とある男子の物語
鱗卯木 ヤイチ
第1話
滑る様に健ちゃんは、レーンに向かって進み始めた。歩く速度を少しずつ上げながら、上半身や両腕をそれぞれ別個に動かして投球のフォームに入る。その動作にぎこちなさはまるでない。『流れるように』という表現はこういう時に使うのだろうなぁ、と僕はそんなどうでも良いことを思った。
健ちゃんは右手を振り下ろした最下点でボールを放す。特に力を入れていたわけでもないのに、健ちゃんから放たれたボールはすごいスピードでボーリングレーンを進んでゆく。ボールは大きく右に反れたかと思ったけれど、ピンに届く数メートル手前で、急に進路を左へと変えた。そのままボールは1番ピンと3番ピンのちょうど真ん中から、林立するピンの中へと押し入る。そしてボールは、まるでミキサーの様にピン達をかき回してゆく。そんなボールの傍若無人な振る舞いにピン達は成すすべもなく、軽いけれども派手な音を立てて弾け跳んだ。
「っし! 本日2回目のターキーいただき!!」
3連続ストライクを決めて、健ちゃんは右腕でガッツポーズを作る。今のストライクで8フレーム目のスコアが確定した。この時点で170を超えている。残す10フレーム目で大きなミスをしない限り、スコアが200を超えるのは間違いなさそうだ。
「綾さーん、見ててくれました? 俺のターキー!」
健ちゃんは僕たちが座っている席へといそいそと戻ってくる。まぁ、お目当ては篠原さんだろうけど。健ちゃんはハイタッチをせがむ様に右手をヒラヒラと突き出している。
「あー、ごめん、見逃したわ」
篠原さんが本気とも冗談ともつかない感じでそう言うと、面倒くさそうに健ちゃんの右手を思いっきり叩いた。バチンと響く音に僕は思わず首を竦めてしまう。それでも健ちゃんは篠原さんとハイタッチが出来てとても満足そうだ。その逞しさが僕はとても羨ましい。
健ちゃんは僕の幼馴染で、幼稚園、小学校、中学校、そして高校と同じ学校だ。健ちゃんは見ての通りスポーツ万能で明るく、社交的で誰からも好かれるタイプだ。それに対して僕はと言えば、人と話すのも身体を動かすのもあまり得意ではなく、誇れるものと言えば読書量が人より多いくらい。つまり根っからインドア派、悪く言えば陰キャだった。そんな僕たちだったけど、不思議と健ちゃんは僕の事を気にかけてくれ、僕も健ちゃんとなら心安らかにいられた。
健ちゃんは昔から当然モテたのだけれども、これまで誰かと付き合ったとか、誰かが好きだとか言う話を聞いたことが無かった。しかし、高校に入ってから、健ちゃんは篠原さんに心を奪われた。一部の男子の子供じみた振る舞いを、篠原さんが一喝して場を治めた事があった。その篠原さんの姉御然とする立ち振る舞いに、健ちゃんは完全にやられてしまったのだ。健ちゃんのそんな様子を見て僕は、そう言えばこれまでこういうタイプの女子はあまりいなかったな、とひとり合点がいったのを覚えている。今では健ちゃんが篠原さんを好きなのは公然の秘密ではあるのだが、篠原さん本人が健ちゃんをどう思っているのかは誰も知らない。
もしかしたら、篠原さんと仲の良い早川さんなら知っているのかもしれない。僕は隣に座る早川さんを盗み見た。
「へーい、ひなたちゃんも見てくれたー?」
軽いノリで、健ちゃんは早川さんに手を差し出す。
「はい。……す、すごかったです」
おずおずと、と言った感じで早川さんは右手を上げ、健ちゃんの右手に軽く触れる。はにかんで俯く早川さんの、そんな嬉しそうな横顔を見て、僕は身体の中身の全てがかき回されるような、そんな気持ちになる。
「ひなたー、そんな事言うとつけ上がるからやめときなって」
「綾さん、そんなぁ……」
篠原さんの無情な突っ込みに、健ちゃんはがっくりと肩を落とす。もちろんお互い冗談なのはわかった上でのコミュニケーションだ。
健ちゃんと篠原さんのやり取りを早川さんは羨ましそうに、そして少し寂しそうに見つめている。そしてそんな早川さんを、僕は見つめていた。身体の中のぐるぐる感は止まりそうになかった。
「じゃ、次はひなたちゃん、いってらっしゃーい!」
「ひなた、頑張ってね!」
健ちゃんと篠原さんの激励に、早川さんは小さく首を縦に振った。早川さんの髪の何本かがハラリと零れる。その様子は、僕が早川さんを初めて意識したあの時の光景を思い出させた。
高校に入ってから数週間経った日の昼休み、僕は誰と話すわけでもなく、いつも通り家から持ってきた本をひとり読んでいた。
本に集中し始めると、同級生達の声はいつしか聞こえなくなり、僕は本の世界の住人となった。本の世界では僕は何にでもなれたし、ひとりの人間が一生かかっても出来ないような経験をいくつもした。時には名探偵になって事件を解決したし、許されない相手との恋もした。勇者となって邪悪な敵を激闘の末に打ち破ったし、外宇宙からの侵略者を撃退したりもした。
