第2話 フィーネの性癖

 アナトルに話しかけられたときは弾ける笑顔だったフィーネの顔は、みるみるしおしおになった。


「そ、そんなあ……!」


 しかし第六王子アナトルはその顔を歯牙にもかけない。


「うん。悪いとは思うが、もうこれしか手はない。恨んでくれて構わないから、今日限りで荷物を引き取ってこの屋敷から出て行け」


「も、もう一度お考え直しください! わたしがいなくなったら、誰があなたを守るんです!?」


「ええい、縋り付くな、暑苦しい! 別に守ってもらわなくても、落ち目の第六王子に手を出す奴なんていない! おまえだってもうずっと暗殺者と戦ってなんていないだろう!」


 トリエス王国の貴族街、その端に佇む第六王子アナトルの私邸は、かつて母が王の寵愛を得ていた頃にはあった金目のものが根こそぎなくなり、もはや空っぽも同然のありさまとなっている。


 原因は調略の失敗だ。アナトルは正妃の息子である第二王子が次の王になると見込んですり寄って、請われるままに潤沢にあった金をつぎ込んで支援してきたが、第二王子は無茶な事業に手を出して失敗し、貴族からの信用を失い、失脚していった。


 今や妾腹でありながらその有能さだけで多くの官僚や市民たちの厚い信頼を勝ち得た第一王子ユーグが次の王になると巷ではもっぱらの噂だ。


 つまり、アナトルは勝ち馬に乗り損ねたのだ。

 アナトル自身も王位争いに巻き込まれまいと奮戦したものの、最後に残ったのは莫大な借金だけだった。

 端的に言って、金が無いのである。


 失脚と追放は時間の問題で、いざユーグが王となれば命は取られないにしてもどんな辺境に飛ばされるかわからない。アナトルからはこれ以上は甘い汁を吸えないと早々に見切りをつけた人々は去り、残るのは護衛騎士のフィーネと、幼いころから側仕えをしている執事のコランだけとなってしまった。


「今までついてきてくれたことに感謝はしている……が、これ以上ない袖は振れない。

 次の仕事が見つかるまでの給金くらいならなんとか工面するから、とりあえず明日からは出勤しないで、転職活動に励め」


「い、嫌です!」


 アナトルは本気だ。本気で、自分をクビにしようとしている。


 それを察したフィーネは、全力で反対した。


「わたしはあなたを愛しているんです! ふくふくのお腹も、ゲジゲジみたいな眉毛も、たるたるのほっぺも、針金みたいに細い目も!

