パピエ・ヴェリテ

レオニード貴海

第1話

 「ごめん、仕事の電話」

 席を立つ夫。店の入口へと足早に去っていく後ろ姿を目で追いつつ、肩掛けバッグから細長い一枚の紙片を取り出す。

 ワイングラスの縁から拭き取ると、白紙は色を朱く染めた。嘘つき。エリは自嘲気味にほくそ笑む。でも知っていたわよ、こんな紙無くたってさ……。



「どうですか、精度のほどは」

「悪くないわね」

 エリは男の目を見て応える。悪くない。魔法の紙。その性能には少しく驚かされた。紙片は幾度となく予想外の反応を見せたからだ。赤は嘘。青は真実。結果は正しかった。

 営業の男は満足げに頷いた。

「自分を知るにも良い薬でしょう」

 見透かしたような目。どこかぶっきらぼうな感じはこの有用な道具のせいだろう。科学の寵児。だが危険物、劇物でもある。社交辞令は役割を終えたのだ。この試験紙の存在を知る者にとって、美しく彩られた言葉たちは苦笑を招き寄せる異臭の花へと変じられてしまった。

「見たくないものまで見えるようになったわ」

 以前まではただ路傍に転がっていただけの石ころが、いまは視界の端にうごめいている。ざわざわ、ざわざわと足数の多い不気味な節足動物のように。

 RGB旧世界よ、さようなら。新しく加わったV(Verite)あるいはT(Truth)が世界の色彩を再編成する。

 営業の男はもういちど強く頷いた。

「わかります。私も驚きましたよ。十代のころからずうっと続けていた喫煙が止められたのもこいつのおかげです。おっと、あは、いまのは聴かなかったことに。まあでも同じか」

 男はぽりぽりと後頭部を掻いた。

「私はずっと好きだと思ってたんですよね。タバコ。でも違った。いやいやそんなわけないと思ってメビウスの箱をじいっと見つめたんです。射るようにね」

 言いながら黒の革鞄に腕を突っ込み、中から皺まみれのビニルに包まれた紙箱を抜き出した。

「結構なヘビースモーカーだったんですよ。一日五十本くらいかな。でもその日からぴったり止められた。奇跡みたいに」

「魔法のように」

「そう、魔法のように」

 男は笑いながら訂正した。新製品の謳い文句なのだ。彼は無意識に、封切られた箱の口を閉じたり開いたりする、半分以上残ったままの中身が開閉の合間に見える。

「あたしがもらおうか?」

 男は首を振り、タバコの箱を元の場所へしまい込んだ。

「本音を言うとこんなもの売りたくないんですよ」

 しばらく黙り込んだあと、男はウエイターを呼び、二人分の会計を済ませた。そして冷めたコーヒーを啜りながら続けた。

「だけど科学者が見つけ、業界が目をつけた以上、どのみち誰かが製品化する。だから一緒ですよ。私も食ってかなきゃならない。最初のうちはみんな面白がって使うだろうけど、すぐに気がつく。ああ、私たちは魔法のランプを探し続けていたかったのであって、見つかることを望んでいたわけじゃないんだって」

「深い」

 男は笑った。エリも。誰も知らない秘密の合言葉を共有しているたったの二人のように、いたずらっぽく。だが彼らの秘密は間もなく周知の事実となり、世界は赤と青からなる混沌の渦へと沈み込んでいく。



 科学はパンドラのマトリョーシカだ。絶望の中に希望が、そして希望の中には絶望が。際限はない。

 そんなイメージを脳裏に描きながら、エリは一人エレベーターに乗り込み、七階のボタンを押す。シースルーのガラス壁からはロビーの全景が見渡せるが、コロナの影響で相変わらず人数は少ない。優しげなゆとりのある電子音が鳴って扉が開く。パンプスが踏むかつかつという小気味の良い音が廊下に響く。突き当り南側の壁面には安行法律事務所の文字。

 部屋に入り木製のハンガーに上着をかけ、席に座る。PCを立ち上げて一日のスケジュールを再確認しながら必要となる紙の書類を印刷する。ひととおり指示を出したあと、溜まったキューを業務用の印刷機が処理している間に引き出しの鍵を開けて中から薄い小箱を取り出す。

