61.胸のぬくもり

 祭りの騒がしさが段々と離れていく。俺は葵ちゃんの手を引いて木々の間を抜けていく。


「トシくん? どこに行くの?」


 急に祭りの会場から離れてしまったせいで葵ちゃんから不安そうな声が漏れる。それでもせっかく瞳子ちゃんが気を利かせて二人きりにしてくれたのだ。腰を据えて話をするために静かな場所に行きたかったのだ。


「葵ちゃんと二人だけで話がしたいんだ。そんなに遠くへは行かないからついてきてほしい」

「……うん、わかった」


 祭りの照明が届かなくなってくる。あまりに暗いと足元が危ないだろう。そう思ったところで、ちょうど木々の間に挟まれるように鎮座している大きな石があったのでそこに座ることにした。

 ぼんやりとした照明が届き、月明かりに照らされるちょうどいい場所だった。俺は葵ちゃんと隣り合って腰を落ち着ける。

 しばらく無言になる。どう切り出そうか迷ってしまう。


「あ、あの……話って何かな?」


 葵ちゃんはそわそわと体がわずかに揺れている。いきなりこんな祭りとは関係のないところにつれてこられたのだ。その不安は当然といえた。


「えっと、葵ちゃんには大事な話があるというか……」

「……はい」


 正直言いづらい内容だ。言葉選びを間違えないように頭を回転させる。

 横を向けば葵ちゃんが姿勢を正していた。俺の話を聞く体勢となっている。

 そんな姿を見たら覚悟を決めなければならないな。咳払いを一つして、俺は口を開いた。


「葵ちゃん、最近元気ないよね」

「……え? あ、うん、そ、そうかな?」


 思いのほかしどろもどろである。それほどにプールで中学生どもに言われたことを引きずっているのだろう。


「こういうこと言うと気分悪くさせちゃうのかもしれないけど、やっぱりこの間プールで中学生の男の子達に言われたこと気にしてるの?」

「あ……」


 そこで葵ちゃんは顔を伏せてしまう。伏せた視線の先には小学生にしては明らかに大きい女性の象徴があった。

 この反応から、彼女が元気のない原因は胸のことで間違いないのだろう。

 葵ちゃんの胸は小四になってから一気に膨らみ始めた。五年生になった今では服を着てもその膨らみがわかるほどだ。身長は歳相応なだけに、相対的に余計大きく見えた。

 胸が大きいというだけで男からの視線を集めてしまうというのに、それが小学生というのもあってかなり好奇の視線にさらされていたのだろう。恥ずかしながら俺もその一人だ。


「……」


 葵ちゃんは無言だ。彼女からすれば掘り返してほしくない話題なのだろう。

 だとしても、俺は彼女に元気になってほしいのだ。塞ぎこんでしまうだなんて、そんな風にはなってほしくない。


「その……胸のこと、悩んでるのかな?」


 女の子相手に胸のことを口にするだなんて、自分で言ってて恥ずかしくなる。でも言われた葵ちゃんはもっと恥ずかしいはずだ。

 それを表すように、葵ちゃんが膝に置いている手をぎゅっと握ったのを目の端で捉えた。

 胸を小さくする、だなんてそんなこと簡単にはできないのだろう。男だからよくはわからないけれど、体重を減らすのとは違うのだろうな。

 そして男だからわかるのだが、大きい胸を見てしまう視線を止めるなんてことはできない。

 質量が大きければその分引力を発生させてしまう。つまり、巨乳の女性を目にすると視線が吸い寄せられてしまうのは自然の摂理といえた。

 ……変な理屈を考えてしまった。俺は男の欲望を擁護したいんじゃない。葵ちゃんに元気になってもらいたいんだ。


「……なんで、みんな私の胸を見るんだろ」


 葵ちゃんがうつむいたまま、そうぽつりと言った。

 俺は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。


「私のおっぱい……みんなよりもすごく大きくなっちゃったの。それでいろんな人に見られてるのはわかってる。瞳子ちゃんだってまだなのに、私だけブラジャーしなきゃいけなくなっちゃった……」


 瞳子ちゃんがブラジャーしてないことが明らかになってしまった。いや、つけてたらそれはそれでびっくりなんだけども。じゃなくて!

