第5話 後宮初日――『星天姫』との語らい
『月天姫』シャルロッテ・エインズワース嬢の部屋を出て、ひとまずヘレナは自分の部屋の前へと戻った。
シャルロッテの部屋はヘレナの右隣であり、そして同じ造形の扉が左隣にも存在する。片方に挨拶をして、もう片方には挨拶しない、というのも人間として不出来だろう。恐らく部屋の造りから考えるに、右隣が『月天姫』なのだから、こちらは『星天姫』なのだろうな、という予想はつく。
とはいえ、先程のように失敗をするわけにはいかない。最後のシャルロッテの様子から鑑みるに、確実にヘレナは嫌われただろう。もしかすると、余計なことを言うおばさんとでも思われたかもしれない。
まぁ、シャルロッテくらいの年齢からすれば、自分はおばさんだ――そう諦め半分に、ひとまず左隣の部屋の前へと立つ。
心を落ち着かせるために腕立て伏せでもしようかと思ったけれど、残念ながらここは廊下。さすがに人が通るかもしれない場所で鍛錬をするほどに、ヘレナは女を捨てていない。
「さて、じゃ行くか……」
控えめに、豪奢な扉を叩く。
すると、先程と同じく、やはり侍女らしい女官とは異なる制服を着た少女が出てきた。
「は、はい?」
「今日から隣にやって来た、ヘレナ・レイルノートという。主人は在室か?」
「は、はい! 少々お待ちください!」
扉が閉められ、どたばたと中でざわめく音。先程のシャルロッテの部屋にいた侍女よりも、少々そそっかしいようだ。
とはいえ、それだけ誠実であるのだろう。ヘレナはなんとなく好感を覚えながら、扉の前で待つ。
暫くして扉が開き――迎えてくれたのは、先程の侍女とは異なる少女だった。
「ようこそいらっしゃいました、レイルノート侯爵令嬢様」
シャルロッテも社交界における美姫と称されるだけあって美しい少女だったが、こちらもまた可憐な令嬢だった。
背中に垂らした漆黒の髪は、黒という重い色でありながらにして可憐さが勝る。顔立ちはぱちくりとした瞳にすらりとした鼻筋、小さな桜色の唇、とまさにあてがわれたかのような美少女である。
纏っているのは、恐らく部屋着であろう簡素なドレス――とはいえ、シャルロッテのような高飛車さを感じさせないのは、その春が舞い降りたかのような顔立ちゆえだろうか。
「え、ええ……突然の訪問、申し訳ない。今日から、隣の部屋で住むことになった、ヘレナ・レイルノートと申します」
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ。あたくし、マリエル・リヴィエールと申します」
「……リヴィエール?」
ヘレナは自分の頭の中にある、貴族の一覧を捲る。しかし、そこにリヴィエールという名はない。
ヘレナ自身が社交界から去って長いために覚えていないだけなのかもしれないが、覚えていないということはそれだけ小さな家だったのだろう。
己の無知を晒すようだが――。
「ああ、ご存知ないのも仕方ありませんわ。あたくしの家は、父の代から男爵位を与えられておりますの。成り上がりの貴族、と言われておりますわ」
そんなヘレナの逡巡を見たのか、そう説明してくれるマリエル。
そして、中へどうぞ、と促してくれた。
「爵位としては、レイルノート侯爵令嬢様と対等に話せるような身分でないということは百も承知ですが、ここは後宮でありますし、あたくしが『星天姫』を頂いたことでこのような口を利くことをお許しください」
「いやいや、私も実家とはほとんど関わりもなく、社交界のことは何一つ知らない素人に過ぎません。マリエル嬢の名を知らなかったことを、心よりお詫びします」
「ありがとうございます、『陽天姫』様」
ソファを勧められ、そして先程の侍女がぎこちない動きで紅茶を差し出す。やはりこの部屋にも、侍女が四人いた。そんな堂々と規則違反をしていていいのだろうか。
ヘレナは勧められるままにソファへと腰掛け、そして対面してマリエルも座った。
「それで、『陽天姫』様。あたくしに何のご用向きでしょうか?」
「いや、恥ずかしながら……私は今日から後宮に入りました。先達である『星天姫』様にご挨拶をと思いまして」
「それはご丁寧に、ありがとうございます。何かお困りのことがございましたら、何でもお聞きくださいな」
うふふ、と微笑む姿は、まさに天使か女神の化身か。
少なくとも三十も近くなったヘレナには、あまりに眩しい微笑みである。
「ありがとうございます、『星天姫』様。では、早速で申し訳ないのですが、二、三お聞きしたいことがありまして」
「あたくしで答えられることでしたら、どうぞ」
「では――」
ヘレナの抱いている最大の懸念は、今夜だ。
陛下――ファルマス皇帝が、ヘレナの部屋へとやってくる。どのように応対するのが貴族として正しいのか、ヘレナには全く分からない。
