迷い猫と私と女子高生と

チャーコ

迷い猫と私と女子高生と

 夕暮れの西日がきつく当たる台所に、電車の通るがたんごとんという音と揺れが伝わってきた。開け放った窓から一陣の風が吹きつけ、私は汗を拭いながら溜息をつく。七月というのは、どうしてこうも暑いものなのだろうか。季節を恨みたくはないが、西日に照らされて顔が火照ってくる。


 恐らく地価が安いから、この建物を線路沿いに建てたのだろう。引っ越してきた当初は、始発電車の物音で毎日朝早く起こされたものだ。もはや慣れてしまって、多少の音では起きなくなったが。


 ひと口大に人参を乱切りにする。今日の夕食はカレーだ。夫の好物なので、帰宅したら喜ぶだろう。

 人参を切り終わって、じゃがいもに手を伸ばした瞬間、来客を告げるメロディが鳴った。無機質な呼び出し音ではなく、陽気で軽快なメロディは高らかに鳴り響いて、早くインターホンに応答するよう私を急かす。私は慌てて手を洗って、インターホンのボタンを押した。


「はい、どうしましたか」

『あのー、ここ駐在所ですよね?』

「そうですよ、駐在所です」


 交番と住居がくっついた駐在所。それが私の住んでいるところ。




「猫を拾ったんです」


 私が駐在所で応対すると、十六、七歳と思しき少女がそう言った。なるほど、腕には子猫を抱えている。

 夫が不在のときは、私が駐在夫人として応対に当たる。それは道案内だったり、迷子のお世話だったり、仕事内容は多岐にわたるが、今回は迷い猫の相談らしい。


「毛並みもいいし、首輪もつけているし。飼い主さんがいるんじゃないかなと思って」

「そうね。人に慣れている感じもするわね」


 にゃあんと甘い声を出した猫はアメリカンショートヘアに思えた。黒目が潤んでいて、とても愛らしい。


「じゃあ、警察署で預からせてもらうわね」


 子猫を渡してもらって、署に呼び出しの電話をかける。少女はじっとその様子を見ていて、「あの」と小さく私に声をかけてきた。


「その子猫……飼い主が現れなかったら、どうなるんですか?」


 その質問に、私はまじまじと彼女を眺める。硝子細工のような華奢な身体は僅かに震えていて、二重の大きな瞳は不安げに揺れていた。


「……保健所に引き渡すことになるわ」


 私の返答に、少女は俯いた。亜麻色のセミロングの髪の毛が、ふわりと人形のような顔を覆う。


「……飼い主さん、来てくれるといいわね」


 付け足すように私がそう言うと、彼女は微かに頷いて、私の手の中にいる子猫を見つめた。



 翌日、亜麻色セミロングの彼女は再び駐在所に訪ねてきた。小宮こみやゆいです、と名乗ったあと「飼い主さん、見つかりました?」と、また不安そうな顔で訊いてきた。


「まだよ」


 麦茶を差し出しながらそう答えると、小宮さんは肩を落とした。


「もし見つからなかったら……小宮さん、引き取らない?」


 子猫に思い入れがありそうな彼女にそう提案すると、少しばかり表情を明るくした。でも……と言葉を濁す。


「母親が動物アレルギーなんですよ」


 今度は「あら」と私が落胆し、二人でしばし黙り込む。麦茶の氷がからんと溶ける音が駐在所内に響いた。


「ま、まあ、まだ一日しか経っていないから。これから飼い主さん来るかもしれないわよ」


 彼女の気持ちが少しでも安らぐよう、気を引き立たせるように笑った。つられたように、彼女も可憐に微笑む。

 それから三十分ほど世間話をして、小宮さんは帰っていった。今どき珍しく、素直で礼儀正しい、はきはきした話し方をする子で、私は好感を持った。




 次の日。

 朝から私は近所を流れる川に足を踏み入れた。


「大丈夫ー? 駐在の奥さんー?」

「大丈夫よ! すぐに拾えるわ」


 川の深さは膝よりも下である。ゆっくりと注意深く進み、私は水面に浮かんだ地元小学校の青い帽子を拾った。


「風で飛ばされたのね。私に知らせてくれたのは偉いわ」


 川から上がって、帽子を男の子に手渡した。駐在所に駆け込んできた男の子はぱあっと輝くように笑った。


「ありがとう!」

「いえいえ、どういたしまして。でも、川の中には入らないでね。溺れたら大変だからね」

「うん、わかった!」


 男の子は無邪気に大きく返事をして、ぎゅっと帽子を握りしめる。もう一度私にお礼を言うと、友達らしき男の子の集団に向かって走っていった。やれやれと私はタオルで濡れた足を拭う。


