33 どきどき

 夏休みに入った。しかし私は、明日大学へ行って補習を受けないといけない。苦手の英語の聞き取りのテスト結果が悪かったので、追試を受けないと単位がもらえない。

 簡単だというテスト範囲の、短い英文を見ながら唸っていると、扉がノックされた。


「虹川先輩、僕です。部屋へ入ってもいいですか?」


 私が了承すると、征士くんが部屋へ入ってきた。


「これから企業見学へ行く予定だったんですけど、虹川会長が、緊急の会議が入ってしまって行ってしまったので……。お時間があったら先輩とおしゃべり出来ればな、と思ったんです」


 企業見学へ行く予定だった、との言葉通り、珍しくスーツを着ている。細身の紺色のスーツ姿は新鮮で、少しどきっとしてしまった。


「あれ? 何かしていたんですか?」


 征士くんが私の手元を覗き込んできたので、私は補習のことを話した。征士くんが机から英文課題を取り上げた。


「The historic idea of a national identity that can unify all……。他の大学の入試過去問みたいですね」

「え?! 何でそんなに発音いいの? ネイティブみたい!」

「そんな、大したことないですよ。中等部のときの、英語の先生が発音良かったからだと思います」


 征士くんがそう言って英文を返そうとしてきたので、私はつい押し返してしまった。


「お願い! 範囲読んで! それだけ発音良かったら、読んでもらえれば覚えられるわ」

「僕なんかの発音で良かったら、いくらでも読みますけど……」


 頼み込んで、征士くんに範囲を読んでもらった。彼の英語は初めて聞いたけど、発音も声も良くつい聞き惚れてしまった。征士くんは指でネクタイを緩めつつ、読み続ける。


「……our politics, our voluntary organizations, our churches, our language. And……、まだ、繰り返して読みますか?」


 私が聞き惚れてぼうっとしていたので、気が入っていないと思われたのか、彼は首を傾げた。

 いけない、こんな格好良い発音と声で読まれたら、勉強にならない。


「い、いえ、もういいわ。ありがとう。後は自分で勉強する……」


 スーツのネクタイを緩める仕草が色っぽかった。私は少し顔が赤らんだ気がした。


「そうですか? あまりお役に立てていないようで申し訳ありません。……何か、顔が赤いですよ? 具合、悪いですか?」


 私は慌てて、首を横に振った。本当のことなんか、言えない。


「本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫! 心配いらないわ」

「それならば、いいですけれど……」



 翌日の追試は、及第点ぎりぎりだった。


 ♦ ♦ ♦


 サークル活動の日。私と玲子ちゃんが打ち合っているのを征士くんが見ていた。今日の試合も、若竹くんは負けて悔しがっていた。


「虹川先輩はフォアハンドはいいんですけど、バックハンドが苦手そうですね」

「そうなのよ。いつまでたっても、バックハンド苦手で……」

「神田先輩。虹川先輩へバックに打ってみてください」


 玲子ちゃんが征士くんの要求通りに打ってきたので、打ち返してみた。しかし、打ち返したボールは、ラインから外れてアウトになってしまった。


「やっぱり苦手ですね。こうきちんとラケットを両手で握ってコンパクトに……」


 征士くんがラケットごと私の両手を握って、教えてくれようとした。

 私は急に両手を握られて、心臓が高鳴ってしまった。これは練習、これは練習、と頭で念じて、必死に集中する。


「……こうして打つと、バックでもフォアの要領で打てます。わかりましたか?」

「う、うん……」


 玲子ちゃんに打ってもらって打ち返す。しかしボールは大きく逸れて、フェンスにぶつかってしまった。征士くんは、自分の教え方が下手だったかなと落ち込んでいた。

 いいえ、本当はとてもわかりやすい解説だったわ?


 ♦ ♦ ♦


 夏合宿も、征士くんはついてきた。

 夜の自由時間、私がお手洗いへ行こうとして一年生の女子部屋の前を通りかかると、少し襖が開いていて声が漏れてきていた。


「瀬戸くん、三歳差なら付き合ってくれるかなあ?」

「思い切って言ってみたら?」

「そうだね。そうしてみる」


 私はどきどきして立ち去った。お手洗いから帰るとき、人気のない曲がり角で、一年の女の子と征士くんが話しているのを見かけた。私は思わず、陰に隠れた。


「申し訳ありません。お気持ちは嬉しいんですが……お付き合いは出来ません」

「やっぱり、年上は嫌? 同級生がいいの?」

「そういう訳じゃないんです。僕、すごく好きな人がいて、振り向いてもらおうって頑張っている最中なんです」


 一年の子は驚いたような声を出した。


「瀬戸くんくらい格好良い人が駄目な人なの? もしかして告白していないとか?」

「いいえ。好きな気持ちは伝えています。でもまだ、付き合ってももらえないんです。すごく素敵な人なので、誰かに取られてしまわないか心配です」

「ふーん。理想が高い人だね。でも、そんなに瀬戸くんが言うんなら、可愛い人なんだろうね。頑張ってね」

「ありがとうございます。申し訳ありませんでした」


 私は二人に見つからないうちに、身を翻して、自分の部屋へ戻った。

 何故か心臓のどきどきが、いつまでも止まらなかった。私は理想は高くないはずだ。

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