 まあ葵ちゃんにとっては瞳子ちゃんが一番の比較対象なんだろうな。みんながブラをしていない以上に、瞳子ちゃんがしてないってのが不安なのだろう。

 一人だけみんなと違う。それは心細いものなのだろう。同じ年代の子と接する機会の多い子供のうちはとくにそうだ。

 両手で胸に触れながら、葵ちゃんはなおも続ける。


「今までは見られるだけだったけど、あの時言葉にされてやっぱり私のおっぱいっておかしいんだなって……。ひっく……私って変なんじゃないかって思ったら怖くって……」


 葵ちゃんは嗚咽を漏らしていた。どれだけ自分を追い詰めてしまっていたのだろうか。俺には想像できないほどの苦しさがあったのだけは確かだった。


「変じゃないよ。葵ちゃんは何もおかしくない」


 俺は葵ちゃんの手を握った。彼女としっかり目を合わせる。

 変だなんて、そんなことあるもんか。男の俺には絶対にわからない悩みだけど、それだけは断言できた。


「前に葵ちゃんの胸に抱かれた時、俺は本当に安心したんだ。葵ちゃんの優しい心が伝わってきて、不安なんてなくなったんだよ」


 森田と殴り合いのケンカをした日のことだ。あの時はあれでよかったのだろうかと内心不安でたまらなかった。そんな時に葵ちゃんが抱きしめてくれて、その胸の柔らかさに俺の不安はどこかへと飛んで行ってしまったのだ。


「きっと、これからも他人の視線が君の胸に集中するかもしれない。もっと気分が悪くなることだってあるかもしれない。それでも、俺は優しい心の詰まった葵ちゃんの胸が好きだよ」


 コンプレックスは簡単には消えてくれない。それでも、葵ちゃんには自分の体を嫌いでいてほしくなかったんだ。

 気がつけば葵ちゃんの手を両手で握り込んでいた。知らず力が入っていたらしい。


「ご、ごめんっ」

「本当?」


 痛がらせてしまったのではないだろうかと慌てて手を離したのに、今度は葵ちゃんの両手が俺の手を包み込んだ。

 そして、葵ちゃんの顔がずいっと近づいてくる。


「トシくん、私のおっぱい好きなの?」

「え」


 あれ、なんでそんなこと聞かれてるんだろ?

