102.勉強をしよう(前編)

 五月には中間テストがある。前世よりも偏差値の高い高校なだけに油断はできない。

 もちろん普段から勉強をしているが、テスト週間はより集中して取り組まなければならないだろう。そう理由をつけて葵と瞳子は俺の家に来てテスト勉強をしていた。

 せっかく恋人が家に来てくれているのだ。俺はキリリと表情を引き締めて問題を解いていく。


「トシくん、その問題間違えてるんじゃないかな」

「えっ、んー……。確かに間違えてる。葵、教えてくれてありがとう」

「えへへ、どういたしまして」


 お礼は言ったものの、こうして葵から間違いを指摘されるようになるとは。はにかむ彼女を見れたからいいけども。

 俺がテストで無双できていたのは小学生の頃までで、中学生になってからはトップからは転げ落ちてしまっていた。

 それどころか瞳子には順位で上をいかれるし、葵とだって負けないまでもテストの点数はさほど変わらないところまで迫られていた。

 人生を学業だけに費やしたとは言えないけれど、こんなに簡単に二人に追いつかれてしまうとはな……。これでも前世に比べてかなり偏差値は上がっているんだけどね。初期スペックが違い過ぎるのだろうか。


「ふぅ、終わったわ」


 瞳子がシャーペンをテーブルに置いて一息ついた。どうやら問題集を全部解き終わったようだ。ちなみに俺はまだ終わってない。


「葵は自分の問題に集中しなさい。俊成の方ばっかり見ているからなかなか進まないのよ」

「ごめんなさーい」


 悪びれる様子を見せない謝罪を口にした葵だったが、素直に問題の続きへと戻った。元が真面目だから葵はやればできるんだよな。サラサラと問題を解いていく彼女を見ていると中間テストは心配ないように思えた。


「俊成も集中して。手が止まっているわよ。これくらいならちゃんと考えれば解けないものでもないでしょう」

「は、はいっ。やります。集中します」


 瞳子に注意をされて背筋が伸びる。相変わらずしっかりしていらっしゃる。

 大きくなっても変わらない猫目のブルーアイズが俺を映している。瞳子に見つめられるのをわかっていながら黙って試験勉強に取り組んだ。


「疲れたねー。今日はこれくらいにしよっか」

「そうね。外も暗くなってきたことだし、キリもいいでしょう」


 葵と瞳子が同時に腕を上に突き出し体を伸ばす。勉強で凝り固まった体がほぐれて気持ちがいいのか、二人とも表情が緩んでいる。ついでに強調される胸部がとても眼福である。うむ、こちらもしっかりと成長しているんだねぇ。


「……ねえ、気になる?」


 俺の視線に気づいた葵が挑発的な笑みを見せる。制服のリボンを指でいじくりながら流し目を送ってきた。高校生とは思えないほどの色気だった。

 心が盛り上がりすぎないようにするのが大変だから、そういうのは自重してほしいのですが……。なんとか視線を逸らして意識を保つようにと務めた。


「もうっ、葵のバカ! そんなこと言うから俊成が恥ずかしがって目を逸らしちゃったでしょっ」

「あっ、そうだった。トシくんってば恥ずかしがり屋さんなんだから」


 しまった、とばかりに葵が口を手で隠した。

 まさかの策略だった。自然に体を伸ばしているように見せかけて俺の目を自らの胸に釘づけにしようとしていたとは……。なんて恐ろしい作戦だったんだ……。瞳子の言う通り照れが勝って顔を逸らしちゃったんだけども。

