第29話 夜の会合

「……と、いうことがありまして」


「ふむ。解せぬな」


 夜。

 当然のようにヘレナの部屋へとやって来たファルマスを、特に焦ることもなく迎えた。さすがにこのところ連日であるし、昨夜に「明日の夜も来る」と宣言されていたため、準備万端で迎えた、と言っても良いだろう。

 今日のファルマスは特に仕事をするつもりもないようで、手ぶらだった。そのため、アレクシアに命じて厨房から持ってきた高級な酒を注ぎつつ、こうやって話をしている。

 ヘレナはお茶だ。二度とファルマスの前で酒を飲まない、と誓ったから。


 そしてこれを機に、とファルマスには後宮におけるあれこれを説明している。

『星天姫』マリエルとの茶会と、中庭での出来事。それを掻い摘んで、だが。


「……しかし、余が年上好きか」


「申し訳ありません。陛下を貶めるような真似をしてしまいました」


「良い。実際のところ、たいして間違ってはおらぬ。エインズワースの娘など、乳臭い小娘としか思えぬからな」


 ほっ、とヘレナは心中で安堵する。

 皇帝であるファルマスについて、事実無根の噂を流したようなものだ。場合によっては、名誉毀損として処罰を受ける可能性もある、と一応考えていた。そうでなくても、不敬であることは間違いあるまい。

 だが、ファルマス自ら許してくれた。これで一安心といったところだろう。


「しかし、リヴィエールの考えが分からぬな」


「……そうですね」


『星天姫』マリエル・リヴィエール。

 茶会でヘレナを貶めようとして、完膚なきまでに叩き潰した相手だ。本来なら、もうヘレナに近付くことすら嫌がるだろう。

 だというのに『月天姫』シャルロッテと揉めていた場に突然現れ、まるでヘレナの味方をするかのように舌戦に完勝した彼女。

 何を考えているのか、ヘレナには全く理解できない。

 ありえるとすれば。


「私と仲良くしたいのでしょうか」


「それはあるまい」


 そんなヘレナの考えを、ファルマスはあっさりと否定する。

 それも当然だ。茶会で紅茶をかけられるほどに忌まれ、実力行使を仄めかして脅すほど憎い相手。しかも、その後命の危機すら与えられたわけだから、ヘレナに関して良い感情など持ち合わせているはずがないだろう。

 加えて、ヘレナはファルマスが唯一訪れている側室。

 同じ正妃扱いとはいえ、ヘレナの立場とマリエルの立場は、圧倒的に違うのだ。

 ファルマスの寵愛を受けるために争う後宮に、ヘレナの味方となる側室など一人もいるわけがない。


「では、何故私を庇うように現れたのでしょうか」


「そうだな……『月天姫』に対する、示威行動やもしれぬ」


「示威行動……ですか?」


 ファルマスの言葉に、ヘレナは首を傾げる。

 あの場で示威行動を行っていたのは、明らかにヘレナだ。刃を潰してあるとはいえ、ヘレナが剣を持ち、そしてそれを振っていたのは間違いない。つまり武器を持ちえることと、それを振るうだけの技量があることを示したのだ。

 だが、ファルマスはマリエルの行動こそが、示威行動だと言う。


「そうだ。そもそも、余の後宮が出来てから最初にやって来たのが『月天姫』であり、『星天姫』は暫く経てからやって来た。それまで、三天姫として位置する唯一の人間だったがゆえに、随分と幅をきかせていたらしい」


「……はぁ」


「そんな折に、突然同じ格の人間が現れたのだ。『星天姫』がな。それも、実家こそアン・マロウ商会の力を持っているが、貴族としては格の落ちる男爵家だ。面白くないのは当然だろう。ゆえに、随分と『星天姫』と『月天姫』は対立していたと聞く」


 後宮には全く興味がなさそうな素振りを見せていたのに、そういった情報だけはしっかりと把握していたらしい。

 後宮の事情がそのまま表の宮廷でも力を持ちえるのだから、当然の配慮なのだろう。全てに気を回せるファルマスは、どこまで器用なのだろうか。


「そこへ、最後の三天姫である『陽天姫』……そなたが後宮へ入った。ゆえに、『星天姫』は考えたのではないか? 正妃扱いである三天姫のうち、『陽天姫』であるそなたと『星天姫』が結託することにより、『月天姫』を超える勢力を作ることができる、と」


