45 初仕事

 卒業論文も無事提出し、一息ついた。石川県まで取材へ行ったのだ。評価には自信がある。

 卒論さえ提出してしまえば、後はそんなに講義があるわけではない。そんな折、内定先の洋食店から連絡があった。



「急に退職者が何人も出たから、先に研修がてら、アルバイトですか?」

「他にもアルバイトの急募をしているんだが、なかなかいい人材がいなくてね」

「わかりました。大学の講義もほとんどないですし、正社員になる前に、仕事を教えてもらえれば嬉しいです」


 来月初めから働きに行くことになった。働くことは初めてなので緊張する。

 失敗して迷惑はかけないだろうか、お客様に失礼なことはしないだろうか、職場の人間関係は上手くいくだろうか。


「最初から誰も上手に働けませんよ。失敗しながら仕事は覚えていくんです」


 征士くんにそう励まされ、サークルはしばらく休むことにして、仕事へ行った。


 ♦ ♦ ♦


 職場のレストランへ行くと、制服を渡された。


「今日はホールでの接客を覚えてもらう。ランチタイムからは外れているから、ディナータイムまでにお冷の作り方や、出し方、備品の場所など覚えてくれ。もう少し後から、もう一人新人アルバイトが来るから一緒に覚えてくれ」

「はい。わかりました」


 新人が自分だけでないのは何となく心強い。渡された制服は、白ブラウスに黒のベスト、同色のタイトスカート、蝶ネクタイだ。ストッキングと黒の靴は自前だ。

 更衣室で着替えてから、職場の人達に紹介してもらう。皆、優しそうで、明るい雰囲気だった。

 指導員がついてくれた。宮西さんという、比較的若い正社員の男性だ。


「虹川は、俺の後輩社員になるからよろしくな」

「こちらこそ、物覚えが悪いかもしれませんが、よろしくお願いします」


 そこへもう一人の新人アルバイトだという人が現れた。既に制服に着替えていて、白ワイシャツ、黒のベスト、黒のパンツスタイルで蝶ネクタイは女性用よりも大きい。


「えっ?! ま……瀬戸くん?!」

「はい。こんにちは、虹川さん。新人アルバイトの瀬戸です」

「何だ、虹川。知り合いか?」


 まさか、征士くんが職場まで来るとは……。


「……。はい。学校の、後輩です」

「そうか。知り合い同士なら仕事を教え合えるだろう。二人ともよろしくな。指導員の宮西だ」


 その後征士くんは、宮西さんに職場の人達に紹介してもらっていた。私は隙を見て、征士くんに耳打ちした。


「ちょっと。来るなんて聞いていないわよ」

「バレンタインのとき、就職先が決まったら絶対行くって話したじゃないですか」


 詭弁だ。私が職場で何かやらかさないか、過保護にも見にきたのだろう。


「じゃあ二人とも。お冷の作り方から教えるな。まず、ここにグラスがあるから、この氷のストッカーからグラスへ氷を入れて……」


 宮西さんの指導が始まったので言われる通り必死で覚える。お冷とおしぼりをトレイに乗せて運ぶ練習もした。トレイは銀製なので、うっかりするとお冷が滑る。

 私がもたもたと覚えているうちに、征士くんはしっかり備品の置き場所も、トレイでの運び方もマスターしてしまった。今は宮西さんにメニューとオーダーの取り方を教わっている。


「瀬戸は物覚えが早いな。ディナータイムにはオーダーも取ってもらえそうだ。虹川はまあまあだな。まずはお客様にお冷を出してみよう」


 宮西さんにそう言われ、少し不貞腐れる。征士くんが頭がいいのも、要領がいいのも、よく知っている。敵わないのを承知の上で悔しいのだ。

 とにかく教わった通り、お冷を作り、慎重にお客様へ運んだ。征士くんはその他にオーダーも取っていた。

 ディナータイムは比較的空いた座席状況で、焦って失敗することはなかった。

 時間になり、征士くんと仕事を上がる。お先に失礼しますと言ってお店を出た。

 帰りがけ一緒に歩きながら、征士くんに文句を言った。


「まさか、私の職場まで来るなんて……。すごく驚いちゃったじゃない。どうしてアルバイトに来たの?」

「飲食店では指輪ははめられないので不安だったんです。それに僕、勉強はしていますけど、実際に働いたことはなかったですし。アルバイトして、お金を稼いでみたかったんです。ちゃんと学校にはアルバイトの許可を取りましたよ」

「……それにしたって、何も同じ職場じゃなくてもいいじゃない。他の勉強やサークルはどうするのよ」


 仕事で先を越されているので、文句を連ねる。そんな気持ちが伝わったのか、征士くんは言った。


「経営学は実地で働くということで、話はまとまっています。虹川会長も月乃さんが働くことを心配していましたし、僕が時々見ていれば安心だと仰っていました。サークルは月乃さんがいないのでは行く意味がありません。僕は高等部生ですし、シフトにあまり入れませんから、月乃さんの方が早く仕事を覚えますよ」


 順序立てて滔々と説明される。過保護だ。過保護すぎる。


「絶対に征士くんよりも先に、仕事を覚えるんだから!」


 握り拳を作って宣言する。征士くんは可笑しそうに笑った。


「はい。是非先に仕事を覚えて、僕に教えてくださいね」


 過保護な婚約者はしっかり夜道をともにして、私の家まで送っていった。

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