僕は困難に打ち勝ち、ハッピーエンドになる物語が特に好きだった。物語の登場人物達が歩んだ道を辿るだけで、僕自身が困難を克服し、幸せな結末を迎えられた気分になり爽快だった。
突然、気まぐれな春の風が、開けっ放しにしてあった窓から教室の中へと入り込んだ。僕が本から顔を上げると、春の風はいくつかの机の上からノートやプリントなどを吹き飛ばしていた。楽しそうな声を上げる同級生達。
視界の片隅でひとりの女生徒が席を立った。その女生徒は開けっ放しになっていた近くの窓を閉める。そしてまた、彼女は自分の席に戻ると小説らしき本を開いて、目を落とした。肩くらいまで伸びていた彼女の髪が、眼前へと流れ落ちる。彼女は本に目を向けたまま、右手で零れた髪をすくい上げ耳にかけた。その彼女の一連の動作に、僕は何故だか目を奪われた。良く見る光景だったはずなのに、何か特別なものを見た様な、そんな気持ちに僕はなった。
その後、本の続きを読もうとしたけれど、全く内容が頭の中に入ってこなかった。僕はもう本の世界の中に入り込むどころでは無く、気づけば先程の女生徒の方へと目を向けてしまう有様だった。それが僕と早川さんの本当の意味での出会いだった。
その事を健ちゃんに話すと、そーか、そーか、お前もついに……、と訳知り顔で笑われたが、どんぐりの背比べかな、と僕は内心思っていた。
その後偶然にも、早川さんと篠原さんが中学時代からの友人であることがわかった。
そこからの健ちゃんの行動は早かった。篠原さん目当てで健ちゃんが暗躍してくれたおかげで、今では篠原さん、早川さん、健ちゃん、僕と4人で一緒に行動することが多くなった。今日の様に4人で遊びに行く事も少なくない。
健ちゃんの行動力に僕は素直に感謝し、尊敬をした。僕ひとりでは到底成し得なかった偉業だった。
でも、ひとつだけ計算違いがあった。
早川さんの2投目がガターに入り、9フレーム目のスコアに73が表示される。そのスコアを見て、早川さんは肩を落としながら席へと戻ってくる。
「ひなた、ドンマイ!」
「惜しかったねぇ! ひなたちゃん」
篠原さんと健ちゃんが早川さんに声をかける。苦笑いを浮かべる早川さんに、健ちゃんはドンマイ! と言って軽くハイタッチをする。それだけの事で早川さんの表情は花が咲いたように綻んだ。
何度も目にした光景に、僕の心はまた萎みそうになる。
早川さんは、健ちゃんの事を好きなのだろうと、僕は思っている。そしてそれはほぼ間違いはない。早川さんが健ちゃんと話をする時の表情は、悔しいけれど、他のどんな時よりも可愛かった。健ちゃんに軽く触れただけで、その表情は華やいだし、視線はいつも健ちゃんを追っていた。
そんな早川さんの姿は、僕が早川さんに対する態度と全く同じだった。だから、僕が早川さんのことを好きなのと同じくらい、早川さんは健ちゃんの事が好きなのだと、僕は思った。
「惜しかったね……」
僕は心の内を気取られないよう努めて普通に、隣の席へと座る早川さんに声をかけた。
「やっぱり下手くそだね、私」
照れたように笑う早川さんに、そんなことないよ、と僕は言葉を返すが、それ以上何を言って良いかがわからず、ペットボトルへと手を伸ばす自分を僕は情けなく思った。
「次、川本くんの番でしょ? 頑張ってね!」
「う、うん」
特別な意味なんて無いのはわかっていたけど、早川さんが声を掛けてくれるだけでやっぱり嬉しかった。こんな些細な事で萎みかけた心が、また膨らんでいくのがわかる。
「和弥ぁー! いったれー!」
「川本、ファイト!」
健ちゃんと篠原さんの応援に、僕は軽く手を上げて見せる。
ボールを持って僕はアプローチに立った。遠くに見えるピンを見据えて、僕はゆっくりとレーンに向かって歩き出した。
――本の中の世界では、僕はその物語の登場人物が歩いた道をただ辿り、幸せな結末へと一直線に向かって行けた――。
『すごかったね』
僕もキミにそう言って欲しかった。
――でもどうやら、この僕自身の物語は、誰かが作った道の後を、ただ辿っているだけでは駄目らしい――。
僕は徐々にスピードを上げながら、右手を後ろに振り上げる。右手は振り子のように、また前へと戻ってくる。
早川さんが僕を見ていてくれているかはわからないけど……。
健ちゃんの様に格好いいフォームでは投げられないけど……。
――僕自身が、この物語の中で、無様にもがいて、傷だらけになって苦しんで、胸が張り裂けるくらい絶望して、血反吐を吐くくらい努力しなければいけないみたいだ――。
右手が最下点に達したところで僕はボールを転がした。思った以上のスピードでボールはピンに向かって一直線に向かって行く。
――僕の物語の結末を、ハッピーエンドにするために――。
ボールは、立ちはだかるピンを、今まさに倒さんとしていた。
とある男子の物語 鱗卯木 ヤイチ @batabata2021
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