気狂い少女と犬の騎士

化野知希

I. -The little, little wish- / ―― 堕落した幼女は、そのコボルトを嘲笑う

夜明け

 ふたつの大国の境には、豊かな春の足音が近づいていた。

 山々は若葉をたんとこさえ、街路は春雨はるさめにぬかるんでいる。傍らでは焼け落ちた民家と、いくつかの墓標が高い空にいだかれている。顔をあげれば、桜花が今か今かと花開く日を待ち続けていて。大きないくさが残した傷痕は消えずにあれど、大地はそれさえも受容し、ともにとけこみつつあった。

 青鹿毛の犬人コボルトが、毛足の短い大型犬と連れだって歩いてくる。そのコボルトの背は、同族の中では高い方かもしれない。だがそれでも一ツ半とわずか。先を歩く犬が立ち上がれば、ゆうに押し倒せるだろう。

「うーん、やっぱり満開とはいかないね。二分咲きってとこかな、ハイン?」

 犬には似つかわしくない流暢なルテニア語で、犬人に話しかける。コボルトは犬のような顔をしているものだが、ハインと呼ばれたコボルトも多分にもれず毛足が長い。寝癖頭をぼりぼりとかき、懐から煙草けむりぐさを取りだすと、彼は魔力の火をともした。立った耳をくるりと巡らせるとひと呼吸ふかし、濃い紫煙を吐きだす。

「昨晩よりは咲いてるな。帰る頃には見頃だろ」

「ホント? やたっ、たのしみー!」

 そう尻尾を振ってはしゃぐ犬に、ハインは困ったような嬉しいような、柔らかな笑みを向ける。吐息は朝陽を浴びて、薄く色づいた。

「お前も物好きだな、リタ」

「何よ、犬だから?」

「……いや。嬉しいよ」

 むっとした顔さえも愛しいように笑うが、煙草をふかして隠してしまう。

「ハインさあ――あれ? 何、あいつら」

 リタという名号の犬は何か言いかけたがひっこめ、耳をぴんと立て警戒する。ハインが目をやると、何人かの身なりの悪い男が歩いている。ハインはこの地に馴染みがないが、それでも彼らが農夫でないことくらいは分かる――いや、むしろよく知ってすらいた。くたびれた革の鎧、いくつもの短剣や長剣、肩にかけた馬具。どちらかというと、の方が近い。そしてそうならば、このような農村に用はないはずだ。

 間が悪いことに、奴らはハインが今まさに出てきた酒場に入っていく。

「まずいな。宿にはまだルオッサがいる」

「追っかけようよ!」

 リタが言うのと、ハインがその背に騎乗するのは同時だった。這いつくばるような前傾姿勢でハインが構えると、あどけない表情をきりりと引き締め、リタは疾走する。


 ぎい、という耳障りな音とともにドアが開く。まだ弱い朝陽が狭い酒場に差しこむ。

 戸口のコボルトと、息切らす犬は見た。女主人につっかかる三人のゴロツキと、遠巻きに下卑た笑いを向ける、仲間らしい二人。部屋の隅では、ふたりの人間の子供がことのなりゆきを見ている。ひとりは主人の息子で、震えて母を心配そうに見つめている。もうひとりは前髪で目元をすっかり隠した少女で、みすぼらしいマントで全身をすっぽり覆っている。少女は白痴のように腑抜けた表情で、粥をばくばくと貪っている。

 少女はハインと目があうと、にへら、と幼い笑みをうかべた。

 、とハインは胸をなでおろす。

「だいたいよお、誰のお陰で商売できてると思ってんだあ?

 俺らが盗賊からこのドラウフゲンガーを守ってやってるからだろ?」

 仏頂面の主人は、何も言わずにカウンターを拭いている。

「だからよう、ちいとばかし感謝を形にしてくれてもいいんじゃねーの?」

 もう一人がナイフを舐める。

 つまらないな、とハインは思った。同時に、リタの心がそわそわと浮き足だっているのを感じとった。言いたいことはわかる。リタの竹を割ったようにまっすぐな性格を、ハインはよく知っていたから。だが、今回ばかりは義憤で余計な騒ぎを起こしたくなかった。ハインの気持ちが伝わったのか、リタは耳を伏せる。ハインは足音を潜めて歩みより、銀のロケットをいじっている仲間へ「とっとと出るぞ」とささやいた。

