62.一つの将来と一つの家族、それからちょっとした未来図

 九月になっても暑さは残っていた。通っている英語教室が終わった後も、まだ日は沈みきってはいなかった。

 帰りは母さんが迎えにきてくれることとなっている。さすがに小学生一人で夜道を帰らせるわけにはいかないのだろうな。

 その母さんは迎えの時間に少し遅れているようだ。こういう時は近くの本屋で待つのが常である。

 本屋に入ると涼しい空気に出迎えられる。暇潰しに店内を見て回ることにした。

 なんとなしにビジネス書のコーナーに行ってみる。前世では勉強が嫌いだったのもあってこういう本を読まなかったな。いや、自己啓発の本なんかは読んでみたことがあるけれど、読んだだけで満足してしまってろくに役にたった記憶がないのだ。

 うーん……、ビジネス書は図書館に置いてるだろうし、今度行ってみようかな。また身にならなかったら嫌だし、購買意欲は湧かなかった。

 学生の今ならビジネス書よりも参考書かな。そう思って足を向ける。


「あれ? 俊成くん?」

「野沢先輩じゃないですか。買い物ですか?」

「うん。参考書を買おうかと思ってね」


 参考書のコーナーには野沢先輩がいた。夏らしい私服であり、陸上部で鍛えられた細身の手足が店内の明かりに照らされている。

 女子中学生が店に来る時間にしては遅い気がした。俺はついつい口出ししてしまう。


「あんまり遅い時間に出歩いてちゃダメじゃないですか。危ないですよ」

「ふふっ、それを言ったら俊成くんも同じじゃないかな?」

「お、俺は母さんを待ってるだけなんで」


 男とはいえ今の俺は小学生だった。ブーメランになったかと思ってしまい、反論も声が小さくなってしまう。


「そうだったね。英語教室に通ってたんだっけ?」

「はい。この近くなので、母さんが迎えにくるまでここで時間潰ししてるんですよ」

「そっかそっかー」


 野沢先輩はコロコロと笑う。相変わらず先輩の笑顔は柔らかさを感じさせてくれる。


「私は受験勉強のために参考書がほしくなっちゃってね。本当はもっと早く帰るつもりだったんだけど、どれにしようか迷ってたら遅い時間になっちゃってたみたい」


 どうやらだいぶ前からこの本屋に来ているようだった。中学生からしても参考書は安くはないから迷ってしまうのは仕方がないのかもしれない。


「それに部活があった時はこれくらいの時間に帰るのも珍しくなかったからねー」


 そう、野沢先輩はこの夏で部活を引退したのである。

 先輩は中学三年生なので部活が終われば受験まっしぐらである。前世で大した高校ではなかったとはいえ、受験戦争という単語を思い出すと顔をしかめてしまう。


「でも野沢先輩陸上で良い結果出してましたし、スポーツ推薦とかあるんじゃないですか?」


 彼女の中学最後の成績は中距離走での全国三位である。輝かしい結果であり、中学校では全国三位を讃える垂れ幕があった。褒められているのは自分じゃないのに、なんだか嬉しくなったものである。


「んー……まあね。でもスポーツ推薦だからって必ずしも受験をパスできるわけじゃないし。むしろ勉強をしない方が不安だしね」


 スポーツ推薦って勉強しなくてもいいもんだと思ってたな。俺には縁遠いものだと考えてたから調べもしなかった。

 でも、確かにスポーツ推薦で入学したものの結果が出せなかったり、大きなケガなんかしてしまって選手生命が断たれたりなんてしてしまえば大変だろう。そんな時に勉強さえついて行けなかったら学校にすらいられなくなるかもしれない。

 なんて、最悪の想像をしてみたけれど、野沢先輩に限っては心配いらないことなのだろう。こうやってわざわざ参考書を買いにくるくらいなのだ。不真面目な先輩を想像できない。


