深夜
午前2時、ベッドの上で毛布が動く。
寝静まった家に、いびき以外の音が数時間ぶりに響く。
体を起こした少女は、額にかすかにしわを寄せ不機嫌そうにつぶやいた。
「目が覚めた。」
ついさっきまで心地よく寝ていたのに急に覚醒した体と、意識が追い付いていなかった。
ベッドの上で座り込み毛布を抱き込みながら、一人嘆息していた。
「寝れそうにない。」
僅かにめくられたカーテンの隙間から、時折光が差し込む。こんな時間でも何台かは車が通っている。
窓際に体を寄せると、突き刺さるような冷気が待っていた。
一層丸まり、体の内側に熱を集めようとする彼女の姿は、はたから見れば間抜けでかわいらしいものだった。
自分が今どんな風に見えるかなんて考えていないまま、少女はそれまで残っていた眠気が消えていくのを感じていた。
もう一度寝るには難しいかも知れないと、五度目の光を見送ってから考えだした。
起きてから十分経ったが、部屋の中は暗いままだった。
寝ることは諦めていても、照明をつけるのは抵抗があるらしい。
枕元にあるスマホにも手を伸ばしていなかった。
ただ丸まり、通り過ぎる光と厳しい冷気を楽しみながら、時は流れていた。
車の台数も数え飽きたころ、毛布が二本の細腕の拘束から解放された。
横にしていた体を起こし、唇を少しだけ震わした。
「走るか。」
手はスマホに伸びていた。
起動して、SNSを確認せずにすぐに懐中電灯モードに切り替えた。
いくら暗闇に目が慣れていても、光なしで歩き出すには危険だった。
外に行くには着替えないといけない。そう考えた後、なぜか学校のブレザーを手に取っていた。
特に考えがないのか、深い思惑があったのか、明日のために準備していて着易かったからか。
ただ一人理由を知る人物は、黙ったままパジャマを脱いだ。
そのあとすぐにはブレザーを着なかった。十数秒だけ、下着のみの姿で自分の白い肌をいとおしそうに触りながら、夜の冷気を全身で楽しんでいた。
右手で左腕をなでながら、肩、下着まで到達したら、着だした。
満足したのか、飽きたのか。冷えた肌を普段の制服はいつもより暖かく包んだ。
もぞもぞと着替え終わった後、できるだけ静かにゆっくりと部屋のドアを開けた。
首だけ外に出し、廊下を確認する。親も兄妹も寝ている。起きだす気配もない。
開けた時よりもゆっくり慎重にドアを閉める。可能な限り小さな音で外に出る音ができた。
手すりにつかまりながら、一歩一歩踏みしめるように階段を下りる。
漏れ出る足音と吐息が、暗闇に吸い込まれた。
鍵を手に取り、スニーカーを履いた。
ドアの取っ手に手を取り、少しの間だけ躊躇していた。
「まあいいか。」
結局行くことにして、ドアを引いた。
想像以上の寒さに身が震えていた。家の中ではわからなかった夜風が、痛いほど吹いていた。
肩までよりも長く伸びた黒髪が、たなびく。唇の端にかかった髪が払われた。
いざ走り出そうとすると、足が自然に駅のほうへと向いた。いつものランニングルートと反対だが特に迷う様子がなかった。
懐中電灯も何も持っていなかったが、点々とある街灯のおかげで危なくなかった。
後ろにできた影が前に出る。何度も繰り返す。走りにくい格好でもいくらか慣れたのか、徐々に早くなっている。
上気した頬が街灯に照らされる。
止まらずに走り続けていた人影は、ショッピングモールまでたどり着いた。
感慨もなく再び走り出す。昼間と違い人気もなく明かりもない、廃墟のような建物が見送った。
足音が響いた。
曲がりくねった道を走った後、駅までの直線の道に入る。
深夜の住宅街に、タ、タ、タ、と小気味のいい足音が響いた。
香貝高校女子陸上部で培われた健脚が、夜風をまとって暗闇を駆けた。
やけに濁った月光と星明りが、道を照らしていた。
単調な道を走り切り、駅まで着いた。
少女がこれまで13回しか来たことなかった駅は、今までとは全く違う様相だった。
常に走っていた電車も終電はとうの昔。始発も当然まだ遠く、珍しく静かな駅前だった。
駅前だけあって俄然多くなった街灯が、四方八方に伸びた影を揺らした。
駅にまで来てもまだ帰ろうという気にはならないようだった。
駅に、そして線路に沿いながら、まだ走り続けていた。
フェンス、線路、壁、少女と海を隔てるものはかつてなく希薄なものになっていた。
磯の香りは、陸風か何かの影響で鼻につくことはなかった。
眠る前に考えていたからか、ここ最近意識することが多かったからか、走っている間も何度か海のほうを向いた。
線路の向こう側にあるコンクリートの壁が邪魔をする。
