16 シャチのショーの後で
シャチのショーは、あまり前に座ると、水が跳ねて濡れてしまうこともあるらしい。それでも私は前の方に座りたいと主張した。折角の名物のシャチ、是非とも間近で観てみたい。
始まるまで時間があったので、征士くんは二人分の飲み物を買いに行ってくると言ってくれた。私はオレンジジュースを頼んだ。
征士くんの背中を見るともなしに眺めていたら、少し離れたところで若い女の子の二人組に話しかけられていた。征士くんはちょっと困った表情で、話しながら私を指差していた。やがて彼らは離れ、征士くんは当初の予定通り買い物に行ったようだった。
……逆ナンかしら。初めて見た。きっと征士くんは連れがいるからと断ったのだろう。すると若い女の子達はこちらに向かって歩いてきた。よく見ると可愛らしい女の子達だ。彼女達は、私の席の前で聞こえよがしに話して歩いて行った。
「こんな年増のどこがいいんだろうね」
「ブスは化粧してもブスだよね」
……彼女達が通り過ぎた後も、私はショックで動けなかった。
年増。その通りだ。来る途中だって姉弟に間違えられたくらいなのだから。
それに、いくら豊永さんにメイクしてもらっても、素が素だから征士くんには釣り合わないだろう。
「月乃さん? オレンジジュース買ってきましたよ」
俯いていた私は、その声にはっと顔を上げた。手元にオレンジジュースが差し出されていた。
少し震える手で受け取る。幸い、征士くんは私の動揺に気付いていないようだ。
唇を湿らせる程度にジュースを口に付けていると、いつの間にかシャチのショーが始まっていた。
大きなシャチが水飛沫を上げる。顔に水がかかった。私はジュースを座席に置くと、お手洗いで化粧を直してくる、と征士くんに告げた。
トートバッグを持って、お手洗いに駆け込む。豊永さんが用意してくれたポーチの中から、クレンジングを取り出した。
コットンで丁寧に化粧を落とす。アイメイクが濃かったので、コットンをいくつも使った。すっかり化粧を落としてすっぴんになると、日除け用に持ってきていた帽子を目深に被った。
お手洗いの外で、征士くんが待っていた。すっぴんになった私に驚いているようだ。
「綺麗だったのに、折角のお化粧、落としちゃったんですか? そこまで崩れていました?」
「うん……。私、ちょっと気分が悪くなっちゃった。もう帰るわ」
「帰りますか? ……顔色も良くないですね。じゃあ……」
征士くんと帰る算段をしていると、横からあれ、と呼び止められた。
振り向くと、行きの特急で隣の席に座っていた若夫婦が立っていた。
「どうしたの? 気持ち悪いの? 救護室とかに行く?」
奥さんが心配そうに、私の顔を覗き込んだ。
「いえ、そこまでは……。もう帰ろうかと思っているんです」
「そうなの。おうちまでしっかり帰れそう? 弟さんにきちんと面倒見てもらいなさいね」
ああ、そういえば姉弟と誤解しているんだった。
奥さんとご主人さんは、征士くんに向き直った。
「ちゃんと男の子として、お姉さんの面倒を見てあげなさいね。電車で具合悪くなったら駅員さんを呼ぶのよ」
征士くんは顔をしかめた。
「彼女は姉じゃなくて、僕は弟でもありません。婚約者です。婚約者としてしっかり面倒を見て帰ります」
「え……そうなの?」
「そうです。御心配おかけして申し訳ありませんでした。では、失礼します」
唖然とした夫婦を残して、征士くんは私の肩に腕を回し、出入り口に向かって歩いて行った。
「あの人達、誰ですか?」
まだ憮然とした顔で私に訊いてきた。
「行きの特急の中で隣だった人達よ。征士くんがお手洗いに行っているときに、お話したの」
「何で姉弟って思っているんですか。僕達は婚約者でしょう? どうして訂正しなかったんです?」
征士くんがぐいっと肩を抱き寄せる。頭一個分高くなったその身長を見上げた。
「どうしてって……。行きずりだったし、別に触れ回るようなことでもないでしょう。実際私の方が年上だし、姉弟に見えた方が自然だったんじゃないかしら」
「そうだとしても!」
憤然として声を荒らげた征士くんにびっくりする。彼は前方を向いて、怒ったような顔をしていた。
「いくら僕が子供っぽいからって、姉弟に見られるのは絶対に嫌です。月乃さんもちゃんと誤解を解いてください」
「子供っぽくなんかないわよ。私が年増だから……」
「年増?! 年増って何です、その表現! いくら月乃さんでも言っていいことと悪いことがあります!」
征士くんがいきり立った。『年増』と言われたので、つい使ってしまった言葉が彼には気に食わなかったようだ。
「いいですか? 月乃さんは僕より年上でも、僕にとっては綺麗で可愛くて優しい女性です。今度もし年増だとか姉弟だとか言われたら、速攻否定してください!」
彼の勢いに息を呑む。というか、綺麗で可愛くて優しいって買い被りにも程がある。
私が絶句してしまったので、征士くんも少し我に返った様子だ。すみません、と謝ってきた。
「失礼しました。具合は大丈夫ですか?」
「うん。……何か、治ったみたい」
怒濤のやり取りで、先程のショックは吹き飛んでしまった。征士くんは私の顔を見て少し安心したようだ。
「顔色が戻っていますね。でも一応もう帰りましょう。あしかと撮った写真を買って、お土産にぬいぐるみでも買いましょうか」
私は言われるがまま写真を買って、お土産屋さんであしかのぬいぐるみをプレゼントしてもらった。
ハプニングも多かったけれど、それはそれで良い遠出となった。
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