 だが、犬人だというだけで、ハインは十二分に目立っていた。

「あ? 何をコソコソやってんだ?」

 後ろのテーブルに控えていたゴロツキが立ちあがり、剣の柄を握る。

 舌打ちひとつ、溜息ひとつ。ハインは振り返る。そのさまにルオッサはにたりと笑う。

「何も」

 床板が悲鳴をあげる。

 自分よりふたまわりは大きい男を、ハインは耳を張ってにらみつけた。

「俺は宿賃を払った。用が済んだから出ていく。ただそれだけだ」

 屹然きつぜんと返すその姿は、喧嘩を売るも同然。主人に絡んでいた三人も、座っていた二人もゆっくりと歩み寄る。

「犬人のチビが何だって? 小さくて聞きとれねえなあ?」

 げらげらと示しあわせたように四人が笑う。ハインはわざとらしい溜息を聞かせる。

「聞こえないならもう一度言ってやるよ。どけ、と言っているんだ。

 自分じゃおまんまも稼げないウジ虫どもにな」

 男たちの表情と、場の空気が凍りついた。次には形にならない怒声が剣を引き抜かせる。だがその剣はあまりにも未熟で、遅すぎた。ハインにはその刀身があらわになるのを視認してからでも間にあった。

 最小の動作と圧縮した音声要素で、呪文を構築する。刹那、親玉の襟首がハインの手元に超常の力で吸いつく。間髪入れずにその顔面を床に叩きつける。

 派手な破砕音、土埃。

 呆気にとられたゴロツキどもが我に返ると、床から人間が生えていた。

「な、なんて馬鹿力だこの犬ッコロ! き、今日のところは勘弁しといてやる、覚えてろ!」

 泡ふく仲間に顔を青くし、助け出すや、ひいこら捨て台詞を吐いて逃げていく。隣ではリタが嬉しそうに飛びあがり、尻尾を振って吠えたてた。

 既に男たちから興味をなくしていたハインは、人ひとりを投げた自分の手を見ていた。かすかな痛みが残っているほかは何ともない。投げ飛ばす直前、何らかの魔力を感じたから手加減したが――自分は非力だ。とても人間ひとりは持ちあげられない。

 とすれば。

 振り返ると、ルオッサがにへ、と笑っている。その手元では聖印イコンの残光が消えていく。

「余計なことをするな、ルオッサ!

