43.高木俊成がいない間の二人

 トシくんがおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くということで、数日会えない日が続いていた。


「あ……間違えちゃった」


 家でピアノの練習をする。お父さんとお母さんは仕事でいないから私一人だ。瞳子ちゃんも今日は予定があるみたいで、他の友達も家族でどこかに出かけている子が多い。

 暇を紛らわせるようにピアノの練習をしてみたけど上手く集中できない。さっきからそう難しくもないところでミスをしている。


「……」


 いつもは一人でいるとトシくんが構ってくれたのに……。こんなにも会えない時間が長いと心がざわついてしまう。


「……まさか女の子と仲良くなんてしてないよね?」


 トシくんは人の少ない田舎に行くって言ってたけど、そこに女の子がいないとも言っていなかった。優しいトシくんのことだから、私や瞳子ちゃん以外の女の子にも優しくしているのかも。学校の女の子相手にも優しくしてるし。

 鍵盤に頭から突っ伏す。音が重なって不快な響きが体を震わせる。

 トシくんの優しいところが大好き。彼の優しい笑顔を見ていると大きくて暖かいものに包まれたような心地の良い感覚がするのだ。

 そうやって守ってもらえたから私はちょっとずつ自分に自信が持てるようになったんだ。小さい頃から男の子は乱暴で怖い子ばかりだったけれど、トシくんが傍にいてくれると思ったらちゃんと目を見て話せるようになった。トシくんのおかげで私は変われたんだ。

 でも、そうやって守ってもらっているのは私だけじゃなかった。

 瞳子ちゃんも私と負けないくらいにトシくんが好きだと思う。GWの旅行を境にさらにその想いが強くなったように感じる。

 瞳子ちゃんと私は似ている。だからわかるの。瞳子ちゃんが人見知りが激しくて寂しがり屋だって。もしトシくんがいなかったらそういう面がはっきりと出ていたのかもしれない。

 トシくんが私と瞳子ちゃんを特別扱いしてくれてるのはわかってる。わかってるつもりだけど……、トシくんってば他の女の子にも優しいのよね。

 やっぱりそれが彼の良いところなんだけど、それでも心がもやもやするのを止められない。できれば他の女の子を見ないでほしいって思っちゃう。


「そう思うのって変なのかな……」


 私を見てほしい。ずっと見てほしい。私はずっとトシくんを見ていたい。


「うーん……」


 頭がぼやけてきそう。トシくんのことばっかり考えてると他のことがおろそかになりそうだった。

 一度ピアノから離れてストレッチをしてみた。トシくんに「ちょっとずつでも体力つけられるようにしようね」と言われてから暇を見つけてはやっている習慣だ。

 ストレッチで前屈する。四年生になってから胸のあたりが急に大きくなってきた。お母さんみたいにちゃんとしたおっぱいになるのかな? お母さんに聞いてみると「葵が成長している証よ」と言ってたからそうなんだろうと思う。

 おっぱいが成長するにつれてトシくんの目線が私の胸に向くことが多くなってた。気になるのかな? 私も急に大きくなってきてびっくりしてるからトシくんもそうなんだろうな。私のことを心配してくれてるのかも。

 そう思ったらちょっとだけ嬉しくなる。別にいきなり大きくなってきたからって痛いわけじゃない。心配させないためにもトシくんには言った方がいいかな?


「んしょ、んー……。んしょ」


 体を伸ばしていく。段々と柔らかくなってきた。それをトシくんもいっしょになって喜んでくれたから今も続けられている。


「ふぅー……」


 一通りストレッチをして息をゆっくりと吐いた。トシくんか瞳子ちゃんがいたら背中を押してもらったりできるけど、今は自分一人でできるだけのことをやった。

 立ち上がって次は何をしようかと考える。夏休みの宿題はトシくんといっしょにやろうと思ってるから帰ってきてくれるまではやらない。だったら体を動かした後には頭の体操をしよう。

