ボーイ・密・ガール
夏目咲良(なつめさくら)
ボーイ・密・ガール
――風を追い越してやる――
それぐらいの勢いで俺は自転車のペダルを踏み込み続ける。
通り過ぎていく景色、今はそんなことはどうでも良い。背後に掛かる重み、世界で一番大切な、それだけを感じることができるなら、他には何もいらない。
――ふと漂ってくる甘いリンスの香り――
ふゎさ。
チラリと振り返ると、長い黒髪が風になびいている。整った横顔、はためく夏服、
スカートを目にして、鼓動のカウントが跳ねあがる。まるで、映画の時限爆弾の
ように。
「……大丈夫?……重くない?」
同世代の女の子にしては少し低い、ハスキーな声が耳元でする。自分でも顔が赤くなるのがハッキリと分かった。それを誤魔化したくて、俺は更に足の回転を速める。
「イヤイヤ!ぜぇんぜぇん!平気だから!」
女の子にそんなこと言われて、『もう無理!』なんて絶対言えない。
言っちゃいけない。
やせ我慢こそ男の真骨頂!
ガタン!
「アブね!」
「……あっ」
小石に乗り上げて、自転車が揺れて、バランスを崩し掛ける。
その拍子に一瞬だけ、彼女の手が俺の腰に触れ、すぐ離れた。
「……っ、……ゴメンね」
彼女が息を飲み、風の音で消え去りそうな謝罪。
「……」
俺も何も言わず、無言で只ペダルを漕ぎ続ける。
少し触れるだけで壊れてしまいそうな、アンバランスな、
でも決してイヤじゃないという物凄く微妙な空気が二人の間に流れる。
自転車の前と後ろ、近いようで遠い社会的距離(ソーシャルディスタンス)が
もどかしかった。
「……うぉぉぉぉぉ!」
「……ねえ、ちょっと……」
「……うぉぉぉぉぉ!」
「……降りよっか?」
「……だ・い・じょ・う・ぶ……」
有名な坂道に差し掛かり、一気にペースダウン。でも、意地でも止まらない。
一度止まってしまえば、もう歩くしかなく、それじゃあ、意味が無いのだ。
人は何故坂道を登るのか?それはその先に素晴らしい景色、出来事が待っていると信じているからだ。
坂のてっぺんが見えてきた。遂に登り切り、景色が一気に開ける。
――夕陽に輝く街の全てが見えた――
後は下るだけ。重力の力を借りてスピードに乗ってしまえば、今度こそ彼女は
俺にしがみつくしかない。それによって、二人は社会的距離を越えて、
密着、密接、親密な三密関係を築くのだ。
突如、背後の重みが無くなった。
「え?」
振り返ると、彼女が坂道のてっぺんに立っていた。
「わたしの家、そこだから。送ってくれてありがとうね」
手を振る彼女の姿がゆっくりと、だが、確実に遠ざかって行く。
「バイバイ」
「……え……あ……」
俺は今、どんな顔をしているのだろうか?
「うぉぉぉぉぉぉぉ!」
いろんな感情がごちゃ混ぜにしながら、俺は漕ぐ必要も無いのに、
人生最大のスピードで下り坂を駆け下りて行った。
※自転車の二人乗りは法令で禁止されています。真似をしないで下さい。
ボーイ・密・ガール 夏目咲良(なつめさくら) @natsumesakura
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