「もう志望校は決まってるんですか?」

「いろいろと声はかけられてるんだけどねー。ちゃんとは決まってないけど、やっぱり走るのが好きだから。陸上部の強いところに行きたいかなって想ってるよ」

「なるほど」


 やりたいことが決まってるのは強みだな。野沢先輩には迷いはないように見える。

 野沢先輩と同じように、俺にも将来への選択肢が訪れる。どの学校を受験するか。学歴至上主義とは言わないけれど、それはわかりやすい将来への選択肢なのは確かだった。

 先輩のようにまっすぐこの道に向かって行く、というほど俺には一番を決められるほどのものはない。それでも、選択の時がきても後悔がないようにしておきたい。


「俺も何か参考書買おうかな」

「そっちは小学生じゃなくて中学生用だよ?」

「ま、まあ……野沢先輩がどんな勉強してるのか興味があるんで」


 とにかく勉強だけはきっちりしておこう。野沢先輩を見て、俺は改めてそう思った。



  ※ ※ ※



 休日。葵ちゃんと瞳子ちゃんがそれぞれ欲しい本があるとのことなので三人で本屋に訪れていた。

 この間野沢先輩と出会った本屋である。また会えないかなと期待したものの、そう都合良くはいかなかった。


「あら高木くん? それに宮坂さんと木之下さんじゃない。久しぶりねー」


 その代わり意外な人と再会した。俺達が小一の頃に担任をしていた女教師である。

 確か先生は四年生最後の終業式の時に結婚したという報告とともに退職したのだ。なんだかんだでお世話になった先生なので少し寂しさを覚えたものである。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは二人揃って「こんにちは」とあいさつをした。俺も軽く会釈しながら口を開く。


「お久しぶりです。先生は買い物ですか?」

「うふふ、もう先生じゃないわよ」


 そうは言われても、先生以外の呼び方と言われたらしっくりこない。それは先生もわかっているようで、自分で言っておきながらそれほど気にした様子ではなかった。


「ちょっと欲しい本があったのよ」


 そう言って先生が目を向けた先には子育ての本が並んでいた。

 それでようやく気づいた。先生のお腹が大きくなっているということに。


「先生、もしかして赤ちゃんできたんですか?」


 俺が尋ねると、先生は嬉しそうに頷いた。


「まだ何か月か先なんだけど、自分が母親になるって思ったらいろいろと勉強しなくちゃって思ったのよ」

「そうなんですね。おめでとうございます」


 お祝いの言葉を並べてみる。口を動かしながらも、知っている人が身ごもったという事実は俺に少なからずの衝撃を与えていたことに気づかされる。


「あの、お腹に赤ちゃんがいるんですか?」


 葵ちゃんが尋ねる。先生は「そうよ」と笑いながら頷く。その笑顔には母性が感じられる気がするのは彼女に子が宿ったからだろうか。


「よかったら触ってみる?」


 先生はそんな提案をしながら自分のお腹を摩る。葵ちゃんは目を輝かせた。


「わあ! いいんですか? じゃ、じゃあ触らせていただきます」


 緊張しながらも葵ちゃんの手はゆっくりと先生のお腹に触れた。慈しむかのような手つきで撫でている。まるで赤ちゃん自身を撫でているようだ。


「よしよし」


 葵ちゃんが楽しげに先生のお腹を撫でていると、瞳子ちゃんがうずうずとした調子で体を揺らす。


「あ、葵。あたしにも触らせて」

「うん。もうちょっとだけ待って」

「うふふ。焦らなくても木之下さんにもちゃんと触らせてあげるからね」


 和気あいあいと葵ちゃんと瞳子ちゃんは代わる代わる先生のお腹を触っては感想を言い合っている。男の俺はその中に入るかどうか少し躊躇われてしまう。


「高木くんも触ってみる?」


 そんな俺に先生が尋ねてくれる。咄嗟に首を横に振ろうとして、ぐっと堪えて首を縦に振った。

 せっかくの機会なので触らせてもらおう。少しドキドキしながらも手を伸ばした。

 服越しに先生のお腹を触る。薄着なのでふっくらとしたお腹の感触が返ってくる。


「なんか硬いところがありますね」

「もしかしたら赤ちゃんかもね。たまに動いたりするのよ」


 自分が触っているのが赤ちゃんだと思うと自然と手つきが慎重なものへと変わる。というか我ながらぎこちない。大丈夫だとはわかっていても触っている最中に何か起こってしまわないかと不安になった。

 手のひらから体温とは違う温かみを感じた気がした。

 赤ちゃんが生まれれば先生も母親になるのだ。それは一つの家族が誕生する時でもあるのだろう。

 俺も将来結婚できたのなら、妻となる人に子が宿るのだ。その時がきたら俺はどんな気持ちになるのだろうか。子供の自分にはまだ早いとわかっていながらも想像せずにはいられない。