 気づいたからよかったものの、一歩間違えば殺していたんだぞ!」

 ハインは肩をいからせて怒鳴った。その剣幕にひるんだのはリタで、当の本人はだらしない表情で首をかしげる。

「んぁー? よけいだった? ごめんねー」

 何か言いたそうなリタの顔を見、時間の無駄かとハインは煙草を取りだす。

「えらく小さな客が来たと思っていたけれど、やるじゃあないかい。犬の旅人さん」

 ハインが顔をあげると、酒場の主人が感心した顔で見下ろしていた。そばでは主人の子が顔を輝かせている。

「忘れていた」とハインは煙草をしまい、代わりに金貨を一枚、カウンターに置いた。

「店を荒らしてすまない。これで足りるだろうか」

「わあ! これって金貨?」

「これアントン、お待ち」

 初めて見る金貨に興奮する息子を制して、主人はいぶかしそうにコインを手に取った。そして奥歯でかむや、ぎょっとした顔でコボルトを見る。

「あんたたち、カタギじゃないね?」

 目を伏せる。沈黙が肯定した。

 が、重い空気を破って笑いだしたのは、主人だった。

「気持ちのいい犬だねえ! 気に入ったよ。悪いけどこんな大金、受け取れないねえ。第一、あいつらにはほとほと迷惑しててね。あいつらのあんな顔を見れただけで十分さ」

「そういうわけには……」

 押し戻された金貨を指先で止め、

「――じゃあ、今日から一週間いさせてくれ。余りは……そうだな、何か飲ませてくれ。こいつらにも、もう少しいいものを食わせてやってくれないか」

 少し悩んだ顔をしてから、ようやく主人はコインを受けとった。すぐに息子に貴重な干し肉を細かく切らせ、自分は清酒を注ぐ。

「肴は何にする?」

「何も――いや、それじゃこのあたりの話を聞かせてくれ。昨日、着いたばかりでね」

 ハインは手慰みに酒を少し口に含んだが、その顔がはっと開いた。気苦労がにじんでいるしかめっつらがほどけるのを見て、主人は微笑んだ。「いい酒だろ?」

「ああ、帰ってくるのが楽しみになるな」

 短冊切りにした干し肉を持ってきた少年は、リタの前に皿を置いた。

「なあなあ、あんたって何してる人? 商人? 旅芸人?」

「これでもいい年なんだ。あんたはやめとけ、アントン」

 大事そうに酒を含みながらたしなめる。対するアントン少年はきょとんとする。

「そうなの?」

「犬人の年は分からんだろうから、気をつけな。これでも三十手前だぜ。いい年して魔物狩りで食っている便利屋さ。アントン、お前は俺みたいにはなるなよ」

「ハインはカッコいいよ!」

 口から肉片を飛ばしながら、リタが文句を飛ばす。

 途端に店内は静まりかえった。

「しゃ、しゃべったー!?」

 あーあ、と言わんばかりにハインは顔を背けた。当のリタは真面目な顔で直立し、後ろではルオッサがけたけた笑っている。

「おちついて聞いてくれ。俺の乗騎は、高名な秘術師に呪文をかけられている。人間並みに話せるが、それだけだ。安心してくれ。

 ――こらリタ、人前では話さないって約束だったろ」

「ごめんなさい……」

 しゅん、と耳を首に沿わせるリタの仕草は、あまりにも人間臭かった。アントンが興味深そうにじっとリタを見つめると、どこかとぼけた表情でリタは見つめ返した。

「ハインって言ったね。あざはあるのかい?」

「……名乗り遅れたな。ハイン・ランペール、ハインと呼んでくれ。こいつはリタ、俺のアシだ」

「よろしくー! おばちゃん、このお肉おいしい!」

 しばらくまじまじとリタを見ていた主人だったが、リタの朗々快活な姿に思わずくすりとする。そこでハインは振り返り、呆けた顔でリタとアントンのやりとりを見る少女に眉をひそめた。

「おい、お前も何か言え。ルオッサ」

 んあ、と赤髪の少女は主人を見た。その表情は知恵遅れと疑わせる。

「んーと、えとね、あたしは、ルオッサ。教会にいたから、みょうじはよくわかんない。おとーさんからいわれたこと守ってたらね、少しだけど、神さまからをわけてもらえるようになったの。あ、おとーさんっていっても本当のおとーさんじゃないんだった。おとーさんはね……」

「もういい、ルオッサ」

 少女は思いついたことを片端からまくし立てるが、ハインの渋い顔に止められ、そうなの、と首を傾ける。他方、主人は面食らった顔をハインに向ける。

「驚いた。あの年で聖儀僧クレリックなのかい。さぞや“一陣の風”様に愛されたんだねえ」

 少女はぼんやり、空になった皿を見つめている。

「ルオッサ、すごいって褒められてるぞ」

 そう言われて初めてルオッサは、にへーっとたゆんだ笑みを浮かべた。

「お嬢ちゃん、物足りないかい。何か食べたいものはある?」

「ほんとはお肉たべたいんだけどお、おとーさんがダメっていうの」

「次に好きなのは?」

「おさかなあ!」

「はいはい、それじゃあ用意してやろうね。塩漬けしかないけど、勘弁しとくれね」

 一連のやりとりを、ハインはうんざりした顔で聞いていた。仏頂面のハインに、料理をしながら主人は話しかける。

「肴がまだだったねえ。とは言っても、最近じゃさっきみたいな兵隊崩れがやれ酒だ、やれ飯だと、タダで食ってく話で持ちきりさ」

「ほう、それはコトだな。あんなのが四六時中来ては、商売あがったりだろう」

「そうなのよ。ああでも、ずいぶん減った方なんだよ。オッペンハイムから来た領主様がね、兵隊でとっちめてくれてるのさ」

 ハインが顔をあげた。

「それはいい人物だが……ここは確かドラウフゲンガー領じゃなかったか?」

「ああ、そうさね。けど、アルフレート様はもう年でね……耄碌もうろくしちまったんだよ」

 後の方は声を潜め、言ってから窓の外をちらとうかがった。ハインは残念そうな顔で、

「そうか。噂に名高い“桜花公”も、寄る年波には勝てなかったか……だが、ご子息は?」

「子宝に恵まれなくてね。前にどこからか養子をとったんだけれど、その方もアルフレート様がいくさにやってしまってねえ……。ちょうど、その子くらいの年格好だったよ。生きていたなら、見目麗しい方になっていただろうにねえ」