 そ、そんなハニートラップに引っ掛かる俺ではないわ! ……でも、もうちょっとくらいは見たかったかも……。照れ屋な自分が憎らしい。

 俺が煩悩と戦っていると、いつの間にか瞳子がにじり寄ってきていた。


「あたしだってこんなことするのは恥ずかしいんだから……、そこんとこちゃんとわかってよね」

「う、うん……、ごめん」


 好きな人に顔をこれでもかと朱に染めて言われてしまうと弱いのだ……。愛しさが制御できなくなってしまう。


「あ……」


 瞳子の肩を掴んでしまっていた。それは無意識の行動だった。

 本能のまま、欲望のまま、俺は彼女との距離を縮めて――


「……このままキスしちゃうと今日二回目になっちゃうね」


 その途中で、横から葵の声が飛び込んできた。

 俺と瞳子は同時に動きを止める。耳には葵の言葉が入りこんでくる。


「私はいいよ。トシくんがその気ならむしろ歓迎したいくらいだもん。でもね――」


 一呼吸を置いて、葵は続きを口にした。


「――私も瞳子ちゃんも、歯止めが利かなくなっちゃうよ」


 身震いをしてしまうような甘さがその言葉にはあった。

 自然と葵の顔を見つめていた。彼女の肌は熟れたように赤い。それでもその大きい目は潤みながらも俺を離さなかった。

 いや、俺も葵から視線が離せない。まるで魔法にでもかかったかのように彼女を見つめたまま動けないでいた。


「うおっと!?」


 体が突然の衝撃にぐらついてしまう。なんの! と踏ん張って倒れることだけは阻止した。

 目線を下げれば瞳子がタックルするように俺の胴に抱きついていた。


「べ、別にあたしは俊成を急かしたかったわけじゃないんだから! 意識してほしいけれど、あまり意識しなくてもいいわよ……」

「うん……ごめん。それと、ありがとう」


 ヘタレな俺で本当にごめん。二人に気を遣われてしまうことが彼氏として情けなかった。

 こんなことをしていたせいで頭が沸騰しそうになってしまい、今日の勉強はすべてふっ飛んでしまったのだった。



  ※ ※ ※



 中間テスト三日前。さすがに休み時間でも勉強に集中している生徒が多くなった。


「昨日のテレビでさ、まさかあのアイドルがあんなことまでするとは思わなかったよなー」


 下柳は空気を読まずに昨日のテレビの話題でケラケラ笑っていた。こいつちゃんとテスト対策してんのかな? いつもと変わりがなさすぎてどうにも試験勉強しているようには見えない。

 緊張感のない下柳みたいな奴がいれば、反対にとてつもなく追い詰められている奴もいるようで……。

 前の授業でやったテスト範囲を頭に叩き込んでいると、俺の席に向かってくる女子がいた。そのスピードは凄まじく、思わず手を止めてしまう。


「助けてトシナリ!」

「ク、クリス!? いきなりどうした?」


 接近してきた涙目のクリスを視認して俺は体をのけ反らせてしまう。急ブレーキをかけた彼女は俺の目と鼻の先にまで距離を縮めていた。


「きゃっ!? トシナリ近いっ!」

「お、俺のせいか!?」


 なぜか理不尽に怒られてしまう。近づいてきたのはクリスでしょうに。

 クリスは人との距離感を縮めるのが上手い。本人の人好きな性格ゆえだろう。だけど必要以上には接近はしていないんだよな。誰かにボディタッチをしているところなんて見かけないし。

 クリスの中ではそれはダメという線引きのようなものが何かしらあるのだろう。それはみんなそれぞれ持っているラインだろうし、直させる必要なんてない。


「悪かった。それでどうしたんだ?」


 軽く頭を下げて本題を尋ねる。ここは重く受け止めずに俺への用件を聞いた方がいいだろう。

 クリスは金髪を揺らして「そうだったわ」と頭を振った。


「わたし、トシナリに勉強を教えてもらいたいの!」

「勉強?」


 中間テストが近いからだというのはわかる。でもなんで今? もうテスト三日前なんですけど……。


「わからないところがたくさんあって困っているの。トシナリが勉強ができるって、前にミホが言っていたのを思い出して……助けてほしいのよ!」

「美穂ちゃんがねぇ……」


 美穂ちゃんにそう言われるのはちょっと複雑な気分。チラリと彼女の方を見れば、眼鏡をかけて本気モードで学習に取り組んでいた。あの様子じゃあこっちに気づいていないだろう。


