第2話 呪いの森の白雪の魔女 巫女と魔女2
森の竜のもとに、雪の森に迷い込んできた者がいると知らせてきたのは、オオカミの北部集団のアルファ雄だった。
ナンバーワンの雄が、こんな森の奥まで自らやってくるとは、また何か大事か。冬の初めの忌々しい出来事が思い出されて、心が不穏にざわめいた。傷が癒えたばかりで、外へ出るのは億劫だったが、いつまでも籠もってばかりもいられない。もしかしたら奴らに報復する手がかりになるかもしれないし。
森の竜ソフィア・アンフィトリテは、彼らの姿をまとって、黒々した見事な毛並みの大きなオオカミの前に出た。脇の側近らしき若い雄が軽いうなり声を上げる。珍妙な匂いの見知らぬ個体が突然現れたのだから、警戒するのも当然だ。姿形は似せられても匂いまではうまくいかない。背筋を伸ばしたアルファににらまれて、若者は耳を伏せておとなしく引き下がった。勘の良い賢い個体だ。
普通の人間が迷い込んで来ただけなら、獣たちが知らせに来ることはない。彼らが一声鳴けば、大抵の人間は震え上がって帰り道を探し始める。あとは声と臭いで気配をちらつかせて、ヒトの領域へと誘導する。慎重で臆病な彼らは、決してヒトに姿を見せないし、ヒトやヒトのにおいのするものにはできる限り触れようとしない。あとでお互い面倒なことになるから。森の獣たちも周辺に住まうヒト族たちも、それをよくわきまえている。
今、森にいるのは、ヒト族の少女だという。ヒトの住処から遠く離れたこの場所には、およそ似つかわしくない存在だ。いつものように追い出そうとしてみたが、恐れる風もなく奥へ進んで行くため、困り果てて、偉大なる森の守護者の元へ助けを求めにきた、と。
集団の長にそう言われると、何か面はゆい。特に偉大でも何でもなく、森の湖に勝手に居座っている長生きな引きこもりなのだけど。住まわせてもらっている代わりに、ときどき困りごとを引き受けているだけだ。
それにしても、雪の季節に森に入っても何もおもしろいことはなかろうに、物好きな娘もいたものだ。わざわざ死ににでもやって来たのか。
うんざりした気分で、オオカミたちの後を追う。どうやら見込み違いだったようだ。怪我をさせない程度に噛みついてやればさすがに帰る気になるだろう。その役目をホンモノたちにさせてはならない。さっさと終わらせて帰りたい。積もったばかりの雪が、オオカミたちの歩調に合わせてふわふわとと舞った。
件の少女は、まもなく見つかった。
雪まみれの質素な羊皮の外套に毛織りの襟巻き、フードからはみ出した毛は茶色。
どこまで行く気なのだろう。一応、背嚢は背負っているが、あの大きさの荷物ではとても長い旅はできそうにない。それでも雪の道を速いペースで確実に一歩一歩進んでいく姿は死に向かう者とは違うように思えた。
いや、そうじゃない。
彼女は、何かから逃げている。
魔法の気配。
刻々と降り方が激しくなる雪の向こうに、白い人影のようなものが見えた。背丈は大きいヒトといったところだが、シルエットは南部の大型のサルに近い。このあたりにはいない連中だ。正確な数は不明。複数いるのはわかる。はぐれ者ではない。
オオカミが低く唸る。少女を見つけたときにはあんなものはいなかった。
獣たちを木の陰に止め置き、ソフィアは人影と少女の前に踊り出た。
雪の人形に魔法で命を入れたモノ。スノーゴーレムとでもいうべきか。娘を追っているのはかなり厄介な連中だ。
ソフィアの姿をみとめ、雪人形が拳を振り下ろす。根雪が大きくえぐれて、雪が飛び散った。ほとんど知能がないから、攻撃といっても手足をむちゃくちゃに振り回すだけだ。だが、その一撃は重く、まともに喰らえば致命傷にもなり得る。低い姿勢から後ろ足で地面を蹴り、化け物の首元へ食らいつく。牙に当たるのは雪の感触。あっさりと首がもげ、粉雪のように崩れて舞う。次々と襲いかかってくる奴らの足をもぎ、腕をもいだが、全部同じだった。一体一体は、敵にはならないが、同じものがどこからともなく現れるので、倒しても倒してもきりがない。めんどくさい。こいつらを作っている魔法使いを叩かないと雪がある限り無限に増え続けるというわけだ。そいつの魔力が尽きるまで相手をしてやってもいいが、もうめんどくさい。