 夏は水の事故が多い。今朝のように自分で危険を察知して駐在所に知らせてくれるような男の子ばかりではないので、あとで夫に事情を話すことを決めた。周辺住民の危険予防に繋がる活動を警察署が行うだろう。



 午前中は帽子を川に落とした男の子が訪ねてきた。午後になり、今度は小宮さんが駐在所にやってきた。余程子猫のことが気にかかるのだろう。飼い主が見つかったかを尋ねて、まだ見つかっていない旨を伝えると、気落ちしたように項垂れる。そんな彼女を元気づけようと、私は明るい話題を探す。そこでふと気づいた。彼女の着ている制服が、私と同じ高校のものであることを。


「ねえ、小宮さん。あなた、夕月高校生なの?」

「はい、そうです」

「あ、やっぱり。私もね、あの高校に通っていたの」

「へえ。奥さんも私と同じ高校に通っていたんですか。奇遇ですね」

「私、生まれも育ちも夕月だから。ここが地元だし」

「そうなんですか」


 共通の話題が見つかったからなのだろうか、小宮さんは目を細めた。

 先程まで、子猫の飼い主がまだ見つからず、駐在所の空気は重いものだったが、幾分かリラックスした雰囲気になる。


「それでね、小宮さん。あの高校に数学の山本先生ってまだいるの?」

「いますよ。夕月高の名物教師ですよね」

「そうそう。数学だけじゃなくて、突然物理や化学の授業になったりするのよね」


 私は山本先生の数学から物理授業への変化の真似をしてみせる。数学教師なのに未だに物理授業をしているのだろう。「物理の先生に内緒だよ」という山本先生お決まりの台詞を付け加えると、小宮さんはころころと笑った。

 それからも高校の話は続く。部活は何をしているのとか、あの先生はどうしているとかの話題になり、盛り上がった。


 二時間ほどが経過した。彼女が来てから、駐在所を訪れる人は皆無であった。つまり、今日もあの子猫の飼い主は現れそうにないことを意味していた。


 でも小宮さんとの会話が楽しく、二時間があっという間に過ぎた。私にも娘ができたとしたら、彼女としているように同じ接し方をするのだろうか。まるで、女友達のように。


 夏の陽が長いとはいえ、西日が田んぼの向こうに隠れようとしている。小宮さんは、もうこんな時間になったのだとスマホの時計で確認し、席を立つ。


「また、いつでもいらっしゃい」

「はい。子猫の飼い主さんが見つかるまで、私、毎日でも来ますので」


 私と彼女の視線が合い、互いに笑顔になった。

 二人で駐在所から外に出ると、夏の大きな太陽が沈もうとしていた。辺りは茜色に染まっている。湿気をはらみ、むっとした熱気の中、小宮さんは丁寧にお辞儀をし、帰路についた。私は彼女の背中が見えなくなるまで見守っていた。


 小宮さんがなんとなく身近な存在に感じられ、久しぶりに女友達ができたような感覚に陥る。少しばかり心地よい汗を額に流しながら、駐在所の中に戻った。




 金属バットから快音が響く。この暑い最中、野球場では地区予選の真っ最中だ。私は冷房の効いた部屋で、ぼんやりとテレビ画面を見ている。


 私の夫は地域課の警察官だ。彼はまず自分の地元である県警を受けたが、不合格だった。そして次に今の県警を受け、無事合格した。そんなわけで彼は夕月警察署にいる。警察官というのは意外と異動が多い。同じ県内を転々とすることもある。


 私はそんな彼と隣の市で働いていたとき出会い、一昨年結婚をした。夫の異動で地元の駐在夫人となった私は、まだ子宝には恵まれていない。小宮さんみたいな子がいたら、どんなにいいかとつい考えてしまう。今日も彼女は、この駐在所に来るだろう。そのときのためにアイスティーを作って冷蔵庫で冷やしていた。暑い季節に飲む風味豊かなアイスティーは私の大好物である。