「俺、テストの日まで葵と瞳子と勉強するんだけど……」

「なら、アオイとトウコにもわたしの勉強を見てもらいたいわ」


 思いついた、とばかりにクリスは身を乗り出す。しかし問題点もあった。


「あんまり人数が多くなると勉強する場所がないだろ。図書室じゃうるさくなっちゃうしさ」

「だったらわたしの家に来ればいいわよ」

「クリスの家?」


 満面の笑顔でクリスは頷いた。まったく邪気がなく、男子を家に呼ぶ心配なんて一ミリもしていないような輝かんばかりの笑顔だった。



  ※ ※ ※



 放課後、俺と葵と瞳子の三人はクリスに連れられて彼女の住まうマンションの前にいた。

 学校から徒歩で通える距離だ。そこには立派な高層マンションが建てられている。


「へぇ~、こんなマンションに住んでいるだなんてクリスちゃんってお嬢様なんだね」


 そんなことを呟くのは社長令嬢さんである。葵は感心したようにマンションを見上げていた。

 新築のように綺麗な二十階建てのマンションだ。未来ではもっと高いマンションが建つのだが、今の時代ではこれでもかなりの大きさである。


「こっちよ。ついて来て」


 そう言われるがままエレベーターに乗って案内されたのはマンションの最上階だった。

 エントランスもそうだったけど、廊下もホテルみたいに綺麗だった。その辺の建物と違う高級感がある。


「なんだかすごいところに来ちゃったわね」


 そう瞳子は言うけれど、この子もけっこう裕福な家庭なんだよなぁ。もしかしてこの中で俺は唯一裕福とは言えない家庭なのではないだろうか。ごめんよ父さん。収入の差ってやつはどこへ行っても比べられるものなんだ……。

 と、心の中だけでの父親いじりはこのへんにしておいて、ついに俺達はクリス宅へと迎えられた。


『お帰りなさいクリス。そろそろ帰ってくると思ってチーズケーキを焼いておいたわ。お友達といっしょに食べてちょうだい』


 出迎えてくれたのは金髪の美女であった。外国人は顔の違いがわかりづらいとは言うけれど、この女性はクリスの母親とすぐにわかるほどに面影があった。というか若いな。

 なんだか甘いにおいがすると思っていたけど、チーズケーキを焼いていたからか。この様子だとクリスは今日俺達を家に招くと家族に伝えていたんだろうな。

 というか英語だ。もしかしてクリスの母親は日本語を話せないのだろうか? だとしたら生活に苦労しているのかもしれない。そんな勝手な心配をしてしまう。


『お邪魔します。チーズケーキの美味しそうなにおいがしますね。手伝えることがあればなんでも言ってください』

『あなたはトシナリね! 本物のトシナリね! 会えて嬉しいわ! 本当に会えるだなんて日本に来た甲斐があった! クリスの願いが叶うだなんて運命のようだわ!』


 なぜかクリス母のテンションが急に上がった。この反応にはなんだかデジャヴ。金髪美女の目が輝いたのを見て、俺は目を白黒させてしまう。


『トシナリはわたしのこと覚えてないわよね? あんなに小さかったんだもの』

『いえ、クリスのお母さんですよね。ちゃんと覚えてますよ』


 本当はちゃんと覚えてなんていなかったが、がっかりさせないためにそう口にした。確か小学生の時にクリスと会った時に見かけていたと思う。会話はしていなかったと思うんだけど、この態度はどういうことなのか。

 俺の発言を耳にしてクリス母のテンションがさらに上がった。外国人の人って明るい人が多いよなぁ。主にクリスと瞳子のお母さんだけどさ。俺が英語教室に通っていた時の先生もそうだったしね。

『後でチーズケーキを部屋に持って行くわね』と言ってクリス母は鼻歌を歌いながら奥へと戻って行った。


「母が作るチーズケーキはとても美味しいの。楽しみにしていてね」


 クリスは自分の母親を自慢するように笑った。反抗期の心配はなさそうで、親子関係は見るからに良好そうだ。

 自室へと案内をするクリスに俺達はついて行く。隣にいる葵が声を潜めて話しかけてきた。


「トシくんすごいね。咄嗟に英語で話されても対応できるんだ。私なんていきなりだったから固まっっちゃったよ」

「まあね」


 もう通ってはいないけれど、英語教室でアメリカ人のケリー先生とおしゃべりできるくらいには話せるからね。クリスと出会ったことで俺の英語に対する自信は深まっているのだ。

 俺が得意げにしていると瞳子の言葉が飛んできた。


「まあ、あたし達もリスニングには自信があるのだけれどね」


 瞳子に顔を向けると、青色の瞳がじっとこっちを見つめていた。

 綺麗な瞳だ。誉め言葉を総動員させたいほどの綺麗な瞳が、今は恐ろしく感じてしまう。なぜでしょう?


「瞳子ちゃんの言う通りだね。私も英語の成績は良い方なの」


 葵に顔を向けると、大きくて黒い瞳が俺を映していた。

 葵は優しい目をしているはずなのに、背筋が冷たくなるのはなぜだろう?

 きっと俺の勘違いだろう。俺は自分にそう言い聞かせながら、案内するクリスの後ろ姿を見つめることにした。


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