小牧原美心はいただきますが言えない 27
飛んできた自転車は、來華の目の前で何かに阻まれて落ちた。地面とぶつかる音、不完全に鳴るベルの音、アルミ同士のぶつかる音が連なる様に響き、間髪入れずに來華にとって聞きなじみのある悲鳴が届く。
「……吉祥寺君?」
目を開けるとそこには、中腰で脛を抑え、痛みに顔を歪ませる雪輝の姿があった。
「ああぁ、いてぇ……マジでいてぇ」
「てめぇも覚えてるぞ。あん時の」
ハルキが睨んで言った。
「いてて……お、おう。久しぶり。つっても挨拶するような仲でもないか」
雪輝は足元に転がる自転車を拾い上げる。そのままハルキの隣にまで持ち運んで、元あった場所に優しく置いた。
「これ、お前の?」
その問いをハルキは無視する。その様子を見て雪輝はため息をついた。
「はぁ……人の物を投げるなよな」
「なんなんだよお前!」
「友人だ」
雪輝は一言だけそう返した。誰のとは言わない。
自転車をしっかりと立てて、汚れていた部分を数か所手で払うと、雪輝はそのまま來華の方に向かって歩いた。彼女はただじっと雪輝の顔を見つめている。どうしてここにいるのだろう、そもそも会ったのはどれくらいぶりだろう、それよりも怪我は大丈夫なの? 二秒もない時間の中で、來華の頭の中にはたくさんの言葉が浮かんだが、それが渋滞を引き起こしてしまい、ついにはそれらが口から出ることは無かった。
「よっ。てかその……なんか久しぶりだよな」
少し照れ臭そうに雪輝が言う。その言葉がまさに鶴の一声の様にして、來華の頭の中の、乱雑な言葉の渋滞は解消された。
「教室に戻って、私のことはすっかり忘れたのかと思ったわ」
口から出たのが嫌味だった事に、來華は少し自分で笑えてしまった。雪輝も自嘲気味に笑う。やがてゆっくりと少し足を引きづって振り返り、雪輝は少し申し訳なさそうな顔でハルキを見た。
「内山春樹だっけ」
「……」
「その、悪かった。多分この子が失礼な事言ったんだろうな。たまにすげぇ口が悪いんだわ。すまん」
雪輝が頭を下げる。すると來華が一歩前に出た。
「ちょっと、なにを謝っているの!?」
「いいから落ち着け」
來華を制止する。
「來華がなんて言ったか詳しくは知らんけど、今度の文化祭、オレはアンタに、予定通り来て欲しいって思ってる」
その言葉に來華の口が丸く開かれた。
「……え? 何を言ってるの……?」
來華の驚きを無視して、雪輝は真剣な目でハルキを見つめる。彼の方も静かに雪輝を見た。混乱している女の子を挟んで男二人が見つめ合う奇妙な図は十秒ほど続いたが、ハルキが踵を回すことで、その構図は崩れた。
「……友達作れねぇんじゃねぇのかよ」
雪輝たちに背中を向けたまま、ハルキはそう呟いて歩き始める。しばらくその後ろ姿を眺める二人だったが、やがて彼はネオンの光の方へと消えていった。
「……はぁ」
ぱたんと、緊張の解けた來華が倒れるように腰を下ろした。そのまま壁にもたれ掛かって深い息をつく。
「だ、大丈夫か?」
雪輝が心配そうに顔を覗き込むと、学ランの袖を來華に引っ張られ、バランスを崩すようにして彼女の隣にしゃがみ込んだ。
「うおぉっと」
「聞きたいことが沢山ある」
「じゃあ何から聞く?」
と茶化すように答える。すると來華は器用に足を動かして、かかとで雪輝の脛を素早く三回程攻撃した。
「痛い痛い痛いって! 今はマジで痛いんだって!」
「だったら真面目に答えなさい」
「……はいはい」
「まず……何でここにいるの?」
雪輝も壁にもたれる。
「文化祭の準備で学校に行ってたんだけど、神原先輩から、もしかしたら今日來華がハルキに会いに行くかもって聞いて、心配になったから捜しに来たんだよ」