 お昼前に例のメロディのチャイムが鳴った。きっと、彼女だと当たりをつけ、駐在所の扉を開ける。予想通り亜麻色の髪の少女がいた。


「あの子猫の飼い主さんは……」

「せっかく来てもらって悪いんだけれど、まだ現れていないわ」

「そう……ですか……」


 小宮さんは頭を下げ、踵を返そうとする。私は慌てて彼女を呼び止めた。


「せっかく来てくれたんだし、よかったら冷えた飲み物でも飲まない?」

「はい。それじゃ、今日も失礼します」


 小宮さんは、再びお辞儀をして、駐在所の中に入った。私は冷蔵庫からアイスティーを取り出し、彼女がいる事務机の上にそれを置いた。


「砂糖とミルクは?」

「あ、はい。両方欲しいです」

「わかったわ。今、持ってくるわね」


 砂糖とミルクを取りに、駐在所と自宅との区切りの扉を開ける。そこから、つけっぱなしにしていたテレビのアナウンサーの声が聞こえてきた。


「3対2。夕月高校、惜しくも破れました。しかし、夕月高校の健闘を称えたいですね」


 そうか。夕月高校負けちゃったか。

 母校が負けたことを、少しだけ寂しく思う。その寂しさを胸に抱えて砂糖とミルクを手に、私は駐在所へ戻った。


「うちの高校負けちゃいましたね……」


 音声が聞こえていたのか、小宮さんは残念そうに言った。


「でも、初の四回戦進出でしょう。うちの高校では快挙じゃない」


 私はミルクを事務机の上に置いた。


「そうですね」


 彼女は笑った。どことなく儚く愁いを帯びた笑いだと感じたが、きっと私の気のせいなのだろう。

 今日は野球の話をいくつか交わし、彼女と一時を過ごした。



 次の日も、また次の日も、猛暑の中一週間連続で、小宮さんは駐在所にやってきた。飼い主が見つからないことに関しては不安そうだったが、私が何か話題を振ると小宮さんは柔らかく笑い、私との会話を楽しんでいるようだった。


 会話の中で、また私と小宮さんの共通点を発見した。ラッピング教室に通っていること。彼女は色鮮やかな包装紙やリボンを集めているとのことである。


「何色のリボンが好きなの?」

「普段は赤やピンクのリボンばかり使っているんですけど、たまには違う色も使いたいと思っているんです」


 その答えに、私は興味を抱いた。自分が収集しているリボンは赤やピンク以外のものが多い。


「ちょっとリボンをもらってくれないかしら?」

「え……、いいんですか?」

「たくさんあるから、よかったらもらってちょうだい」


 戸惑い気味の小宮さんは、それでも私が集めているリボンを見てくれた。サテンリボンを並べると、彼女はチョコレート色のリボンを選び、傍にあった箱にくるくると巻きつける。あっという間に綺麗なギフトに仕上がった高度なラッピング技術に私は感心した。


「すごく上手なのね。びっくりしちゃった」

「いえ、そんなことは……」


 謙遜している小宮さんに新品のリボンを渡す。同じサテンのチョコレート色リボンだが、もう少し上等な品物である。私より器用な彼女が使ったほうが、リボンも美しく結ばれるだろう。


