第4話 後宮初日――『月天姫』との対峙

 どうしてこうなった。


 ヘレナの心を占めるのは、そんな疑問だ。どうやら今夜、現皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴがこの部屋へ来るだとか。そして皇帝が後宮の一室を訪れる、という意味について分からないほどに、ヘレナは子供ではない。

 勿論、何の経験もないために想像の域を超えない行為ではあるが、少なくとも夜の暗がりの中でしかできない行為に及ぶことは間違いあるまい。

 ひとまず心を落ち着かせるために腕立て伏せを二百回こなして、ヘレナは額に滴る汗を乱暴に手で拭った。


「うぅむ……」


 体を動かしたことで少しはすっきりしたけれど、ひとまず目下の問題点は何一つ解決していない。

 皇帝陛下が訪れる、ということは少なからずもてなす必要があるだろう。そしてもてなすためには、酒だとか料理だとかが必要になってくる。幸いにして部屋の隅に簡易な台所はあるため、何かつまみになるようなものを作ればいいだろう。

 材料は厨房に分けてもらって……いや、それなら厨房に何か作ってもらうように頼んだ方が早いのではないだろうか。

 色々と斜め上になってゆく思考に、あーっ、とヘレナはもう一度考えを放棄して、腕立て伏せを百回追加した。


「さて」


 都合三百回の腕立て伏せを終了し、ヘレナは立ち上がる。

 今夜、ここに皇帝陛下が訪れるらしいけれど、未だ太陽は高く昇っている昼間だ。今から悩んでいたところで仕方がないだろう。

 ならば、今できることをすべきだ。


「まずは……やはり、挨拶回りか」


 新人として最も大切なのは、挨拶である。

 甘やかされて育てられた貴族の子息などは、軍に入った後も傲慢に振舞うことが多い。そのために先輩に対しての挨拶すらも行わないのだ。比べ、子爵や男爵といった下級貴族の子息は軍で功績を上げて、実家を助けるという目標を持っているため、礼儀礼節をしっかり守っている。だからこそ、先輩に対しても挨拶を欠かさない。

 そして、そんな二人の新人がいれば、先輩が可愛がるのがどちらかなど一目瞭然だろう。

 ヘレナだって、かつては慇懃無礼な貴族子息を徹底的に虐め、素直な民兵を可愛がったこともある。それだけ、対人関係において傲慢にならないことは大切なのだ。

 そのためにも、まず行うのは挨拶回りである。


「では、近所の部屋から回っていくか」


 挨拶回りというのは、自分の存在を紹介すると共に友好的な姿勢を見せることで、相手の警戒心を解く効果もある。

 ヘレナは軍に在籍していた期間が長く、それだけ社交界から離れているのだ。恐らく全く、ヘレナのことは認識されていないと思っていい。今回訪問することで、「こんな令嬢(笑)もいるんだよー」くらいに認識してもらえればいいだろう。

 本来ならば侍女の一人でも連れていくのが当然なのかもしれないが、生憎ヘレナ一人しかいないため、身一つで行くことにする。


 そして、部屋を出てすぐに、ヘレナの部屋の入り口と同じような扉があった。


「ふー」


 軽く息を整えて、それからノックをする。

 少しだけ待つと共に、扉の向こうから女性が姿を現した。


「どちら様でしょうか」


「失礼しま……ごほん。私は、今日から隣の部屋にやって来た者だ。主人は在室か」


 格好からして、恐らく侍女だろう。

 先ほどの女官長とは、制服が異なる。ということは、身分的にヘレナよりも下となる。女官長に言われた通り、下手に謙ってはいけないだろう。

 だからこそ、自分が『陽天姫』であり『正妃扱い』であるということを考えて、口調を整える。

 侍女はそんなヘレナの言葉に一瞬びくっ、と体を震わせ、それから、「少々、お待ちください!」と言って扉を閉めた。

 何か間違えたかな、と思いつつ、暫し扉の前で待つと。


「シャルロッテ様が、お会いになられるとのことです! 中へどうぞ!」


 すぐに扉は開き、先程の侍女がもう一度出てきて、そうヘレナを促す。

 間取りとしてはヘレナの部屋と何も変わらない、やや広めの部屋。その中にある、テーブルを挟んで一人掛けのソファが対面しているのも、ヘレナの部屋と全く同じだ。

 強いて違うところを述べるならば。

 そのソファに腰掛け、優雅にカップを傾けている美少女が座っていること。

 そして、その周囲を十人からなる侍女が囲んでいること。


「ようこそ、わたくしのお部屋に。レイルノート侯爵令嬢……『陽天姫』様とお呼びした方がよろしいですの?」


「ご随意に」


「どうぞ、座ってくださいな。誰か、『陽天姫』様にお茶をお出しして」


 ヘレナにソファへ座るよう促して、それから侍女へ指示を出す。その所作は、まさに貴族令嬢といったところか。所作の一つ一つに優雅さがにじみ出ている。

 だが。


「私の名前をご存知で?」


「ええ、存じ上げておりますの。ヘレナ・レイルノート様でしょう? 宮中候アントン・レイルノート様のご息女で、軍人であると聞きましたの。パーティなどでお見かけすることがなかったですし、初めてお会いしますね」