ここは年下だけれど先輩であり、社交界に詳しいであろうマリエルに聞くのがいいだろう。
だが。
「ええと……『星天姫』様のお部屋に、陛下がお渡りになられたことは、あるのですか?」
ここで正直に、「今夜陛下が来るんですよ」とは言えない。
マリエルの人間性は分からないけれど、後宮にいる以上、皇帝の寵愛を求めているのは間違いあるまい。そんな状態で自分の部屋に皇帝がやって来ると教えることは、ヘレナに対する嫉妬を生む可能性が高いだろう。
だから、あえて湾曲に切り出す。
しかし。
マリエルは、すっと目を細める。
「……残念ながら、『星天姫』を戴いてから、陛下がお越しになられたことはありませんわ」
「えっ」
「恐らく、陛下もお忙しいのでしょう。聞けば、『月天姫』様のところにも陛下の訪れはないとか。あたくしも、いつでもご寵愛をいただけるように湯浴みを欠かさず行っているのですが……」
まずい。
ヘレナの心の中で、激しく警鐘が鳴る。
――今宵、陛下がこちらへお渡りになります。
イザベルから伝えられた、今晩の予定。
ヘレナは恐らく、ファルマスが好色なのだろう、と思っていた。だからこそ、初めてやって来た側室であるヘレナに手をつけるために、今晩やってくるのだろう、と考えていた。
だが事実として、この美しい『星天姫』にも、あの美しい『月天姫』にも、皇帝は未だ手を付けていない。
だというのに、ヘレナの所へとやって来る――。
「そ、そうでしたか……。申し訳ありません」
「いえ、とんでもありませんわ。同じ側室として、陛下のご来訪は気になることでしょうから」
「私はこのように陛下よりも遥かに年上ですので、ご寵愛をいだだけることはないでしょう。『星天姫』様や『月天姫』様の方が、私よりも遥かに若く美しいですし」
これはヘレナの本音だ。ヘレナのどこにも、シャルロッテとマリエルに勝てる要素が見当たらない。
女子力(物理)ならばかなり高い自信はあるが。
「しかし、もし陛下がいらっしゃったら、どのように応対すれば良いのでしょうか? 何分、今まで戦場に身を置いていたもので、そのような常識を知らないのです」
「そうですわね。陛下がいらっしゃるとすれば、まず身を清めるべきかと存じます。湯浴みは欠かさず行うべきですわ」
ふむふむ。
確かに体は清めておくのがいいだろう。少なくとも垢まみれで臭い令嬢など、一緒にいて心地よいわけがない。
「それと、侍女はお連れになっていないようですので、『陽天姫』様が御自らなるべく冷たいお茶を差し出すとよろしいですわ。茶葉がありませんでしたら、あたくしがお分けいたしますが」
「ああ、茶葉くらいはありますので、大丈夫です」
酒ではなく冷たいお茶を出した方がいい、と心のメモ帳に記しておく。
男を歓待するといえば酒だと思ったのだが、どうやら社交界では異なるらしい。
「それから、陛下に手を出していただけるように、なるべく淫らな装いの方がよろしいかと」
「み、淫らな、装い、ですか?」
「ええ。陛下とて、初めての女をそう簡単に寝所へ連れ込めないでしょう。ですので、こちらから誘うのですわ。『陽天姫』様ならお美しい体をしておりますし、少々胸をはだけさせて色気を出した方がいいですわ」
「し、しかし、そんな服は……」
「でしたら、下着姿でお出迎えすればいいですわ。そうすれば陛下も男、我慢できなくなるでしょうね」
うふふ、と微笑むマリエル。
まさか下着姿で出迎えて誘惑するのがいいなんて、予想もしなかった。だけれど、寵愛を望むのならばそれが一番なのかもしれない。
だがヘレナは寵愛など望んでいないため、参考までの意見として心に留めておこう。
「それはさすがに……恥ずかしいですね」
「恥じらいを持つのもよろしいですが、男に対しては時に押した方が良いこともありますわ。あたくしも毎晩裸で待っておりますのに、陛下は来られないのです」
「……それは、風邪をひかないようにご注意ください」
まさか下着姿ではなく、裸で待っているだなんて。
それが貴族の間では常識であるならば、どれだけへレナは物事を知らなかったのだろう。
「し、失礼……少し、頭が痛くなってきました」
「おや……宮医をお呼びしましょうか?」
「いえ、結構です。休んでおけば治ると思いますので、これで失礼を……」
あまりの衝撃に、頭痛がしてきた。
ひとまず部屋に戻って落ち着こう。それから考えればいい。
「お体、お大事にどうぞ」
「ええ、それでは失礼します」
きりきりと痛む頭と胃のせいで、気付かなかった。
去り際のヘレナを見て、マリエルがにやり、と口角を上げたことに。
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