34.??「投げようと思った何でも投げられる」

「いつでもいいよー」


 紅音くおんから18.44m先、防具に身を固めた明日香あすか先輩が手を振っている。


 つくづく思うのだが、あの野球道具は一体どこから出現したのだろうか。恐らくどちらかの私物なのだろうが、少なくとも紅音は青春部室内で見たことが無い。


 もちろん、ある程度片付いた現在と違って、ほんの数週間前の部室内部は、遠目から見ればゴミ屋敷や物置きにも見えなくないほどの散らかりっぷりだったし、適当な鞄に入れて、奥の方にしまい込んでいたのであれば、視界に映らなかったのも納得なのだが、その割には綺麗に保たれているような気がする。


 それに加えて、打者役として打席に立っている葉月はづき先輩の装備もまあまあ凄い。ユニフォームという訳ではないが、マイバットに、バッティンググローブ。シューズも恐らくポイントスパイクと思われるし、アームスリーブまでつけている。


 こだわりにこだわりぬかれたフル装備だが、これらが紅音相手に効力を発揮する日は恐らく、ない。


 さて。


「何から投げましょうかー?」


 明日香に問いかける。すると即答で、


「なんでもいいよ。自由に投げてみてよー」


 とのことだった。


 通常、ピッチングというものは、大体投げる球種が決まっているものだ。


 練習であれば事前に取り決めていることが多いし、試合ではキャッチャーから出たサインと、ピッチャーの意思をすり合わせた球種やコースが選択される。


 何故か。


 そうでもしないとキャッチャー側の負担が大きすぎるからだ。


 だからこそサイン違いでも起ころうものなら、プロのキャッチャーですら、あっさりパスボールしたりするのだ。


 とまあそんなわけで、基本は球種を指定するものなのだが、明日香は自由に投げていいという。これはひとえに、紅音の実力不足によるものであり、「まあ、ノーサインでも取れるだろう」という判断に他ならない。


 悪い言い方をすれば「舐められている」という事も出来るが、この場合はそれが事実なので返す言葉もない。文句を言うのであれば、まずはその認識を変える球を投げるところからだろう。


 と、いう訳で、


「行きますねー」


「ういー」


 紅音が投球動作に入り、葉月はづき先輩が打席内で構えを作る。思ったよりも大分変な構えをしている。


 右打席に立っているのだが、バットのヘッドを紅音側に向けて、しかも頭よりも上に掲げている。


 あんな構えで打てるのか。それとも、打つわけではないから適当に構えているのか。その真意は本人に聞いてみないと分からない。


 ただ、今の紅音にとって重要なのはそんなことではなく、明日香先輩のミットにめがけてきちんと投げ切ることである。


 ワインドアップからゆっくりとモーションを作り、体重移動をし、投げる。フォームはなんとなく思いついたものだ。やっぱり投手と言ったら、ワインドアップだろう。


 リリースされたボールは、すっと線を書くように明日香先輩のミットに収まる。ただ、その位置は、当初構えられた位置とは大分離れていた。それでも明日香先輩は、


「良いボール!ねえ、ホントに野球やらない?」


 勧誘をしながら返球してくる。紅音はそのボールを受け取り、


「今のところそのつもりはないですって」


「ちぇー」


 なんだか悔しそうにする明日香先輩。最も、その顔はマスクで見えないわけだが。そこまでフル装備にするくらいなら、最初から球種を決めた方がいいんじゃないのと思わなくもない。


 さて。


 取り合えず直球は投げた。ただ、陽菜ひなはそれを得意としている。いくら何でも野球経験ほぼゼロの紅音が投げる直球など、簡単に打ち返されるに違いない。と、いうことで、


(行ってみるか……)


 紅音はグローブの中にあるボールを転がしながら、縫い目を確認して、握る。流石に、まだ確認しながらでないと難しい。


 握りを確認し終えたのち、紅音は明日香先輩に向き合う。向こうも雰囲気を感じ取ったのか、捕球体勢を作る。それを確認したのち、紅音は再びワインドアップから、二球目を、投げる。


「うおっと」


 抜けた。


 明日香先輩が思いっきり手を伸ばして何とか捕球する。流石に一筋縄ではいかないようだ。


「ドンマイドンマイ」


 そう言いつつ返球する明日香先輩。あの感じだと、変化はしていなそうだ。それもそのはず、あんな高さに抜けたスライダーでは、到底使い物にはならないだろう。


 まあいい。


 試したい球種はまだまだある。


 紅音は再び受け取ったボールをくるくる回しながら縫い目を確認する。


 どれか一つでも使えれば儲けもの。


 そう思い、次の投球動作に入っていく。



              ◇



「ストレートと、チェンジアップだけかなぁ」


 十数分後。


 明日香先輩の出した結論はそれだった。


 ちなみに、


「そうですね……それ以外は使わなくてもいいと思います」


 葉月先輩も同意見のようだった。


 あれから、紅音は様々な球種を投じた。


 最初に投げたスライダーを皮切りに、カーブ、フォーク、SFF、シュート、、ツーシーム、シンカー、チェンジアップ。スライダー、カーブに至ってはそれぞれ数種類を投じたし、中には紅音の目線から見てもしっかりと変化をしているものがいくつもあった。


 そのため、投球を終えた段階では、それなりに多くの球種を使えるものだとばかり思っていたのだが、突き付けられた結論は実に残酷だった。


 明日香先輩は言う。


「うーん……全部きちんと変化はしてるんだけど、キレが良くないんだよね……まあ、そもそも素人がこれだけ投げられるってのが結構異常なんだけど……チェンジアップ以外は投げない方がいいかもしれないねー」


「……そんなもんですか?」


「そうだねー……全く使えないわけじゃないと思うんだけど、彼女、ほら、ストレート狙いでしょ?そうなってくると、このキレでストライクからボールになる球はピクリとも反応しない気がする」


「マジすか……」


 葉月が追い打ちをかけるように、


「そうね……私を基準にするのはどうか分からないけど、正直実際の打席だったら振らない球が多かったわね」


「マジかー……」


 変化球のほとんどが通用しない。


 正直言って、結構ショックだった。


 それこそ我流に近い形ではあるものの、しっかりと握りを確認し、壁に向かって投げてみるくらいはしてみたもので、一応の手ごたえはあったものだ。


 それらがほとんど使えない、となると、そのショックはそれなりに大きい。素人の付け焼刃がそんなに凄いものになどなりようがないというのは分かっているつもりではあるのだが。


 そんな落ち込みを知ってか知らずか明日香先輩が、


「でもまあ、チェンジアップは使えると思うよ。確か、佐藤さとうの苦手球種だった気がするし」


 葉月先輩も続けて、


「まあ、緩急には弱そうでしたね、正直。だから、良いことだと思いますよ」


「なるほど……」


 明日香先輩はパンっと音を立てて手を叩き、


「まあ、考えてても仕方ない。取り合えず、ストレートと、チェンジアップの二球種に絞って、もうちょっと投球練習してみよっか」


「そう、ですね。やりましょうか」


 そう。


 考えていても仕方がない。


 やるしかないのだ。


 そんな紅音に、


「お、頑張ってるねぇ。珍しい」


「そうですね~兄があんなに真剣なのって、珍しい気がします」


 野次馬が二人、群がっていた。ねえ、君たちほんと、何しに来たのさ。

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