第一章
額から伝った汗を拭ってグレースは果実水の入った瓶をカウンター下から取り出して口へと流し込んだ。照りつける日差しは日焼け止めを塗っていてもじりじりと肌を焼き付けてくるような気がしてカウンターに投げ出していた手をゆるゆると引っ込めた。
もう今日は閉めてしまおうか。
向かいの駅には列車が滑り込んできた所だったが降りてくる人はまばらでそのほとんどが目の前を素通りしていく。
「お届け物でーす」
それを遮るように軽快な声であらわれた届け屋は鞄から小包を取り出している。
この暑い中よく働くなぁなどと思いながら差し出された小包を受け取る。判子を押してお礼を言うと届け屋はやがて粒子となって消えたのを見送って板間に声をかけた。続く廊下の先にはおそらく支部長がいるはずだ。だが返事はない。時計は始業時間をとっくに過ぎている。再度声をかけてみたがやはり返事はない。それもいつものことだと諦めて板間に足を踏み入れて支部長の元へと向かうことにした。
店の暑さとは変わって板間はひんやりとして気持ちがいい。進んでいくと開けた場所に出た。定位置の窓の下のソファに目を向けてみたが支部長の姿はない。
どこにいったんだろう。
視界の隅をなにかが横切った様な気がして身を翻したところで鼻っ柱をなにかにぶつけた。痛さからたたらを踏んだ所を腕を捕まれ重力よろしく前へと引き戻される。予想していた痛みはなく、鼻腔には植物の爽やかなにおいが掠めた。おそるおそる目をあける。
「なにやってるんだ」
降ってきた声に視線をあげれば高い位置にある顔は半分がた髪で覆われていて「⋯⋯なにそれ」煩しそうに眉を顰めた髪の間から見える双眸は私を通り越して小包を指していた。
「支部長に、本部からです」
返事はない。
距離をとって改めて伝えてみたが眉間に寄せた皺がさらに深みを増したように見えた。
「なんで俺に」
「私は知りません」
茶色い包装紙に封蝋をして宛名は支部長名義。届人は本部となっている。
ため息をついて踵を返した背中を小走りに追っていく。
「開けないんですか」
「捨てておけ」
しつこく食い下がれば冷たく言い捨てられた。
「なに言ってるんですかそんなこと」できるわけないじゃないですか。
音を立てて閉められた扉によって続く言葉は喉の下へと消えた。
扉を隔てた向こう側は支部長の自室だ。
こうなれば立ち入ることはできない。
支部長も出てくることはないだろう。
仕方なく元来た道を小包とともに戻る。
本部からの贈り物を捨てるのは気が引けて、心の中で断りを入れてから包装紙を開けることにした。
艶がある木箱を開けると布製の吸収材の中心から小さな女王があらわれた。
「久しぶりね、トルシュカ。あなたがこれを観ていることを願っているわ。以前も話したと思いますが、いい加減帰ってきなさい。あなたもわかってるはずです。これはあなたひとりだけの問題ではないの。これは女王命令です。帰ってきなさい」
観てはいけないものを観たのではないかと慌てて蓋を閉じた。もう1度届人の名前を確認してみると、そこにはエリザベス・クイーン・ラングウッドと変わっていた。
「え、どうして、確かにさっきは」
困惑していると木箱はガタガタと揺れて手から落ちて小さな火花とともに弾けて消えた。
「そりゃあ中身を知られないためにだろ。他に知られたら面倒だからな。お前そんなことも知らないで支部で働いてたのか」
ありえないとでも言いたげな顔をされたが私が知るわけないじゃない。支部長はなにも教えてくれないんだもの。
「ああ、そうかお前記憶無しだったな。それにしても女王から個人に荷物が届くなんざお前んとこの支部長は何者なんだ」
串についた肉を豪快に頬張りながら疑問をぶつけられても私にはわからない。
私は彼を知らない。
正確に言えば私にあるのは数ヶ月前からの記憶しかない。
机を挟んだ向かいに座る彼は昔馴染みらしいのだが一向に思い出せないもののこうして時々気遣ってくれるので好感は抱いている。
「そういや今度本部に行く用事があるがなにか必要なものはあるか?」
本部に行くには通行証が必要だ。
この通行証があればどの店でも出入りができる。国からの信用が保証されているからだ。通行証を取得するには女王のサインと支部長のサインが必要になる。
私は持っていない。
支部にいれば大抵のものは手に入るけれど、本部にあるものは店頭販売のみだ。だから時折こうして彼に頼み事をしているが今回は大丈夫だと断るとちょうどラストオーダーを知らせる店員に精算をお願いして店を出た。
吐き出した息が白くなって背中へと消えた。春のはじまりをすぎてはいたがまだ夜は冷え込む。
別れを告げコートの襟元を引き寄せて支部へと帰ることにした。
少しばかり酔いがまわったのだろう。足取りはふわふわとしていたが、支部までは歩いて行ける。
そのはずだった。
身体の下から伝わる振動で目をさますと視界には草原が広がっていた。その真ん中を土煙をあげながら走っている。
「ごめんなさいね、驚いたでしょ」
声のした方へと視線を向ける。
金色のショートヘアを耳にかけた人物がハンドルを握っていた。
袖からすらりと伸びた肢体は滑らかでありながら筋肉と骨っぽさを兼ね備えている。たぶん、男の人だ。
「私はフローラ。あなた名前は?」
「⋯⋯グレース」舌が言葉を転がしていく。
「可愛い名前ね。それで、あなたどうして道端で倒れ込んでいたのか聞かせてくれる?」
「⋯⋯道端?」
「ええ」
「⋯⋯あの、ここは一体」
「あと少しもすれば着くわ。本部に向かう途中であなたを拾ったんだけれどあなた目を覚さないし私は私で時間がなくて一緒に連れて来たってわけ。用事が済んだらすぐに帰るわ。悪いけど待っててくれるかしら」
一気に話出されて反芻して理解するのに時間がかかった。会話からは悪い人には見えないけれど。
「⋯⋯用事?」
フローラの指した後部座席には花がたくさん飾られていた。
「お花屋さんですか?」
「まあそんなところよ」
端的に答えたフローラはこちらの問いにはこれ以上答えてはくれないような気がしてグレースは口を閉じてただ流れに身を任せることにした。
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