 王子のへちゃっとした顔が、わたしのタイプど真ん中なんです! だからわたしを側に置いてください、クビになんてしないでください!」


「もしかして僕はケンカを売られているのか」


「売ってません! 告白しています!」


「愛を告白するときは相手を褒めるものだぞ」


「褒めているつもりですが……?」


「やはりケンカを売っているだろう、それは」


「そんなあ! こんなに大好きなのに!」


 フィーネの渾身の告白を聞いて、アナトルは長いため息をついた。


 フィーネは異様なほどの面食いであった。

 しかしその好みは、およそ世間一般とは遠いところにある。


 一重の細い瞳は絶対に欠かせないし、その下にある頬はたるたるなほどよい。

 ニキビ跡があるのも思春期と戦ってきた歴戦の証という感じがして素敵だ。

 脂肪の目立つ体型、特にふくふくのお腹はたまらない。


 フィーネはそういう男性を指してこう表現する。


「へちゃっとした顔がたまらなくキュートです!」


 褒めていないことに、彼女は気づいていない。

 要するに、世間一般からは見目がよくない、と評されるような男性が彼女は好みなのだった。


 初恋の魔術師も、道場の子倅も、およそ美男子とはかけ離れた外見だった。

 だからこそ、フィーネが相手にどれだけ切実に愛を訴えても「からかわれている」と思い込まれてしまうこともよくあった。


 アナトルの額に浮いた青筋には気づかないまま、フィーネは言葉を重ねた。


「給金なんてなくてもいいです。わたしを都合のいい女として使ってください。

 あなたが望むなら決闘でも夜伽でも暗殺でも、なんでもします!」


 フィーネの必死の抵抗だが、アナトルの返事は簡潔で、決意は揺るがない。


「必要ない」


「なぜですか? あなたが望むなら、たとえ他の王子殿下だって始末して見せます。

 もちろん捕まるでしょうが、あなたに命じられたなんていいません。

 たとえそのまま死罪になっても構いません。あなたのために死ぬなら本望なんです!」


 そこまで言うと、アナトルは長いため息をついた。


「おまえな、そういうところだ。そういうところだぞ!」


「どういうところですか、お気に召さないところは、治してみせます。

 そうすれば、クビにしないでくれますか!」


 ヒートアップしてきたフィーネとは対照的に、アナトルはあくまで冷静に告げた。


「重いんだよ、愛が!」


 実感の籠った一言に、フィーネは立ちすくんだ。


「出会った時から好きだ好きだと僕は一体何回聞かされたんだ。

 その度に断って振ってきたのにまったく諦めもしないで次の日にはまた好きだと言う。

 好意を向けられること自体は嫌いじゃないが、何事にも限度というものがあるだろう。

 おまえのそれは、常軌を逸しているんだよ」


 ぐう、とフィーネは唸る。


「騎士としての腕は僕も認めているが、なんというか、おまえの仕事には波がありすぎる。

 僕の命令を聞くときと、僕と関係ない仕事をするときと、実力が違うんだよ。

 この間の御前試合だって、僕が見学していたときだけ勝っていたそうじゃないか」


「そ、それは、好きな人にいいところを見せたいと言うのは、わたしの乙女心ですよ」


 先日の御前試合だけではない。

 フィーネはアナトルが見ていないときは、試合に勝ったことがない。


 それでついた不名誉な二つ名を『恋愛脳筋騎士』という。


 アナトルはフィーネの返事を聞いて、もう一度ため息をついた。


「おまえの想いに応える気も、おまえの人生を背負うつもりは僕にはない。

 だからいい加減恋愛脳から目を覚まして、自分の足で世を渡っていく力を身に着けろ。

 おまえの騎士としての実力が十分発揮できるならきっと、どこでもうまくやっていけるから」


 言葉の厳しさに反して、アナトルの細い瞳には慈愛のような感情が含まれていることに、フィーネは気づいている。


 護衛騎士に就任してからそろそろ四年目になる。

 ずっと、たくさんのことを一緒に乗り越えてきたのだ。

 この人が冷たいことを言うのは、相手が変な誤解をしないと信頼しているときだけだとわかっている。


 だから、王子は本気なんだ。


 本気で、わたしを遠ざけようとしているんだ。


 給金が払えないのも本当だけれど、わたしを側に置きたくないのも本当なんだ。


 フィーネにはそれがわかる。


 それでも、

 嫌われているわけじゃない、心配してくれた結果なのだと思っても、

 やっぱり寂しい。


「……もう、決められたことなんですね? もう、話し合いの余地はないんですね?」


 最後に一言だけ、未練のようなことを口にしたフィーネに、アナトルはあっさりと告げる。


「そうだ」


 その返事が、全てだった。


 瞳から光を消して、重苦しい表情でフィーネはアナトルの私室を辞した。

 それと入れ替わるように、執事のコランがアナトルに面会する。


 コランはアナトルがフィーネに何を通告したのかすぐに察し、窓の外を見た。


「めっちゃ雨降ってますけど、今日このままフィーネさんを帰して大丈夫ですかね」


「知らん」


 アナトルは簡潔に返事をするが、すぐにコランに加えて言いつけた。


「準備完了だ、迎えをよこせと先方に連絡しろ」


 コランはその言葉に、静かに頷き、部屋を出て行く。


 一人きりになった部屋に、アナトルの声が静かに響いた。


「……兄上も、苦労するだろうがなあ……」


 そのつぶやきは、すぐに雨音にかき消される。

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