26.エースをたおせ!
「やっちゃったねぇ……」
「今からでも撤回した方が賢明なのではないですか?」
少し後。
事態を聞いて顔を出してくれた
ちなみに、現在は全員で部室を飛び出して、学校の校庭……というか、その一角にある壁打ち場に来ている。
無機質なコンクリートの壁と、これまた無機質なコンクリートの広場。ぱっと見は地味だが、ここも立派な運動場の一つである。
例えば野球なら、この壁から跳ね返ってくるボールを取るだけで立派な守備練習になるし、テニスでも跳ね返って来たボールを打つだけで疑似的なラリーが成立するはずだ。いつもはそこそこ人がいるのだが、今日は人がまばらだった。
葉月先輩は改めて、
「
「まあ、そうですね」
「だったら、いくらでも撤回は出来るのではないですか?それこそ、日程が合わないとか……」
「それは難しいですね」
「どうして」
「それは、相手が
そう。
問題はそこなのだ。
例えばこれが明日香先輩や葉月先輩相手ならば話は別だ。それこそ、いくらでも言い訳は聞くし、いくらでも丸め込むことが出来るだろう。
なんだったら最終的に「勝負を挑んだ方がおかしかった」という論調に持ち込むこともできるはずである。なにせ、二人は野球歴がそこそこ長いのだ。その二人が野球歴ゼロの紅音に勝負を挑む時点で既におかしい。そこを突けばいいだけのことである。
ところが、
「例えば、そうですね……俺があいつに勝負の中止を申し出たとしましょう」
「はい」
「そうなったらどう反応するか。簡単ですよ。“オーホッホッホッホッ!負けるのが怖くなったのですね!ということは、私の不戦勝ですわ!”って言い出すんですよ」
いかん。自分で言っていてイライラする。良いサンドバッグは無いものか。
葉月先輩はそれでも食い下がり、
「でも、それはあくまで佐藤さんが言っているだけでしょう?無視すればいいのではないですか?」
「じゃあ、一つ聞きますけど。先輩は、全く同じような内容を明日香先輩が言ってきたら引き下がりますか?」
その言葉に葉月先輩(と、なぜか明日香先輩までもが)
「「ああー……」」
納得してしまった。分かって貰えたようで何よりだ。
ただ、それでも明日香先輩が、
「で、でも。それはあくまで相手も野球してるからでしょ?西園寺は全くやったことがないんだから、別にいいんじゃ、」
紅音は遮るようにして、
「じゃあ聞きますけど、他のジャンルで喧嘩を売られて、まあ苦手分野だからいいやってなります」
「…………ならない」
よかった。漸く納得してくれたみたいだ。
葉月先輩が隅っこで木によっかかりながらタブレット端末をいじっている
「それで、相手の佐藤っていう子はどんな選手なんですか?」
朝霞は「よっ」と木から離れて近くに来て、タブレット端末を2、3操作すると、
「去年の成績はこんな感じですね」
覗き込んだ葉月先輩と明日香先輩はそれぞれ、
「エースですね」
「え、やば」
どうやら相当の成績らしい。葉月先輩が朝霞に、
「厳密には違う競技とはいえ、この成績の相手が、素人相手に野球で勝負しろだなんて、随分とまあ、卑怯ですわね」
「うん、これは完全に自分のフィールドだね」
それに対して朝霞は、
「まあ、流石にそれは相手も分かってるみたいですよ」
明日香先輩が、
「どういうこと?」
紅音が、
「勝利条件が緩いんだ」
「そうなの?」
そう。
流石の陽菜も実力差は分かっているようで、勝利条件はかなり緩く設定してきたのだ。
それが、
「ええ。俺が投手を務めるなら、一打席でもアウトに取ったら俺の勝ち。俺が打者を務めるなら、一本でもヒットを打ったら勝ちでいいそうですよ」
一打席抑える。
あるいは一本ヒットを打つ。
それが陽菜の出した条件だった。ちなみに、
「え、それって打席数とかの条件は」
「無いですね。無限です」
「それって、何回もやってればなんとかなるんじゃ」
「でも相手はエースで四番ですよ」
「う」
そんな会話に朝霞が、
「それね、そんなにビビることもないかもしれないよ」
葉月先輩が、
「そうなんですの?」