 パピエ・ヴェリテ。化粧品大手らしいネーミング。蓋を開けると中には白い付箋の束が五つ、整列している。


 新型コロナウイルスがもたらした、誰もがマスクをして外を出歩く風景。反発があったのも最初のうちだけで、いまではすっかり日常の光景になった。マスクを着用せずに街を徘徊する人は、それだけで不審者か、害虫を見るような目で見られる。同じように、パピエ・ヴェリテによる真偽の計測もまた、特定分野の契約締結における一般的な補助ツールとしての地位を揺るぎないものとしていた。

 黎明期、契約書へのサインと同時に唾液をつけた親指でヴェリテ紙片に押印するというやりとりは敬遠されがちだった。コロナ禍であることも相まり、感染リスクが高まるうえ、発言が嘘であることを示す赤の警告色が生じる確率が異様に高く、互いに原因がよくわからないまま契約締結が妨げられる(もしくは無視される)という状況がしばらく続いたことも普及を遅らせる要因となった。

 一旦は忘れ去られるかに見えた革命的新技術はしかし、アーリーアダプターを自称する一人のYouTuberによって復活を遂げる。彼はヴェリテの問題点を見出した。ヴェリテを用いる場合、問いに対してYES、NOで回答させるのではなく、自身の言葉で契約内容を口述させなければならなかったのだ。パピエ・ヴェリテは唾液中に含まれる特定成分に反応して色変化を起こすが、成分が分泌されるパターンに未知の問題が隠されていた。つまり、質問の内容が理解できていない場合のYESには、故意に嘘をついた場合と同様の成分が分泌されるということがわかったのだ。したがって、「Aですか?」と問われた場合に理解できないままYESと応えても、結果として紙片は朱く染まってしまう。理解できるレベルに言葉を置き換えて当人の口から発言させれば、ヴェリテは常に正常に機能した。結果的にであるが、顧客との齟齬のない意思疎通という点でも、ヴェリテが役立つということが判明したのだ。

 件のYouTuberはSNS界隈でも有名なインフルエンサーであったため、情報はまたたく間に拡散され、特定の業種にとどまらず、一般市民にまでその存在が広く認知されることとなった。

 現在では商業上の契約にとどまらず、あらゆる真偽の証明のため、ヴェリテが活躍している。警察の犯罪捜査なども比較的容易となり、少なからぬ犯罪者たちが声なき悲鳴を上げた。黙秘権のため裁判所等における被疑者発言の正誤判定に用いることは出来ないが、証人尋問では偽証罪および関連する法律が改正され宣誓の代わりにヴェリテが利用されるようになった。一方、一般人の浮気調査や婚活、入試・企業面接、金融機関における大規模融資、政治家のマニフェスト等の判定にも流用されるようになり、ヴェリテ使用を拒否する相手に対しては実質的な罰則・社会的制裁が加えられるようになった。

 パピエ・ヴェリテは未だ高価のため、一般人が軽く手を出せるような製品ではないが、諸外国を含めた好調な売れ行きと量産体制の確立に伴い価格が下落するのも時間の問題だった。



 誰も嘘をつけなくなる社会。そこはどんな場所だろう。エリは顧客リストに目を通し、今日これから会うことになる人物に思いを馳せる。弁護をする側の立場としては、顧客に嘘をつかれたのでは話にならないのだが、かと言ってヴェリテに頼るのはエリの弁護士としての、いや、彼女自身の矜持が許さなかった。エリは手にとったヴェリテをしばらく眺めたあとで、その新品の紙片の束を箱に戻した。

 壁掛時計の針が音を鳴らしている。ブラインドの隙間から差し込む朝日が、机の上に光の筋をつくる。その筋の上を、細かな糸くずが音無く舞っている。

 目を閉じて深呼吸をすると、詐欺師に騙されて事業を畳み、自殺した父の面影が浮かんでくる。エリはふと思い立って、もういちど真実の紙を箱から取り出した。そこから三枚を剥がし取る。

 しばらくヴェリテを睨み見たあと、鼻から深く息を吸い、口からゆっくりと吐いた。

「私はこの仕事を愛している」

 舌をつける。紙片は青く染まった。

「私は一人でも生きていける」

 紙片は朱く染まった。

「私は……、夫を愛している」

 紙片は青く染まった。


 三枚の紙片を破り捨てる。

 エリは中央の引き出しから離婚届を取り出し、自分の名前をもう一度確かめたあとで、力を込めて印鑑を押した。










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パピエ・ヴェリテ レオニード貴海 @takamileovil

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