「でも場所は? お店は今日決まったことで、私たち以外知らないはずだわ」
「これだよ」
そう言ってスマホの画面を見せる。それは先程ハルキがアップした、テーブルに並んだ料理の写真だった。
「……さっき彼が撮ってた写真ね。でも、この写真には店の名前とかは何も……」
來華の言う通り、写真に写っているのは殆ど料理だけだった。この画像から店を特定するのは難しそうに見える。
「アイツ、位置情報をオンにしてあったから、とりあえず金山にいるって事は分かったんだ。あとは写真にパスタが映っていたから、ここ周辺のパスタ屋の口コミ画像を片っ端から見てまわって、この写真に写っているのと同じ、木製のフォークを使っている店を探したわけ」
「……ほぼストーカーね」
「まぁそれは自分でも思う……」
「じゃあ次、質問二つ目――うっ」
質問を続けようとした來華はとっさに口を押える。少しずつ顔が青ざめて、雪輝の腕を引っ張りながら前屈みになる。
「おい、ちょっ。どうした……?」
驚く雪輝に、來華は二度ほど唾を飲み、息を整えつつ答える。
「……完全に緊張が解けたからか……吐きそう」
「はぁ!?」
「来る前に……薬を飲み過ぎたみたい……うぅぅ」
「薬って……?」
來華が苦しそうに項垂れる。すると肩から下げた鞄が地面に横たわり、隙間から銀色の袋が顔を出した。
「……ちょっと鞄開けるぞ」
そう言って彼女の鞄に手を伸ばす。特に抵抗もなく鞄は取り上げられ、その中身を撒き散らかされた。胃薬、酔い止め、吐き気止め、数種類の鎮静剤に謎の漢方薬。そしてそのほとんどが使用済みになっていた。
「マジかよ。吐けそうか?」
「嫌よ……吐き気止め、まだ残ってる?」
「残ってるけど駄目だ。つかどれをどんだけ飲んだが知らんが、死ぬから吐けって」
そう言って雪輝は來華の背中をさする。
「ちょ、やめ……ホントに、出るから……」
「だから出せつってんだよ」
抵抗できずにいる來華に下を向かせ、その背中を撫で続けた。來華は「うぅっ、うっ」と声を漏らしながら吐き気に逆らう。髪は乱れ、固く閉じた目の両端から涙がにじみ出ている。吐き気の波を伺いながら呼吸をするタイミングを計る事で精一杯の様子だった。その後十秒ほど耐えた來華だったが、もう無理と悟ったのだろう、涙にぬれた瞳を開けて雪輝を睨み、弱々しい声で早口に言った。
「あっち向いて耳塞いで」
その言葉が聞こえると同時に、雪輝は彼女の頬が膨らむのを見た。ぶぅという、口の中から空気が押し出される破裂音が聞こえ、続いて彼女の辛そうな声と共にボトトトトと、粘性の液体がコンクリートにぶつかる音がした。
「……うぅ、はぁっ……はぁ」
全てを出し終えた來華は涙を流しながら荒い呼吸を必死で整えようとする。その間も雪輝は彼女の背中を撫で続けた。
「ハァ、はぁ……私の話、聞いてた?」
雪輝に顔を見せないようにしながら言う。
「いやとっさには無理だって。つかちょっと待ってろ、オレの鞄に新品の雑巾が入ってるから」
來華の背中から手を放して、鞄の中から未開封の五枚入り雑巾を取り出した。伸びるビニールの梱包に苦戦しながらも袋を開け、そのうちの一枚を來華に手渡す。受け取った彼女は口元をぬぐい、折りたたんで顔を埋めた。
「大丈夫か?」
「……えぇ。そうよね、私みたいな汚物、雑巾がお似合いよね……」
「何意味の分かんねぇ事で卑屈になってんだよ……水を買ってくるから、また吐きたくなったらちゃんと吐けよ」
そう言って雪輝はネオンの方に走って行った。來華はその後ろ姿を見送ってからふと隣の吐瀉物を見る。彼の前で情けなく吐いた事実を認識し、急に虚しくなった。
