36 名前を呼んでください
帰りの新幹線の中でジャケットを脱いだ。それでも温かい格好をしてきたので、車内は暑く感じる。征士くんが飲み物を出してくれた。
「ありがとう。あれ、お酒? いちご味のチューハイ? 珍しいわね」
「はい。僕も珍しいと思って買ってみました。一缶くらいなら、いいでしょう」
「そうね。一缶くらいなら大丈夫だと思うわ」
あまり飲んだことのないフルーツ味に心惹かれて、タブを引っ張り開けた。征士くんはペットボトルのお茶を飲んでいた。
「美味しい……けど、ちょっとアルコール度数高め? まあ、喉渇いてるし……」
ありがたく喉をうるおす。長旅の帰りで、少し疲れている。アルコール多少回っちゃうかしら……。
一缶飲むと、私はほろ酔い加減になった。別に立ったり歩いたり出来ない訳でもなく、気持ちがいいだけだ。
「瀬戸くん~。今日は連れてきてくれて、ありがとう~」
「あれ。虹川先輩、酔っていますか?」
「ん~、ほろ酔いっていうか、気分がいいだけ~」
私は機嫌良く、にっこり笑いかけた。
「今日は本当に楽しかったわ。あしか、すごく可愛かったし、触れちゃったし~」
「虹川先輩の方が可愛いですよ。……ねえ先輩、お願いがあるんですけれど」
「何~? 連れてきてくれたお礼に、何でも聞いちゃうわよ」
軽く答える。征士くんがこちらを向いた。
「久しぶりに、名前で呼んでください」
「何だ、そんなこと。征士くん」
「もう一回いいですか?」
「征士くん~。何ですか~?」
別に名前くらいどうということはない。言われるまま、名前を呼んだ。
「僕も今だけ名前で呼んでいいですか?」
「勿論、構わないわよ~」
「月乃さん」
「はい。何かしら、征士くん?」
征士くんはぴったりと、私の身体にくっついてきた。
「月乃さん。月乃さん」
「はいはい。何でしょう、征士くん。甘えん坊さんね~」
「月乃さんは今、僕のことどう思っています?」
彼はゆっくり、私の手に自らの手を重ねてきた。私より体温が低くて、冷たくて気持ちがいい。
「征士くんのこと~? あんな楽しい水族館に連れてきてくれて、優しいお友達だと思うわ」
「……お友達以外に、何か思っていますか? 月乃さん」
「お友達以外で? あ、そうね~。夏休みのとき、英語話してくれたの格好良かったわ。すごくいい発音で、いい声で、聞き惚れちゃったわ~。おかげでどきどきして勉強にならなくて、テストはぎりぎりだったわよ」
征士くんはそれを聞いて、少し考え込んだ。そして、私の耳に囁きかけた。
「I like to take care of the time with you in the future. Let's get married.」
(今後も君との時間を大事にしていきたい。結婚しよう)
「相変わらず聞き惚れちゃう英語ね~。でも何て言ったの? あいらいく……」
「好きって言ったんですよ。僕が月乃さんのこと、好きなことを知っているでしょう? Yesって答えてください」
「わかったわ。イエス」
「はい、月乃さん。ありがとうございます。いつか日本語で言いますね」
征士くんはものすごく幸せそうに笑った。さらさらの黒髪が揺れる。私は無性に触りたくなって、征士くんの髪を撫でた。
「何ですか? 月乃さん」
「征士くんの髪、すごく綺麗な髪よねえって思って。前から触ってみたかったのよ。私は自分の髪、すごく丁寧に手入れしているのに、それよりずっと綺麗だわ」
「僕の髪で良かったら、いつでもどこでも触ってください。でも、月乃さんの髪の方が綺麗です。僕も触っていいですか?」
「どうぞ~」
征士くんは愛おしそうに私の髪を梳いた。長い指が髪を滑り、頬も撫でる。
「やだ、くすぐったい。征士くん、何するのよ~」
「月乃さん、好きです」
「知っているわ。合宿のとき、一年の子に好きって言われていたわね」
彼は、驚いた顔をした。
「知って、いたんですか?」
「偶然、見かけただけ。でも断っていたわね。可哀想に」
「当たり前です。僕が好きなのは、後にも先にも月乃さんだけです。好きになってもらえるまで頑張ります」
くすくすと私は笑った。
「そんなに好かれて光栄だわ~。こんなに格好良い人、私なんかにもったいない。文化祭のときは、すっごく素敵だったわ。何か、征士くんの写真撮っている女の人に、ちょっと嫉妬しちゃった。征士くんが好きなのは、私なのに~って」
可笑しいわよねと私が言うと、征士くんはぎゅうっと私の肩を強く抱いた。
「全然、可笑しくありません。嬉しい、です。月乃さんにそう思われて、すごく嬉しいです」
「そうなの~?」
「そうなんです。嬉しいです」
征士くんは私の肩に顔を埋めた。さらさらの髪が頬に当たる。やっぱり私より、綺麗な髪で悔しい。
「でもねえ、バレンタインのチョコレートを断るのは女の子に優しくないわ。こんなに征士くんは、お顔も髪も綺麗で、頭も良くて、普段優しいもの」
「何言ってるんですか。折角月乃さんが、僕のことを意識し始めてくれたのに。意地でも断って、月乃さんが作ってくれる大きなチョコレートを食べます」
「あらあら、それじゃ玲子ちゃんの言う通り、大きいチョコレートケーキを焼かなきゃね~」
こーんな、大きなの、と玲子ちゃんがしたように腕で円を作ってみた。
「いいですね、大きなチョコレートケーキ。僕、ホールを一人で食べます」
「そんなに食べたら太っちゃうわよ」
「月乃さんとテニスするから太りません」
けらけら私は笑って、征士くんの端整な顔を両手で包み込んだ。
「私とのテニスじゃ、やせないわよ。この綺麗な顔ににきびが出来ちゃうわ」
「別に、月乃さんのケーキで出来ても構いません。本望です」
「スキンケアしなきゃ駄目よ。私、この綺麗なお顔、好きだわ」
征士くんは、私の両手を顔から離して、握りしめた。
「僕のこと、顔でも何でも月乃さんが初めて好きって言ってくれました。僕、この顔で良かったです。新幹線降りるまで、手を握っていていいですか?」
「別にいいわよ~。私の手なんて、いくらでも触っていて」
そうして征士くんは、本当に新幹線を降りるまで、私の手を握りしめていた。
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