 首をかしげながら自分が口にしたことを思い出してみる。……言ったな。俺、葵ちゃんの胸が好きだって言ってるわ。


「い、いやその……そういうふしだらな意味ではなくてですね……」

「違うの?」


 しゅんとしてしまう葵ちゃん。そんな彼女を見てしまうと、勝手に俺の口が動いていた。


「違わない。俺は葵ちゃんの胸が好きだ」


 甘んじておっぱい星人の称号を得る覚悟を決めた瞬間だった。


「……ふふ、あははっ」


 葵ちゃんが噴き出すように笑いだした。目尻に涙があるものの、そこにはもう悲しさなんてものはなかった。


「そっかぁ……トシくんに変に思われてないんだ。ならよかった」


 ほっとしている彼女を見て、わかってしまった。

 葵ちゃんが一番怖がっていたのは、俺に変な風に思われることだったんだ。他の誰かの評価ではなく、俺にどう思われているかということだけが彼女にとっての悩みだったのだ。


「……」


 葵ちゃんは俺のために悩んでくれてたんだ。俺のために苦しんでくれていた。

 前世で誰かに好かれたことなんてなかったから気づかなかった。好きって気持ちはただ単に楽しいだけじゃないんだ。好きな分、悩んだり苦しんだりもするものなんだ。

 俺はそれに気づかずにいたのか……。たぶん葵ちゃんはもっと前から悩んでた。俺をその胸で抱いたのだって、俺に受け入れてもらおうとした行動だったのかもしれない。

 好きという感情の答えを探す前に、俺はもっと葵ちゃんや瞳子ちゃん自身を見なくちゃいけない。そう思った。


「トシくん」


 葵ちゃんが俺の手を離す。その手は彼女自身の浴衣の胸元を掴んだ。


「私のおっぱい……触る?」


 そんな魅惑的な言葉とともに胸元が開かれる。そこには淡く光るような白い肌。そして、谷間があった。


「え……ええぇぇぇぇぇぇぇぇーーっ!? なななななぜにっ!?」


 まさかの葵ちゃんの行動に慌てふためいてしまう。いやだってどんな流れになったらそうなるの!?

 俺の動揺とは対照的に、葵ちゃんはあっけらかんと言った。


「だって、好きなんでしょ?」


 うんわかった。よくわからんけどとりあえずわかったっ。

 これは葵ちゃんの好意だ。自分のおっぱいが好き、だったら触らせれば喜んでくれるに違いない。きっとそんな思考なのだ。じゃないと説明できない!

 これはどうするべきなんだ? 触ればいいのか、それとも触らない方がいいのか。

 いやいや、触ったらダメでしょ。このまま欲望に任せて触ってしまえば、大人になった葵ちゃんの黒歴史になりかねない。だって自分から「触って」とか言っちゃってるんだもの。子供じゃなければ痴女みたいだ。というか、彼女が大きくなってこのことを想い返せばそう思ってしまうに違いない。小さい頃を思い出してはベッドの上でじたばたする葵ちゃんが幻視できそうだった。

 だからって、彼女からしてしまったこの好意を断っていいものか。拒絶されたと思ってまた落ち込んだりしないだろうか? それが心配なのだ。

 葵ちゃんは胸をさらけ出したまま待ちの体勢である。俺が動かないとこの状況は変わらないのだろう。

 どうする? どうする俺? どうするよ!?

 目を泳がせてしまう。ついでに手も宙を泳いでいた。って、勝手に動いてる!?

 俺の手は葵ちゃんの胸に手を伸ばそうかどうかと迷っているようだ。無意識ながらも本能を理性で押し止めているらしい。

 本能に忠実になれるのなら、ぶっちゃけ触りたい! だってこんなにも立派なおっぱいなんだもの!!

 でも……っ。


「……いつでも、いいんだよ?」


 でも、こんなにも俺のことを想ってくれてる女の子を傷つけたくはないのだ。

 葵ちゃんの肩に手を置く。彼女の目を見ながら言葉をかける。


「……葵ちゃんのその気持ちだけで、充分だよ」


 地を這うような声になってしまったのは目をつむっていただきたい。俺の理性は本能に打ち勝ったのだ。

 きっと彼女は男に体を触られる意味をちゃんとはわかっていない。そんな子に対してわかっていないのをいいことに欲望を満たすためだけに触れるなんてしちゃいけない。そんなことをしたら後悔させてしまうだろう。

 こんな良い子に嫌な思いをしてほしくない。それはやっぱり、葵ちゃんが俺にとって大切な女の子だからだ。


「な・に・を・し・て・い・る・の・か・し・ら?」


 俺と葵ちゃんは同時に体を震わせた。

 ぶわっと嫌な汗が全身から流れる。声の方を向けば、案の定瞳子ちゃんが腕を組んで仁王立ちしていた。


「と、瞳子ちゃん?」


 俺と葵ちゃんの声が重なった。これはやばいと、心の声まで重なっている気がした。

 瞳子ちゃんがずんずんと近づいてくる。猫目が吊り上がっていた。威圧感が半端じゃない!