「そうですね。残念ながら、私はただご近所に挨拶に来たようなものでして、お名前を知らないのです。お教え願えますか?」


 ぴくり、と目の前の令嬢の眉根が動く。

 素直に知らないと言っただけなのに、まるでこちらを観察しているかのように、その態度には明らかな敵意が漂っていた。


「……そうですね。こちらが一方的に知っているだけでしたの。『陽天姫』の位置に誰がなるのか、それが最近の茶会での話題でしたから。まさか宮中候のご息女がご自身で来られるなど、思いもしませんでしたから」


「はぁ」


「失礼ですが、年齢は二十八とお聞きしておりますの。そのお年で後宮に、とはレイルノート侯爵様に止められなかったのでしょうか? 陛下は御年十八ですし、さすがに十も年上の側室というのはちょっと……」


 ひらひらとしたドレスの袖で口元を隠しながら、くすくすと笑う令嬢。

 そんなことはどうでもいいから、さっさと名乗れ、とは言えないヘレナも、渇いた笑みを返すだけだ。

 ひとまず、紅茶を一口啜る。だが、残念ながらヘレナにはいい紅茶なのかどうかさっぱり分からなかった。


「そのお茶、いかがですの? 実はアルマローズの貿易港から入手したものなのですの。この渋みと一緒に甘みがやってくるのが、最近の茶会では好評ですの。ああ、それと……」


「そろそろ、お名前を教えていただきたいのですがね」


 益体もない話の羅列に、少しだけ苛立ってきたヘレナが、そう令嬢に告げる。

 有無を言わせぬ、という形で少しだけ殺気を混ぜた。それだけで、令嬢はよく回る口を閉じる。

 ヘレナ自身は気付いていないが、十年以上も戦場に身を置いた彼女の殺気は、心の弱い者ならば気絶する程度に鋭い。


「……そ、そうですわね。申し遅れました。わたくし、相国であるアブラハム・ノルドルンド侯爵の従弟にあたりますフィリップ・エインズワース伯爵が三女、シャルロッテ・エインズワースと申します。ノルドルンド侯爵の従姪にあたりますの」


「ほう、あなたがシャルロッテ様ですか」


「ええ……むしろ、『陽天姫』様にはこう名乗った方がよろしいかしら? わたくし、『月天姫』の位をいただいておりますの」


 ふふ、と微笑む姿は、確かに社交界でも名高い美姫である。

 確かアントンの言葉では十六歳とのことだったけれど、それでこの美貌だというなら、皇帝陛下などすぐに落ちるのではなかろうか。

 だけれど、やはり若く幼い。

 別にヘレナは何も気にしないけれど、それはヘレナが侯爵令嬢というより、一人の武人としているからである。普通の令嬢ならば、こちらからの問いかけに対して無視をするような真似をされたら怒るだろう。

 十歳以上年上のヘレナから、やんわり注意してあげるのも優しさだ。


「そうでしたか。では『月天姫』様、これからよろしくお願いします」


「ええ。こちらこそよろしくお願いいたしますの、『陽天姫』様」


「ですが、一つ苦言を……少なくとも、先程のような態度はよろしくありませんよ。あのように露骨な真似をしては、不愉快になる人もいるかもしれませんからね」


 立場としては『陽天姫』と『月天姫』。

 地位としては侯爵令嬢と伯爵令嬢。

 年齢としては二十八と十六。

 全てにおいて一応同格か上にあるわけだし、多少の苦言はいいだろう。


 だが――シャルロッテは、露骨に眉根を寄せた。


「それから、随分と侍女が多いようですが……確か、後宮の規則では一人の随伴のみを許す、とされていたのでは?」


「……たった一人では、わたくしを守れないと相国閣下が遣わした者ですの」


「それはおかしな話ですね。陛下のご威光そのものである後宮において、命の危険などあるはずがありません。己の身の回りのことも出来ない懶惰な女に、陛下が心惹かれるというならば仕方ないですがね」


「……っ! で、ですが、侍女の一人も伴わずに入宮をするというのも、見苦しいものですの」


「己の身くらいは自分で守れる、という矜持は持っておりますので。さて……それではこれで失礼いたします。これからお隣同士ということで、よろしくお願いします」


 あーあ、と心の中だけでヘレナは舌を出す。

 できれば仲良くしたかったのだけれど、最後に注意をしたのが不味かったらしい。さすがに十六になったばかりの女の子では、注意と叱責の区別はつかないだろう。

 それに加えて、あんなにもあからさまな規則違反は、さすがに目につく。女官長に見つかったらやばいよー、と伝えたかったのだが、伝わっただろうか。


 そんな風に、『月天姫』の部屋から出るまで。

 ヘレナの心は益体もない思考で占められ、部屋を出るまでに与えられた殺気混じりの鋭い視線には、気付かなかった。

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