「……死にたい」
そう呟くも、跳ねて服に着いた汚れを二枚目の雑巾を使って拭っていった。ほどなくして雪輝が天然水のペットボトル三本を抱えて戻ってくる。來華は顔を逸らして「近づかないで」と叫んだ。
あっけにとられた雪輝だったが、彼女の紅く染まった顔と、身体で吐瀉物を隠そうとする仕草を見て意図を察する。そのまま奥の駐車場の方に進むと、のそのそと後ろから來華の着いてくる足音が聞こえた。人目につかない茂み横のコンクリートに腰を下ろし、ふらつく來華を待つ。
「良かった、服はそんなに汚れてないみたいだな」
來華は雪輝の元にたどり着くと、そのまま倒れるようにして尻餅をついた。
「……疲れた」
「おつかれさん」
「……気が抜けるとダメね。こんなに一気にクるなんて」
來華は水を受け取り口をゆすぐ。その後胃の空いたスペースを埋めるように、ごくごくと飲み干した。
するとその時、彼女のポケットに入っていたスマホが鳴る。取り出してみると漆野からの着信だった。
「……漆野さん」
「アイツまで引っ張り出してたのか」
「ごめんなさい、必要だったから、彼女には小牧原さんの事を話したわ」
「まぁ、漆野なら大丈夫だろうけど……つか、出なくていいのか?」
來華スマホをタップして耳に押し当てる。
「もしもし」
「あっ、東雲さん! その、あれからどうでした? 大丈夫ですか?」
電話先の漆野の心配そうな声が雪輝にまで聞こえてくる。
「えぇ、大丈夫よ。心配かけたわね」
「なら良かったです。今どこですか? こっちももう解散になったので、まだ近くにいましたら合流して帰りましょう」
それを聞いて來華は一度雪輝をチラッと見た。そしてすぐに視線を戻し、彼女の誘いに答えた。
「……ごめんなさい、もう電車来たわ。疲れたから先の帰ろうと思うのだけど、いいかしら?」
「あっ、もうホームにいるんですね。分かりました、琴弾先輩に伝えておきます」
「えぇ。今日は本当にありがと、漆野さん。また学校で」
「はい。また学校で」
そう言って通話は切れた。
「一緒に帰った方がいいんじゃないのか?」
「嫌よ。こんな姿見せたら無駄な心配をかけるわ。それに……」
來華はどこか恥ずかしそうに俯く。
「それに……もう動けない。限界。体力切れ」
「はぁ……もやしっ娘め」
「昨日から緊張で全く寝れてないの。薬のせいでぼんやりするし、クラクラするし、正直自分が今何言っているのかもあやふや。ここで寝てから帰る」
そう言って來華は茂みに寄り掛かる様にして横になった。
「意外と心地いいわ」
「お前、お嬢様の癖に割と図太いんだな……」
「内山春樹の件、聞きたいことが色々あるけど全部今度にするわ。あなたは帰っていいから、とにかく今は寝させて」
目を閉じて、唇もロクに動かさずに掠れる声でそう言った。呂律も正常ではなく、辛うじて聞き取れるレベルだった。その姿はまるで酒に酔っているようにも見える。
「置いて帰れるわけねぇだろ」
雪輝はスマホを出してマップを見る。しばらくすると立ち上がって來華の肩を叩いた。
「なに?」
「バンザイしろ」
「はぁ? どうして」
そう言いつつも、ほぼ酩酊状態の彼女は、目を閉じたまま雪輝の言う通りに体を起こして両手を上げる。
「よし。そのまま腕を下ろせ」
その通りに動かす。すると腕が何かに当たる感触がした。その瞬間、突如來華を浮遊感が襲う。
「きゃっ」
声が漏れると同時に目を開く。目の前には雪輝の頭があった。そして目線の高さがいつもと違う。
「おっも……」
と、耳元で雪輝のぼやきが聞こえ、來華はようやく自分の状況を把握した。
背中におぶわれてる。