こいつらの目的は、あの娘だ。ならば、娘をどこかへやってしまえばいいではないか。
ソフが雪人形を雪に返しているあいだに、オオカミたちが少女を追跡している。見える限りを魔法で一掃。身を翻して、少女の元へ走った。
森の獣に比べると人間の足は呆れるほど遅い。
ものの数分で雪に足を取られてもたついている娘が見えた。
進行方向に回り込むのは容易い。小癪にも待ち伏せしていた雪人形を蹴散らして、少女の前に立った。
突然目の前に現れた獣の姿に、少女は小さな悲鳴を上げた。逃げる様子はない。じりじりと間合いを詰めて行っても微動だにしない。近づくにつれ、少女の顔が哀れなほどにやつれ、絶望しきっているのが見て取れた。まぁ無理もない。
「お願いです。オオカミさん、通してください」
荒い息をつきながら、絞り出すような声で少女は請うた。
「南へ、行かなければならないのです」
まさか、本気でオオカミがヒトの言葉を解するとは思っていないだろう。
「私は、スーリン・ミリアと言います。大地神殿の聖剣の巫女です。聖剣を南へ届けなければなりません。お願いです。行かせてください。役目が終わったら食べてくださって結構ですから……」
彼女としては先に進むための命がけの取引のつもりなのだろうが、こちらに喰う気はないし行かせる気もないから交渉は決裂している。南といっても一番近い町まではヒトの足で短くて10日、少女ならもっとかかる。この雪ならなおさらだ。ここで見逃したとしても近いうちに行き倒れになるのは目に見えている。
引き返して住処に戻れる最後のチャンスだ。
「く……くるなら刺します!」
スーリンと名乗った少女はコートの懐から古ぼけたナイフを取り出して構えた。刃渡り20センチばかり。りんごを切るにはちょっと大きい。覚悟は認める。でも実力が伴わない覚悟は狂気でしかない。
「あ……あの……これ聖剣なんですよ!魔を払う剣なんですよ!」
少女の精一杯の威嚇。
間合いは充分に詰めた。刃物を握りしめて震える少女に飛びかかるのは簡単なはずだった。
ぞわりと偽物の毛が逆立つ。
あの小汚いナイフから、まだ記憶に新しい胸くそ悪い臭いがした。
消えたはずの痛みが蘇る。
――私の欠片を奪ったのと同じもの。なぜ、ヒト族の小娘がこんなものを持っている……?
しばらくの間、少女と紛い物のオオカミは無言で相対したまま立ち尽くした。静かな森にひたすらに雪が降る。
先に動いたのは娘の方だった。ぐらりと大きく揺れると、白い地面にくずおれて沈んでしまったように見えた。極度の疲労と緊張に耐えきれなくなったようだ。おそるおそる近づいて、仰向けの少女の頬を肉球でぺちぺちやってみたが、反応はない。だめ。動かない。気を失っている。
倒れた少女を前にソフィアが戸惑っているのを見て、オオカミたちが慎重な足取りで近づいてきた。ひっくり返った人間を取り囲んで、顔を見合わせる。息はしている。死んではいない。雪と背嚢がクッションになってダメージはそれほどないだろう。しかし、行くのも帰るのも無理そうだ。
さて、どうしたものか。
このまま放置すれば、凍死するか餓死するか、あるいは雪人形にやられるか。とにかく、近いうちにくたばるのは確実だ。
その後、後生大事に握りしめている「聖剣」とやらがどうなってしまうのか?
冬のはじめの襲撃者とこの聖剣の巫女と名乗る娘とゴーレムの術者。どうつながっているのかは、まだわからない。だが、あの「聖剣」が、魔法で小さき者を追い回すような連中の手に渡れば、絶対ものすごくめんどくさいことになるのは予想がつく。
ソフはオオカミの姿を解き、ヒトの姿へと組み換えた。ヒトの領域へ行くのは気が進まないが、仕方がない。これは、自分の手で片をつけなければならないのだ。
「こいつは私は預かろう。おまえたちは群れへ帰れ。風が強くならないうちに」
ソフがため息交じりに言うと、オオカミたちは向きを変えて走り去った。彼らの役目は終わりだ。
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