 彼女にしては珍しく視線を感じたらしく、ルオッサは「んあ?」と主人を見た。

「なるほど、それで新しい代官が統治に来たというわけか」

「そうそう。オッペンハイム様はいいお方だよ。

 一昨年は不作だったんだけど、税を減らしてくださるわ、昨年の豊作でも『まだ蓄えが少なかろう』、って税を据えおいてくださるわ。私財で兵を雇ってあたしらから兵を取ることもなされない。ただ、ねえ……」

 思わぬところまで口が滑ってしまったのか、主人は口をつぐんだ。魚が焼ける音と、香ばしい香りが充満する。間に耐えられなくなったのか、リタが口を挟む。

「ただ、どうしたの? “一陣の風”の教えを実践するなんて、とても立派な領主様じゃない。このご時世、私服を肥やすのにご熱心な領主も珍しくないのに」

「……実はね、最近、子供が神隠しに遭うんだよ」

「神隠し? さらわれるじゃなくて?」

 リタの歯に衣着せぬ言い方に、隠しても仕方ないかと主人は口を開く。

「さらわれてるのかもしれないねえ。でも、余りにも忽然こつぜんと消えちまうんだよ。うちはダンナの忘れ形見のアントンひとりだから、心配でねえ……」

 アントンの表情にも、さっと影がさす。

「隣のハンスもいなくなっちゃったんだ。薪拾いがおわったら遊ぼう、っていってたのに。……ハンスだけじゃない。ギードも、ホルガー兄ちゃんもなんだ」

 アントンは恐怖を隠しきれない様子でうつむくと、店の奥へひっこんでしまう。

 ハインはリタの干し肉を拾いあげ、一切れかじり、

「代官殿には?」

「何度も申しあげてるよ。でも、毎度つっぱねられちまうのさ。あたしらを疑いたくないのかもしれないけれど、ここまで何にもしてくれないとねえ……」

「そうか……。それは不安だろうな」

「悪いね。よそ者のあんたに、酒のまずくなるような話をして。

 はい、お嬢ちゃん。しゃけだよ」

 ルオッサは目の前に置かれた料理によだれを垂らし、お祈りも忘れてナイフ一本でかぶりつき始める。

「コボルトのおじさん!」

 そこでいきなり、アントンが両手を握りしめて走ってきた。

「おじさん、便利屋なんでしょ? あんなに強いし、おじさんなら人さらいをやっつけられるよね? これ――おれのこづかいなんだ。全然足りないと思うけど、残りは大人になったら、きっと払うから……!」

 手の中には、二十枚にも満たない銅貨があった。

 ふと、ハインは、自分がどこか遠くに吸いこまれるような心地になって、そのコインを見つめていた。そして、その小銭がまぶしいかのように目を細めた。

「……馬鹿か。寝言は寝て言え」

 そう、両手を押し戻されて、アントンは泣きそうな顔になる。だが、

「そんな綺麗すぎる金は受けとれない。それに、その依頼はもう前金を受けとっている」

「え?」

「大丈夫! ハインなら何とかしてくれるよ!」

 リタが得意気に少年に声をかける。訳が分からず、きょろきょろするアントンの肩に手をおいて、主人がいう。

「あんたたち、訳ありなんだね?」

気遣きづかい痛み入る。

 これ以上は話せないが、きっと力になると約束しよう――“一陣の風”フラフィンの名の下に。だから、どうか他の村人や兵士にも他言しないでくれるか」

「もちろんさ。晩飯の時間には帰ってくるんだよ、豪勢な料理を用意しとくからさ」

「おじさん……。みんなを助けてね、約束だよ」

 うなづいて、ハインは酒を飲み干した。リタに目配せし、店を出てゆく。足踏みし、今か今かと待っていたリタが後に続く。

 一呼吸おいて、おいてけぼりを食ったルオッサが、食べかけのまま飛びだしていく。


 追いついたルオッサは、注意深く辺りに視線がないか確認してから、別人のように上品な仕草で口元を拭った。ハインはリタに伝書を持たせ、先行させる。

 リタの姿が見えなくなってから、横に立つ人間の少女に声を投げかけた。

「次の作戦はあるか、ルオッサ?」

「誰に口利いてンだァ? それよかハイン、偽名はいいがカタギに喋りすぎだ、ヤキが回ったか? 死ぬぜェ、あの親子」

 ルオッサという名の少女は、ケダモノそのものの眼光で犬人を射抜き、にたりと口が裂けるほど笑った。ハインは忌々しくにらむが、目を落としてその言葉を受けいれた。

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