 躊躇いがちに小宮さんがリボンを受け取ったとき、駐在所の外に人影が見えた。来客のようである。椅子に座っている小宮さんに一言断って、扉を開いた。


「あ、あの、すみません」


 妙に慌てた様子の男の子が、駐在所に入ってきた。野球部に在籍しているのだろうか、我が母校のユニフォームを着ていて、よく日に焼けた小麦色の肌の男の子。


「え? あれ? 小宮?」

篠原しのはらくん? どうしてここに?」


 どうやら知り合いらしい。篠原、と呼ばれた彼は、私に向かって勢いよく頭を下げた。


「ええと、あの、俺、ここにいる小宮の同級生の篠原って言いまして。実は猫を探しているんです」


 猫? 私は小宮さんと顔を見合わせた。もしかして。


「アメリカンショートヘアで、赤い首輪していて。名前はウィズダムって言うんですけど、この間からいなくなっちゃって……散々探しているんですけど……」


 間違いない。彼が飼い主だ。

 首輪に「wisdom」と記してあるとの彼の言葉通り、警察署で預かっている猫にはその証があった。


「でもどうしてすぐに駐在所まで来なかったの?」

「その……俺、野球部の部員でいつも遅くまで練習をしてて、帰りが遅いんです。夜なのに駐在所に来るの、悪いかなって」


 彼は焦ったように弁明した。

 なんだか私は納得してしまった。あの母校が負けた日、やけに小宮さんが野球に詳しいと思っていたが、たぶん彼女は──。

 そう推察しながら、署に電話をかける。まだ保健所に移送をしていなかったらしく、署から子猫を運んできてもらう。子猫と再会すると、篠原くんは飛び切りの笑顔を見せた。


「お前、ウィズダム、心配させやがって。小宮が拾ってくれたんだって? ありがとな!」


 ウィズダムは篠原くんに身体を擦りつけている。余程懐いているようだ。篠原くんもウィズダムと再会を喜び合っているようで、見ていて私も安堵した。


「篠原、くん」


 同じく様子を見ていた小宮さんが細い声を出した。


「その子猫……」


 そこで言葉を区切り、言い淀んでいる。私は小宮さんと篠原くんを見比べ、微笑んだ。


「小宮さん、子猫に会いに行きたいんでしょう?」


 女の子が男の子に言い出しにくいだろうと、私が代わりに言ってあげた。小宮さんのウィズダムに対するこだわりは、今までの言動から推し量ることができる。彼女は色白の頬を薔薇色に染めて、小さく頷いた。


「なあんだ、そんなことか! いいぜ、いつでもうちに見に来いよ!」


 篠原くんがにっこり白い歯を見せて誘うと、小宮さんは嬉しそうに「うん」と顔を綻ばせた。

 なんだかんだで、私は若い恋の応援をしてしまったようである。小宮さんについては、娘を嫁にでも出す心境になっていた。彼女に贈ったチョコレート色リボンはきっと素敵な働きをするだろう。


 翌日、小宮さんは駐在所を訪れなかった。当然といえば当然なのだが、私の胸にぽっかりと穴があいたような心持ちになってしまった。




 十日後、蒸し暑い中、ラッピング教室に行くと、ちょうど外に出てきた小宮さんとばったり会った。近寄って挨拶をする。彼女も私に気づいた様子で頭を下げた。


「あのあと、どう? 子猫には会っているの?」

「え、……ええ、はい、まあ……」


 幾分歯切れの悪い答えに、私は首をかしげる。


「どうかしたの? ウィズダムとは仲良くしてないの?」


 子猫の一件で、小宮さんとは仲間意識めいたものを感じていたから、何か悪いことがあったのかと心配になってしまう。


「あ、の。私、篠原くんと付き合うようになったんです」

「え……」

「それで、私が篠原くんといると、ウィズダムが嫉妬して、間に無理矢理入ってきて……」


 苦笑を漏らす彼女の展開の速い話に、予期していた私でも驚きを隠せない。だけど人の好さそうな篠原くんは、好意を寄せる優しい小宮さんに惹かれたのだろうと思ってしまう。そして、二人に妬いているウィズダムの姿を思い浮かべ、くすりと笑ってしまった。いや、二人の仲に妬いているのは私も同じか。何しろ、小宮さんを彼に取られてしまったのだから。


「そうなの。篠原くんによろしく伝えてね。……ウィズダムにも」


 小宮さんは可愛らしくはにかんで、再び頭を下げると、炎天下にもかかわらず走っていった。彼女が抱えた箱のチョコレート色リボンが翻る先には、自転車に乗った篠原くんが見えた。


「……青春だな」


 私は小さく呟く。身近に感じていた小宮さんを、篠原くんに横から攫われた気がしないでもないが、彼女たちのことは喜んでお祝いしたい。


「たまにはプレゼントしようかな」


 久しぶりに私は夫にリボンで結んだ贈り物をすることに決め、若い二人を内心祝福しながら、ラッピング教室をあとにした。


 私と夫。小宮さんと篠原くん。それぞれに、まだ青春を謳歌しているのだ。二十八になった私が青春とか、笑われてしまうかもしれないが、実際そうなのだから仕方がない。


 駐在夫人の私、まだまだ青春気分を味わいたい。小宮さんを取られてしまったのは悔しいが、私は恋のキューピッド役に回ることにしよう。そうして、今夜は夫に甘えるのだ。心の隙間を埋めてもらうかのように、彼に甘えることにしよう。

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