに関しては完全に素人であるし、どうにか手探りでやっていくしかないだろう。

 基本の動きは叩き込まれたし、あとはそれを自在に動かすことができるか、だ。


 だが、ファルマスは良案、とばかりに手を叩いた。


「よし、では今から、余と踊ってみようではないか」


「え」


「実際に、夜会に出たならば余と共に踊るのだ。今のうちに体験しておくのも悪くなかろう」


 ファルマスが立ち上がる。

 言っていることは確かにその通りだ。ヘレナの立場を考えると、ファルマス以外と踊ることはないだろう。他の男と踊るようなことがあれば、それこそ不義密通を疑われかねない。

 だが――心の準備は、できていない。


「あ、あの、い、今から、というのは……」


「何か困るのか? 酒も入っておらぬ、今のうちだからこそ良いのではないか」


「た、確かに……そうですが……」


 一人でのステップは、割と上手くいっている。

 だが、あくまで一人でやるならば、だ。

 そこに相手が加わるとなれば、それだけでも緊張してしまう。


「さ、ヘレナよ。立つがよい」


「うう……はい」


 仕方なく、ファルマスの言葉と共に立ち上がる。

 そしてファルマスの差し出された右手を取り、ゆっくりとお互いの距離が近付く。

 吐息がかかるほど近くなり、ファルマスの左手が、ヘレナの腰へと回され。


「……ふむ」


「ど、どうか、なさいました、か?」


「いや、すまぬ。前々から思っていたのだが」


 耳元で、熱くなりそうな吐息と共に。

 ファルマスは、言った。


「ヘレナは、随分細いのだな」


 言葉にヘレナは、思わず心が弾むのを抑えきれなかった。

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