 葵ちゃんが胸元をはだけ、そんな彼女の両肩を俺は掴んだ状態だ。いろいろとアウトだった。


「こ、これはその……」


 弁解する言葉が出なくてそこで止まってしまう。瞳子ちゃんは拳にはーと息を吐くと、腕を振り上げた。


「いったーーっ!!」


 瞳子ちゃんが拳骨を落としたのは葵ちゃんにだった。葵ちゃんは頭を押さえて丸くなる。


「まったく、こんなところで俊成に何をさせようとしてたのよ。ママ達に見つかったら怒られるわよ」

「えっ!? お、怒られるのは嫌だよ~」

「だったら早く浴衣を直しなさい。あっちに小川さんがいるから行きましょ」

「う、うんっ。わかった」


 葵ちゃんはさっさと浴衣の胸元を直すと、小川さんがいるであろう方向へと足早に行ってしまった。

 それを見届けてから瞳子ちゃんが俺の方を向いた。


「え、えーと……俺も小川さんのところに行こうかなー」


 ちょっとどころじゃない気まずさを感じて目を逸らしてしまう。腰を上げて祭りの灯りの方向に足を向ける。しかし瞳子ちゃんに袖を掴まれてしまい動けなくなった。

 お、怒られるっ。そう思って目をつむると、引っ張られるままに体が傾いてしまい、顔に何かが当たって止まる。


「……ん?」


 目を開けると、金魚と目が合った。それは本物じゃなくて瞳子ちゃんの浴衣だった。

 見上げれば恥ずかしそうに唇を震わせている瞳子ちゃんの顔があった。そこまでの情報の結果、今どういう状況なのかを理解する。

 俺、瞳子ちゃんの胸に抱かれている……。それが結論だった。


「と、瞳子ちゃん?」

「あ、あたしのおっぱいはっ。……どうなの?」

「え?」


 彼女は恥ずかしそうにしながらも、それでも震える唇を動かして続ける。


「あたし葵みたいに大きくないし、ブラだってしてないけど……。あたしだってこうやって俊成を抱きしめたいの。……やっぱり大きくて柔らかい方が俊成は好きなの?」


 瞳子ちゃんの目は不安で揺れていた。その不安は俺が原因だった。

 葵ちゃんが悩んでいたように、瞳子ちゃんも悩んでいたのだ。さっき彼女達自身を見なくちゃって思ったばかりなのにな。

 俺は瞳子ちゃんの胸に顔を埋める。大きさはわずかで、そうなると柔らかさを葵ちゃんと比べるまでもない。


「うん。瞳子ちゃんの胸に抱かれていると安心する」


 それでも葵ちゃんと同じくらいの安心感があった。瞳子ちゃんも俺を受け入れてくれる。そんな気持ちがたくさん伝わってくるから。

 俺は顔を上げる。こんなこと、なんて言ったら彼女達に怒られてしまうかもしれないけれど、胸のことなんかで苦しい想いをしてほしくないのだ。


「瞳子ちゃんは思いやりがあって優しくて、そんなあったかい心がこの胸に詰まってる。安心させてくれる瞳子ちゃんの胸、俺は好きだよ」

「そ、そう! そうなの……。そっか」


 見ればあまり灯りがないというのに瞳子ちゃんの顔が真っ赤になっているのがわかった。そうじゃなくても心臓の鼓動が激しいのが伝わっていたりする。

 瞳子ちゃんも胸のこと気にしてたんだな。まあ身近に葵ちゃんのような育った子がいると仕方がないのかもしれない。

 でも、同じスイミングスクールに通ってるから知っているんだ。瞳子ちゃんの胸が膨らんできているということを。

 俺も含めて子供の体はまだまだ成長するのだ。女の子にとって胸とは悩みの種かもしれないけど、今がすべてじゃない。


「じゃあ俺達も行こうか」

「う、うん……」


 瞳子ちゃんの手を引きながら歩く。温かみを感じるだけでも胸の奥がぽかぽかする。この手の中のぬくもりを大切にしていきたいと思った。


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