第30話 コンタクト

 午前六時。


 疲労の抜けた横向きの身体が覚醒すると同時に、加奈は両目を開けた。


 誰かの体温を感じる柔らかな感触があった。


 拓けた視界の中には先に起きていたと思われる麻依の姿があり、抱き締めながら加奈が起きるのを待っていたようである。


「おはようございます。加奈さん」


「……」


 加奈は昨晩の出来事を振り返って現状を把握すると、嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが交錯する複雑な感情が表情に出ていた。


「昨日は本当の加奈さんを知ることができて良かったです」


 ニッコリと咲き誇る花のように笑顔を見せる麻依を見た加奈は、ますます顔を赤くしていた。


「あっ、いや、その……昨日はありがとう……」


 加奈は危うく「すまない」と言いかけたが、麻依は「素直でよろしい」と更に彼女を強く抱きしめた。この一夜ですっかり立場が逆転してしまったことに困惑している。


「今日はやること沢山ありますし、今のうちに加奈さんから元気をいただきますね」


「わ、わかった……」


 加奈は観念したように、しばらく麻依に抱きしめられて動けなかった。


   ▽


 時刻七時。


 古ぼけた雑居ビルの一室で、修司と朧は風雷からやってきた浩輔と相対していた。


 浩輔は麻依を通じて修司たちとのコンタクトを取り、密かに面会を行う約束をしていた。


 険しい顔を隠さない浩輔は、事の重大さまでをも隠すことはできない。


「僕たちのために時間を割いてくれたこと、本当に感謝している」


「わたしからも御礼申し上げます」


 二人は深々と頭を下げた。


「礼なら終わった後にお願いします。それよりも本題へ入りましょう」


 浩輔は刻一刻を争うものという認識を示していたが、修司は冷静さどころか楽観的な笑みを浮かべた。


「わかっているよ。しかし、君は考えなくても答えは出ているだろう?」


「はい。あなた方を風雷の保護下に置かせていただきます」


 浩輔を始め、風雷の面々は既に守護士協会の上層部との袂を分かち、健全な進化を遂げた電妖体の保護を進めていた。徐々に他の研究所と守護士の援助を受けてはいるものの、敵対する守護士協会に対しては不利であり、まともに正面から戦えば勝機は見えない。


「君たちの研究所、守護士は共に素晴らしい働きをしてくれた。事態ももうすぐ好転するだろうと僕は思うけどね」


「修司様。安心するのはまだ早いです。わたしたちはまだ、何も成し遂げていません」


 朧の発言に、浩輔はゆっくりと頷いた。


「朧さんの言う通りです。我々の乗り越えるべき壁はたくさんあります。あなた方は風雷の貴重な戦力ですから、大切にしなくてはなりません」


「何も心配しなくていい。戦況をひっくり返すのに数は関係ない」


 浩輔の緊張感が走る空気にもかかわらず、修司の心は余裕を見せているように思えた。


 朧は浩輔の意向をくみ取って毅然とした顔を見せていたが、修司には伝わらなかったようだ。


「確かに私の策が通用するのであれば、混乱に乗じて勢力を分散できるチャンスがあるでしょう。後は修司さんが提示する条件を私が受け入れるかです」


 浩輔は本来であれば遠隔会議の要領で会話を成立させたかったが、契約している通信端末の企業が守護士協会のスポンサーとなって通信を傍受する恐れがあった。そのため、彼は端末の電源を切って会談に臨んでいた。


「そのことについてだが、僕からの願いは一つだ」


「教えてください。願いとは何かを」


 浩輔は神妙な面持ちで修司の話に耳を傾けていた。そして修司から笑顔が消え、精悍な顔つきへ変貌した。


「——君たちに協力する守護士たちを、全力で守ってほしい。それが僕の条件だ」


 驚いたように朧の瞳が点になった。浩輔も同様の反応を示したが、それは無理もなかった。修司は高額の報酬を風雷に要求するだろうと踏んでいたにも関わらず、修司は一文すら取らないと主張したのだ。


「そ、それだけでいいのですか? 我々はあなたに対する相応の対価を支払うつもりでいました。修司さん、あなたもそれを望んでいたのではないですか?」


 浩輔の問いに、修司は首を横に振った。


「君たちが僕に投資するのは違う。僕は速かれ遅かれ散っていく花と同じなのだ。だから、未来に生きる者たちすべてにその対価を支払ってほしい」


「修司様……」


 朧が言葉に出せない感嘆をその一言に出していた。


「朧。君は少なくとも対価を貰う価値はある。でも僕は遠慮しておくよ」


 修司が欺くようにニッと笑った。


 浩輔が何かを言いたげに口を開こうとしたが、ぐっとこらえて建設的な言葉を紡ぎだした。


「わかりました。あなたがそうおっしゃるのであれば、風雷は条件の通りにあなた方へのバックアップを行います」


「年寄りのわがままを聞いてくれてありがとう。この恩は絶対に忘れないよ」


 修司がそう言い終えた時、朧は何かを察して険しい表情になった。


「——間もなく彼らが来ます。浩輔さんは早くここから離れてください。標的はわたしたちです」


「わかりました。お二人とも、終わったら必ず風雷に来てください。それだけが我々の願いです」


 この場を離れることを躊躇いそうになる浩輔だったが、現想界と同様の状況を作られてしまえば彼は発狂を避けられない。現想界と電妖体を研究しているからこそ、この先が人間にとって危険な世界になると身体が反射的に判断していた。


 浩輔はすぐさま部屋を退出して階段を駆け下り、そのままビルを飛び出して東神の中心地まで逃れた。彼は全力疾走で息を切らし、通勤ラッシュの人混みに紛れながら祈った。彼の味方をしてくれる者たち全員が、無事に風雷へ戻って来られるように、と。

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