「ええ。と、言っても言葉の響きほどはってことですけど。葉月先輩はうちのソフトボール部があまり強くないのは知ってますよね」
「え、ええ。ぱっとしないとは聞いています」
「そう。調べたんですけど、うちのチーム。どうも佐藤だけが頭一つ……いや、二つくらい実力で抜けてるみたいなんです」
今度は明日香先輩が、
「そんなに?」
「ええ。んで、更に調べてみたんですけど、どうも彼女、うちに学業の推薦で入ってきてるみたいなんですよ」
「学業の……スポーツじゃなくて?」
「そうです。エースで四番なんて実力だから、スポーツの推薦かと思ったんですけど、そもそもうちの学校はソフトボール部の推薦は取ってないんです。だから、ありえない」
紅音が、
「なんで学業なんだ。そんだけの実力があれば、スポーツの推薦で強いところにいってもよかっただろうに」
疑問をぶつける。朝霞は肩を軽くすくめて、
「さあね。そこまでは分からないよ。俺が分かるのはあくまで事実だけだから。ただ、ここから分かるのは、いくらエースで四番とは言っても、チームの実力を考えたら、そこまでビビることはないんじゃないかって話。まあ、それでも未経験の紅音とは実力差があるだろうけど」
その通りである。
一応、紅音も運動神経は悪い方ではない。
体力測定の結果は上から数えた方が早いくらいの位置にいるくらいなもんで、こと野球に関しても、今まで手を付けていなかっただけで、才能が眠っている可能性は決してゼロではない。
しかし、
「にしても一週間は無理があると思うけどなぁ……」
そう。
明日香先輩の言う通りだ。
期間は一週間。
紅音側が経験者ならともかく、ズブの素人に近いのだ。
しかも今日が月曜日で、指定された勝負の日は金曜日だから、実際は一週間もない。どう考えても無理なスケジュールだった。
それでも、
「まあでも、さっき言った通り、中止はないんで、やるしかないんです」
と、紅音が話を切り上げる。こうやって話しているうちにも時間は刻一刻と過ぎていく。今はまだ日がそこそこ長いから出来る時間もそれなりに長いが、それだって無限ではない。早く始めなければ。
そんな紅音の言葉を聞いて先輩たちものろのろと動き出す。なんだかんだ言っても手伝ってくれるのだからいい先輩だと思う。
そんな中、
「……
一人、ぽつりと佇む姿があった。
さっきから一切会話に参加していなかったが、ついてきてはいたのだ。そんな彼女は、
「あの、私が頼んできましょうか?」
「何を」
「勝負、無しにしてくださいって」
「それは」
考えるまでもない。月見里は今回のことに負い目を感じているのだ。元をただせば彼女が売り言葉に買い言葉で買ってしまったのが今回の喧嘩であり、紅音は巻き込まれただけに過ぎない。
だから、
「大丈夫だ。別に負けたって死ぬわけじゃない。それに、どんなに野球で勝ったとしても、あいつが万年二位なのは変わらないからな」
そう説得する。その言葉に嘘偽りはない。負ければ悔しいのは確かだが、そもそも得意ジャンルで勝負を挑んできた陽菜のほうがルール違反もいいところなのであって、紅音がその土俵にずっと乗っかっている筋合いはない。ただ、それでも月見里はなんだか喉に小骨でも引っ掛かったかのような表情を崩さないので、
「ひゃっ!?」
頭を撫でてやる。そういえば昔はこれで
「あ、あのっ」
「ほれ、これ」
「わっ」
紅音は先輩方の持ってきたグローブから適当につかみ取って月見里に手渡す。許可は取っていないが、月見里なら怒ることはないだろう。
「いこうぜ」
「あ、は、はい!」
そんな返答だけ聞いて、紅音は先輩たちのところへとかけていく。そんな背中を、月見里はじっと見つめていた。そして、その手は先ほどまで紅音の手があった頭を触っている。何かの感触を確かめるように探るその仕草には誰も気が付かなかった。
ただ、一人を除いて。
(天然なのかねぇ……あれは)
朝霞
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