「トシくん、私もう一回触りたいの。代わってもらってもいい?」

「あたしも。……いいかしら?」


 葵ちゃんと瞳子ちゃんが代わってとせがんでくる。よほど赤ちゃんに興味があるのだろう。

 もし二人のうちどちらかと結婚するとしたら、俺の子供を産んでくれるのだろうか。結婚して子供ができて、家族になれたら幸せになれるのだろうか。

 それは俺にとって未知の領域だ。だから結婚生活がどうなるかなんてわからない。

 でも、これから母親になろうとしている先生は幸せそうな笑顔だ。俺も結婚できたのなら、相手にはそういう顔をしてほしいと思った。



  ※ ※ ※



「先生のお腹に赤ちゃんがいるだなんてすごいよね」

「本当ね。いつ産まれるのかしら。聞いておけばよかったわ」


 先生と別れた後も葵ちゃんと瞳子ちゃんの興奮は冷めないようだった。

 間近で見る命の神秘に興味が尽きないのだろう。俺だって妊婦さんを見たことはあっても、そのお腹を触ったことがなかったからな。良い経験をさせてもらった。

 貴重な体験を噛みしめるようにうんうんと頷いている俺は油断していたのだ。


「……でも、赤ちゃんってどうやってできるんだろう?」


 葵ちゃんがぽつりと爆弾を投下した。

 純粋な疑問だったのだろう。葵ちゃんの表情はどこまでも無垢なものだった。彼女の言葉に冷や汗を流してしまうのは俺だけだ。


「葵は知らないのね。しょうがない。あたしが教えてあげるわ」


 瞳子ちゃんが得意気に胸を張った。なぜだかダメな予感がするのは俺の気のせいだろうか?


「赤ちゃんはね、コウノトリが運んでくるのよ」


 俺は絶句した。そして瞳子ちゃんにそう教えたのは彼女の父親だということを悟る。


「コウノトリって? 鳥さんが赤ちゃんを運ぶの?」


 葵ちゃんが首をかしげる。彼女には馴染みのない話のようだった。

 確かその話の由来はドイツの言い伝えだったか。いや、今はそんなことどうでもいいな。


「そうみたいよ。詳しくは教えてもらえなかったけど、パパが言ってたから間違いないわ」


 やっぱりパパさんですか……。娘には純粋に育ってほしいというのはわかるんだけど、フォローを強要されるこっちの身にもなってほしいもんだ。


「でも先生のお腹に赤ちゃんがいたよ? コウノトリが運んでくるっていうのは違うんじゃないかな」


 葵ちゃんのもっともな意見に、瞳子ちゃんは少しだけ悩んだ素振りを見せる。そして閃いたと言わんばかりに手を打った。


「コウノトリが赤ちゃんを運んで、先生のお腹の中に入れたのよ!」


 何それ怖い。子供の発想力とは時に恐ろしいものなのだと知った。


「そっか、それで先生のお腹の中に赤ちゃんがいたんだね」


 その恐ろしい発想を信じてしまうのが子供の恐ろしいところである。葵ちゃんは「なるほどー」なんて言いながら頷く。


「いやいやいや! コウノトリは赤ちゃんなんて運んでこないからね。お腹の中に赤ちゃんを入れたりもしないからね!」


 二人がその結論で納得してしまいそうだったので思わず口を出してしまった。さすがにそんなコウノトリ説で認識されると悪影響な気がしてしまったのだ。


「何よ。じゃあ俊成は赤ちゃんがどこから来るか知ってるっていうの?」


 自分の意見を否定されたためか瞳子ちゃんが唇を尖らせる。そもそもどこから来るという時点でおかしなことに彼女は気づかない。

 だが、聞かれるとどう答えるか迷ってしまう。さすがに男女の営みを小学生女子に教えるのは躊躇われた。


「それはその……。そう、結婚したら神様が祝福してくれて、その贈物として赤ちゃんが女性のお腹に宿るんだよ」


 この説明ならどうだろうか? なんだかファンタジーっぽいけど、神様の贈り物だなんてむしろロマンチックではなかろうか。少なくともコウノトリが赤ちゃんをお腹に入れるなんていうホラーよりはマシに思えた。


「じゃあ……」


 見れば葵ちゃんが目を輝かせていた。


「私とトシくんが結婚したら、神様が赤ちゃんくれるの?」


 俺は衝撃を受けたかのようにのけ反った。代わりに瞳子ちゃんが前のめりになる。


「待ちなさいよ! あたしだって俊成の赤ちゃんが欲しいんだからねっ」

「私だって欲しいもん! こればっかりは瞳子ちゃんにも譲らないよ」


 葵ちゃんと瞳子ちゃんが睨み合う。久しぶりのケンカが始まる。それがわかっていながらも、衝撃から立ち直れていない俺はこれから始まる二人のケンカを止められなかった。

 大きくなった葵ちゃんと瞳子ちゃんが笑顔で俺の子供を抱いている姿を想像してしまったから。それが胸を貫かれるような衝撃を与えられるほどの歓喜だったことに、この時の俺は気づく余裕がなかったのである。


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