「……」


 分からない。

 ファルマスが何を言っているのか全く分からない。

 だがそれでも、真剣な眼差しで話を聞き続ける。少しでもその思惑が理解できるように、と。

 そしてそのように真剣な表情をしているために、ファルマスもまたヘレナが理解しているのだろう、と解釈する。

 見事なすれ違いである。


「だからこそ、そなたとの関係が最悪である現状においても、そのような態度をとった……つまり、『月天姫』に対する牽制の意味合いだと思われる」


「……なるほど」


 何がなるほど、なのか全く分かっていないヘレナだが、ひとまずそう答える。

 さすがにヘレナがどれほど残念な頭をしていようと、皇帝であるファルマスに「分からんからもう一度説明しろ」とはとても言えない。

 とりあえず、マリエルがヘレナと仲良くする素振りをシャルロッテに見せることで、何か効果があるかもしれないからやってみただけ、ということは理解できた。


「全く、表も厄介だというのに、裏も厄介なものよな」


「表も?」


「ああ。ノルドルンドめが、また無茶苦茶なことを言い出してきた。あやつに任せていては、国費がどれほどあっても足りぬわ。今はアントンがどうにか防いでくれているが、財務関係に奴の手がかかった者が就任すれば、それこそ国費の無駄遣いに際限がなくなるであろうな」


 アブラハム・ノルドルンド相国。

 アントンの政敵であり、シャルロッテの後ろ盾。後ろ暗い噂どころか、その証拠すら数多く出ているようだ。

 ファルマスも、今は機会を待っているのだろう。だからこそ今は、専横を許す。いずれ、覇王となるために。

 ヘレナの力もその一助となれるならば、否はない。


「ヘレナよ」


「はい」


「『月天姫』とは、なるべく距離を置け。後宮より外へ手紙を出される場合は、全て余の手の者により検閲が入るが、『月天姫』は侍従に手紙を持たせてから後宮より出すそうだ。後宮への出入りにあたって身体検査は行うが、どういう手際か見つかることがないらしい。『月天姫』よりそなたの情報がノルドルンドの耳に入れば、それを政敵であるアントンに対する攻撃材料とする可能性もある」


「……そうなのですか」


 驚く。しかし主な驚きは、手紙を出した場合、全てファルマスの検閲が入る、ということなのだが。

 ヘレナは特に手紙を書くつもりなどなかったが、ファルマスの思惑についてアントンに漏らすような手紙を書いた場合、もしかすると首が飛んでいたかもしれない。

 表向きは、アントンに対しても、ファルマスは愚帝を演じているのだから。


「だが、随分とノルドルンドの専横もなくなった。これも、そなたに感謝だな、ヘレナ」


「どういうことでしょうか?」


「余がそなたを寵愛している、と表で噂が流れ始めたのだ。将来の国母となるやもしれぬ、とすら噂が立っている。そうなればアントンは皇族の縁戚となり、国母の父だ。そのような相手には、さすがにノルドルンドも強く出ることはできぬ」


 やっぱり分からない。

 政治のあれこれなど、ヘレナには考えても分からないことだ。ならば、ヘレナは何も考えずにいた方が良いだろう。

 とりあえず毎日生きてさえいれば、父の役に立てる。それだけでいい。


 ファルマスがテーブルの上に置いた空になったグラスへと、ヘレナは新しい酒を注ぐ。


「そなたが来て、三日か」


「そうですね」


「だというのに、宮廷は大きく動いておる。このまま、良いように均衡を保っていてくれれば良いのだがな」


 ファルマスの微笑み。

 だが、どことなく差す影。

 それは――そのような均衡が、長くは続かない、と確信しているからか。


「ところで、そなたは飲まぬのか?」


「……酒は、暫く控えようと思いまして」


「ふむ」


 そこでにや、とファルマスがどことなく、性格の悪い笑みを浮かべる。

 その腹が随分と黒いことは、既にヘレナも知っていることだが――。


「では、余がそなたの酒を注いでやろう」


「――っ!?」


「それでも飲まぬと言うか?」


 酒を注ぐのは、基本的に女の仕事だ。

 それをわざわざ、ヘレナのグラスへ注ぐなど、ありえない。


 そのようなありえない行動を、ファルマスが行おうとしている。

 つまり、ヘレナと共に飲みたい、と言っているのだ。

 それを拒否するということは、ファルマスの顔を潰すことと全く同じである。


「……お戯れを、陛下」


「余はそなたと共に飲みたいのだがな。そのように気丈な姿を見せるそなたも良いが、酒に呑まれ弱い姿を見せるそなたも愛い」


 ファルマスの言葉が、まるで甘い吐息のように、耳でざわめく。

 酒も飲んでいないのに紅潮するヘレナの頬に、ファルマスは薄く笑った。

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