第6話 一日の終わり
午後六時半。
加奈が風雷へ戻ると、玄関を入ったところでブラウス姿の佑香が出迎えてくれた。いつものように他の研究機関や大学に行ってきたのだろう。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。加奈」
「早くシャワーを浴びて蕎麦を食べたいです」
くたくたのスニーカーを脱いだ加奈は気力を振り絞って廊下へ足を踏み入れる。
「ゆっくりしてていいわよ。その間にお蕎麦を用意しておいたからね」
「ありがとうございます。浩輔さんはお仕事ですか?」
福原家は仕事上生活が不規則になりやすく、頻繁に暇と多忙を交互に繰り返す波を起こしている。つまり、浩輔は業務の渦中に追われている最中だ。
「しばらく部屋から出られないほど立て込んでいるみたい」
「年度末ですからね。佑香さんは良いんですか?」
「優秀な助手たちと遠隔作業したおかげで一気に片付いたわ。それに加奈に会いたかったし――」
「改めて私はシャワーを浴びにいきますね」
「わたしも一緒にどうかしら?」
「却下です」
加奈は即答した。
「そう言うと思ったわ……」
佑香はほんの少しだけ肩を落とした。
加奈がすぐさま自室から下着と部屋着を用意し、駆け込むように脱衣所の先にあるシャワールームに向かった。
シャワーを浴びている瞬間は、いつも脳内がぼーっとした状態に陥る。何となく、温かい水を浴びる刺激が心地よくてホッとするのだ。
微かな塩素の匂い、温もりのある等間隔な水しぶきの感触、パシャパシャとお湯が跳ね返る音、すべてが加奈の精神を癒す楽園のような場所だった。
部屋着に着替え、タオルで髪を拭きながらリビングに向かうと、テーブルの上には絵に描いたような一杯のかけ蕎麦がホカホカと湯気を出しながら加奈を誘惑していた。だしの入ったつゆの香りがただでさえ空腹な加奈の鼻孔を刺激し、脳がそれを一刻も早く食せと命じている。
次の瞬間には記憶に刻み込まれる暇もないほどの幸せなひと時を過ごした。
気づいた時には熱々の蕎麦とつゆが全身に浸透して湯冷めすら忘れてしまうほどの温もりが加奈の中を包み込んだ。
加奈が食事をしているテーブルの反対側に座った佑香がニコニコしながら彼女を見ていた。
「あなたにしては少し遅かったけど、何かあったのかしら?」
「別に、たいしたことではありません」
「怒らないから教えてもらえないかしら?」
「それ絶対怒るパターンじゃないですか」
以前は正直に答えたところで本当に叱られてしまった経験があり、加奈としてはあまり言いたくはない。
「能力を過信して大けがしてしまったら誰が風雷を守るというの?」
「私でなくてもいいのではないでしょうか……」
「駄目よ。気楽に話せる娘のような守護士なんてここにしかいないもの。だから、大切なあなただからこそ、教えてほしいの」
大切にしてもらっていることを無下にはできず、かといって拒んでもいずれひっくり返されるのは時間の問題だ。加奈が断る選択肢は既に取り消されていた。
「わかりました。話せるところまででいいですか?」
「勿論よ」
折れた加奈は嬉しそうな佑香を見るたびに、この人には勝てないのだと悟った。良い所も悪い所も見通す彼女の前では素直に従うしかない。
主従関係が厳しいわけではないが、佑香は雇い主である以前に家族なのだ。隠し事をしていても見透かされてしまう。
自分はそんなに顔に出やすいのだろうか。
平静を保っていても、佑香は加奈のわずかな変化を見逃そうとはしない。まるで熱心に研究対象としているかのように。
「仕事終わりに女の子を助けました。見た目からは高校生くらいでしたが、その子は長期にわたって現想界を旅しているそうです」
佑香はそれを聞いた途端、面食らったような表情を加奈に見せた。やはり常人ではないという観念は二人の間で一致しているようだ。
「旅? 正気じゃないわね。まさか一人でいたの?」
加奈はこくりと頷いた。
「電妖体に襲われていました。ですが、簡単に攻撃を翻して逃げ続けていたので、何かしらの施設で守護士の訓練を受けているようです」
「新人の子かしら……? あなたの言う通りなら高校生はいくら何でも若すぎる気がするわ」
そもそも守護士はアルバイト感覚でできるような仕事ではない。何より研究施設の規約に同意して人体実験を了承したというのであれば、ただでさえ倫理的な問題の沼に両足を突っ込んで動けなくなる。それが事実なら生命倫理を脅かす大問題に発展する。
「詳しい事情は聞かなかったので、本当に旅をしているのかはわかりません。どこかの訓練所に所属しているとしか言いようがないです」
「もし守護士だとしたら十八歳未満の人間に人体実験を同意させたことになるわ。守護士協会の倫理委員会に知れ渡ったら内部の人間はどぎつい処分が下されてしまうというのに……」
佑香は法外な人体実験の同意があったのではという憶測で話を進めていくうちに嘆いていた。
加奈にとっても麻依という存在は信じがたい話であり、何よりサイバーアーツの心得を持っているのであればその年齢で守護士を担うのは身体への負担が大きく、場合によっては早期に命を落としてしまう。若くして電妖体の駆逐と言う危険な仕事をこなすのはナンセンスだ。
「すみません。今の情報では推測の域を出ない内容でした」
「一度その子にあってみたいわね。名前はわかる?」
「秋野麻依、そう本人は名乗っていました」
「うーん。わたしの周りでは聞かない名前ね」
佑香は考える素振りを見せたが、皆目見当がつかない様子だ。
「偽名かもしれません」
「その可能性は捨てきれないわね。一応調べておこうかしら」
「無駄骨な気がします。赤の他人に固執しても何も出てきません」
「まぁまぁ。わたしの興味があって調べるだけだから。当然プライバシーも配慮するわ」
「当たり前のことを言わないでください」
佑香にその日の報告を終えた加奈は食器を片付けて自室へと戻っていった。
日々の体調を安定させるためにいくつかの錠剤を水で身体に流し込んでいく。
ベッドの隣に置かれた椅子に座り、就寝までの時間をつぶすように通信端末を弄っていると、現想界で起きたニュースの通知が飛び込んできた。端末の設定によりスクランブル体勢で通知が入るようになっているのでその日の情報はすぐに入ってくる。
「『守護士協会が現想界で新たに一人の死亡を発表』、か……」
今日のニュースは現想界に迷い込んだ一般人が遺体で発見されたという内容だった。明確なゲートとは異なり、境界があいまいになっている地域も最近になって現れるようになっているとは認知していたが、あっという間に犠牲者が出たことは悩ましい問題でもあった。
「眠い……」
服用した錠剤の一部に含まれている副作用が徐々に心地よく睡魔を呼び寄せている。
現実世界と現想界を隔てる問題に対する解決策を担うためには……
「もう、寝よう」
うつらうつらと睡魔に抗いながら通信端末を閉じ、柔らかなベッドの上にダイブした。
全身が沈み込む感覚が更に加奈を眠りに誘っている。
きっと今日も夢は見ない。肉体の疲労がかなり蓄積しているようだ。
旅をする麻依という少女と出会ったと同時に現想界に更なる謎が深まったが、それを深堀していくには時間があまりにも少なかった。
加奈は眠りの谷底へ真っ逆さまに落ちていった。
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