 私は折り畳みの将棋盤と駒を出した。お父さんのだけど、私が将棋クラブに入ってからは私の物みたいに使わせてもらっている。

 トシくんか瞳子ちゃんがいれば相手をしてもらえるのだけど、いないからって一人でできないわけでもない。

 いっしょにお父さんの将棋の本も持ってきた。戦法とか囲いとかが載っている。この本を読んでトシくんが「ふむふむ」と頭を縦に振っていたのだ。かわいい。

 その将棋の本にはいくつか詰将棋が載っていた。駒を並べて挑戦してみる。

 最初は駒の動かし方もわからなかったのだけど、トシくんが丁寧に教えてくれた。トシくんと瞳子ちゃんと遊ぶ時もたまに将棋をするようになった。

 トシくんとやるときはハンデをつけてもらって駒を減らしてもらってたんだけど「つ、強くなったね……」と彼が言ってくれたので今はハンデなしで指せるようになった。

 瞳子ちゃんもクラブに入るまでは将棋をしたことがなかった。同じところからスタートできるのがなんだか楽しくて、瞳子ちゃんとの対戦が一番多かった。

 新しいことを覚えていくのは楽しかった。何よりトシくんと手加減されないで遊べるのが嬉しい。優しくされるのは好きだけど、それだけじゃ何か違うかなって思っちゃうから。


「あれ、もうこんな時間」


 詰将棋に夢中になってたらいつの間にか夕方になっていた。そろそろお母さんが帰ってくる時間だ。

 私は将棋盤と駒を片付けた。本も元の場所に戻す。


「トシくんが言ってた頭がすっきりする感じがする……」


 いい頭の体操になったのだろう。頭がすっきりして気持ちがよかった。


「今ならいい演奏ができそう」


 もう一度ピアノに向き合う。今なら集中して演奏ができる気がした。

 ピアノを弾いたらトシくんが喜んでくれた。瞳子ちゃんも褒めてくれた。あんまり得意なことがない私だけど、ピアノはがんばれそうだと思った。

 またトシくんに喜んでもらえるように新しい曲を練習しよう。私は鍵盤に両手を添えて、力を込めた。



  ※ ※ ※



 俊成がいなくなってから調子が悪い。大会が終わった後だからよかったけどタイムが落ち込んでしまっていた。

 コーチは今までがんばってたから疲れが出たんだろうって言ってたけど、そうじゃないってのはあたし自身がよくわかっている。


「早く帰ってきなさいよ……」


 俊成がいないとなんだか力が出なかった。早く顔が見たい。優しく笑ってほしかった。

 俊成の姿を見ないと胸がざわざわしてしまう。病気とかケガをしていないかって心配もあるけれど、向こうで女の子と仲良くしていないかって不安があった。

 人の少ない田舎だって言ってたけど、それで女の子がいないとも限らない。優しい俊成のことだから、出会った子がどんな子でも優しくするんだって予想できた。

 首を振る。そんないるかもわからない女の子のことを考えたってしょうがないじゃない。俊成が無事に帰ってきてくれるならそれでいい。そう思うことにした。

 会えない日が続くと俊成に触りたいって、そんなことばかり思ってしまう。葵みたいに毎日手を繋ぎたい。してもらえるなら頭を撫でてもらったり髪を触ってもらいたい。


「あたしって変なのかな?」


 スイミングスクールを終えてから家に帰る。自分の部屋のベッドに倒れて力を抜いてると俊成のことばかり考えちゃう。


『瞳子ちゃんの髪はサラサラしているね。どれだけ触っても飽きないよ』

「そ、そうかしら? べ、別にもっと触ってくれてもいいのよ?」

『瞳子ちゃんの瞳はとっても綺麗だね。キラキラしていて月の光に負けないほどだ』

「ん~~……っ。ばかぁ……」


『でも……葵ちゃんよりは胸が小さいね』

「ッ!!」


 あたしはがばっとベッドから顔を上げた。どうやら寝ていたみたい。

 せっかくいい夢を見ていたのにっ。いたのにーーっ!! 俊成と良い感じだったのにさっきのは何!?

 確かに、確かに最近の俊成は葵の胸に目が行くようになった。他の子と比べても葵の胸が大きくなってきたんだから見ちゃうのはわかる。わかるけど~~。

 あたしは自分の胸に手を当てた。大きさなんてない胸だった。

 大きくなったらあたしだってちゃんと胸が大きくなるもん! ママだって大きいし、あたしだってちゃんと成長する……はずっ。


「ちゃんと見てなさいよ俊成ぃ~~っ」


 夢の中での出来事のはずなのに、俊成本人から言われたように感じてしまった。あたしだって大きくなって見返してやるんだから!

 イライラしててもしょうがない。冷静になるためにあたしは将棋盤と駒を取り出した。クラブ活動を始めたからパパに買ってもらったのだ。

 駒を並べて新しい戦法を試してみる。あたしの実力は葵と同じくらいだ。俊成にはまだ勝てないけど、少しずつ近づいているという実感があった。


「これは、葵に負けてられないんだから」


 葵とは一つの勝負をしている。どっちが先に将棋で俊成に勝つかという勝負だ。

 勝った方は休みの日に俊成と二人っきりになれるのだ。遊ぶとなればあたし達は三人でいることが多い。一日二人っきりになれるというのはそうそうなかった。

 ちなみにこのことは俊成は知らない。あたしと葵だけの秘密の勝負だ。負けてられない。

 ……ただでさえピアノでは葵に負けてしまったのだ。あたしなりに自信があったピアノで、葵はあっさりあたしを抜かしてもう追いつけないところまで行ってしまった。

 すごくショックだった。葵にピアノ教室のことを教えなきゃよかったなんて考えて、そんな風に考えてしまった自分が情けなくて悲しくなった。

 その分あたしは水泳をがんばった。運動ができない葵がここにくることはない。そう考えてしまったことに気づくとまた自分が嫌になって、でも俊成の泳ぐ姿を見ていたらやっぱりがんばりたいって思った。

 あたしは自分に嫌なところがあるって思い知らされていた。それでも俊成には好きになってもらいたい。こんなあたしを知っても俊成なら笑って受け入れてくれる気がした。


「んー……」


 やっぱり疲れてるのかいい手が思いつかなくなっていた。今日はここまでにして片づけを始める。


「瞳子ー。ご飯デスヨー」

「はーいママ。今行くー」


 ちょうどご飯の時間になってたみたい。あたしは自分の部屋を出た。

 ……料理も勉強した方がいいかしら? 葵どころか俊成もけっこう料理ができていた。さすがに料理で俊成に負けるのはいけない気がする。なんていうか女として。

 水泳や勉強だけじゃなく、家のお手伝いももっとしなきゃ。俊成にがっかりされないためにもちゃんとがんばろう。

 夏休みはまだ残っている。俊成が帰ってこないからってやれることはあるのかもしれなかった。

 まったく、調子が悪いだなんて言ってられないわね。


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