六度目、ついに我慢ができず、緑のフェンスに手を伸ばした。
長い間誰にも触られなかったフェンスが軋む様に悲鳴を上げた。
一度は手を放したが、未練ありげにもう一度手を出す。
一度振り上げた足を地面におろしたが、二度目はフェンスにかける。
さして高くなかったことが少女を後押しした。
小学生のころ以来、したことなかったが案外簡単そうに上っていた。
上るときの恐る恐るとした様子はなくなり、軽やかに飛び降りた。
スカートが重力から解放されたように羽ばたいた。
線路に足を踏み入れるのは、フェンスを上るよりも抵抗があるようだった。
逡巡は一瞬。線路に敷き詰められた小石がジャリジャリと音を出した。
人影が不安定に揺れながら、前に進んだ。
足元の小石を蹴らないように、つま先立ち。
三本目の線路を越えた先のコンクリート。ギリギリ目の高さまで。
少女は知らないが、横から見れば台形の壁。傾斜60度ほど。
ここまでくれば躊躇もないのか、すぐに手がかかった。
腕に力を込め体を浮かし、駆けるように足を動かす。
三歩目で頂上に足がかかった。次の一歩でうまく乗れた。
バランスを崩し危うく落ちかける。後ろに半歩、前に一歩、右、左。アン・ドゥ・トロワ。まるで踊っているかのような動きで立て直した。
壁がほんの少しでも薄ければ落ちていたかもしれない。
ブレザーについた汚れに気づいていたが、さして気にしないようだった。
目を凝らしても思い描くものは見えず、白いような何かが広がっていた。奥のほうは暗かった。
急に雲がかかり、暗闇に慣れた目でも辺りが見えなくなった。
奥のほうは暗かった。
足元に一体何があるのかわからず、壁の下に行くかどうかは迷っていた。
怪我しそうな雰囲気はなかったから、行くことにしたらしい。
ここが海である以上、あの白いのも水かもしれないと考えたらしい。
学校規定の白いスニーカーと靴下を脱ぐ。
壁の上に揃えて置く。靴を並べて靴下を中に入れて。
人の気配もなく、置きっぱなしでも大丈夫だろう。
手と足をうまく使いながら、怪我しないように降りる。
指の先が地面に触れた。水でもないが固くもない。想定外の感触に驚いたような顔を見せる。
17年の人生で初めての砂浜に、好奇と戸惑いが入り交じる。
足の裏を動かしながら、柔らかい感触を楽しむ。
手で掬い取って初めて砂だと知る。
何がおかしかったのか、笑っていた。
掬い取った砂が落ち切ってから、立ち上がり歩き始める。
奥のほうへ、暗いほうへ。
香貝高校二年生橋崎晴美は、一歩一歩砂に足を取られながらも前に進んだ。
少しだけ引き締まった素足が、砂の白と同じ色で、混ざり合っていた。
ようやくたどり着いた。
ある程度の予想通り、暗い何かは水だった。
夜の暗さで目の前に来てもまだよく見えない。
望まれた通り、雲が晴れた。
それが海に来てから直後なのか何分も後のことなのか、晴美はすぐに忘れた。
「綺麗」
呆けたような声が出る。
初めての光景に目を見張る。
想像していたもの。
是
想像通り。
否
予想通りで期待以上。
水が集まっただけでありながら、今まで見たことのない色に見惚れる。
ただし、その色は我々が知る色ではない。
既知の青でも、緑でも、赤ですらない。
想像しうる青も、想定しうる緑も、想起しうる赤もない。
2×××年、八月二十八日、午前三時五分。
橋崎家の第二子、長女は初めて海の水と触れた。
べたついた水が舐めるように白い足に纏わりつく。
かつて母の称号を得たこの水たまりも、今現在においてたった一人の生命を除き、何の生物も存在しない。
魚なんていなくなって久しい。
生態系は変わり、移ろい、流れる。
月光はなおも鈍く光る。
少女はなおも浸り佇む。
水面はなおも淡く揺れる。
たとえ雲がなくても、この世界の月は明るく光らない。
電車の需要は再び増え、日中住宅街をひっきりなしに通っても苦情が出ないほど騒音が改善された。
八月の終わりは長袖を着る。
漁師という職業は名前だけを残して絶滅した。
海に、誰も、興味なんか、持たない。
「アハハハ」
楽しげな笑い声が夜の暗闇にやけに響く。
冷たい水が輝きながら空中を舞う。
思わなければ思わないものだ。
目の前の光景が美しさではなく死を表していることなんて。
慣れれば考えないものだ。
海の近くに住んでいながら、海を意識せずに暮らすわけなんて。
こうして少女は齢十七にして少々愉快な経験をした。
白い肌と、照らされた海が、溶けていく。
海の街 トキン @jkblasb
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