それに気付いたのと同時に、彼のぼやきが引っかかった。
「蹴らせて」
そう言って足をぶらつかせる。
「おい暴れんな」
ひとしきり暴れた後は大人しくなった。本当に気分が悪いのだろう。雪輝の耳元に聞こえる彼女の呼吸は浅く、背中に感じる体温はとても高かった。
雪輝が入ったのは、少し歩いた先にあるカラオケ店。女の子をおぶっての入店に、店員は驚いていたが、問題なく部屋は取れた。フリータイムで五時までいられる。ドリンクバーも付けた。
籠を受け取り部屋に向かう。やたらと明るいロビーを抜けると、今度は薄暗い階段があり、店内に流れるアーティストの宣伝を聞き流しながらのぼった。その途中で背中の來華が口を開く。
「……私、こう見えてもいい所のお嬢様なのよ? 高級ホテルをとるぐらいの甲斐性を見せてくれなきゃ困るのだけど?」
「さっきまで路上で寝る気だった癖によく言う」
そう言うと雪輝の耳元で、微かに彼女が笑ったような気がした。
扉を開けて部屋に入る。狭い部屋だったがソファーはちゃんと二つあった。机を挟んで向かい合っている。その片方に來華を下ろす。その後雪輝はスピーカーの音を切って、中央のディスプレイを落とした。隣の部屋は空室だったようで、そこそこ静かだった。
「ドリンクなにか欲しいか?」
「炭酸。あまり甘くないやつ」
「甘くないやつなんてあるか……? ジンジャーエールにコーヒー混ぜれば何とかなるか」
「やったら今度はあなたの服に吐いてあげるわ。……ジンジャーエールで」
もう受け応えも疲れた様子でぶっきらぼうに言い放つ。乱暴にパンプスを脱ぎ捨てて、ソファーの上で丸くなった。衣服の乱れももう気にしている余裕はない。スカートが太股の上の方までまくれ上がり、雪輝は若干目のやり場に困った。部屋を出る前に学ランを脱ぎ、投げるようにして彼女にかける。
「……ありがと」
呟くような声に雪輝は「ジンジャーエールだな」とだけ答えて外に出た。
ドリンクバーで二人分の飲み物を作り、来た道を戻る。部屋の前にまで来ると、先程の彼女の姿が脳裏に浮かび、少しドキッとした。息をのんで扉を開けると、部屋の中の様子は想像とは違い、來華が起き上がっていた。渡した学ランを羽織って髪を整えている。
「大丈夫そうか?」
「……多分」
ドリンクを机に置く。來華はそれをとって少しずつ口に運んだ。
「……美味しい。さっきまで何を食べても味がしなかったから……凄く美味しい」
「まぁ、美心と話すだけでガクガク足を震わせてたからな。相当無理してたのは想像できるよ」
「うるさい」
「でも、あんなに薬飲んで無理するぐらいなら、相談して欲しかった」
「……」
來華は黙り込んだ。
「まぁオレも、会いに行けてなかったから悪いのか……」
「……」
「なんつうか。理由もなく、ただ來華に会いたいってだけで相談室に行くのが……気恥ずかしかった。つかオレがいなくなって清々しているような口ぶりだったし……なんか時間が経てばたつほど、会って何を喋ればいいのか考えるようになって、考えれば考えるほど分からなくなった……はぁ今思うとアホくさいな」
「ホントね」
「すまん。無理させちまったよな」
「今回の事、あなたに黙っていたのは、私が小牧原さんから内山春樹との事を色々教えてもらったからよ。彼との間に起こった事、あなたに話すなら彼女からの方がいいと思った。だから言えなかっただけ」
「……そっか」
ドリンクを飲み干した來華は再びソファーに横になる。その向かいで雪輝も同じように体を倒した。机の下で二人の目が合う。
「なぁ、どうしてそんな無理をしてまで美心の為に動けるんだ?」
「……似た様な事、漆野さんにも聞かれたわ」
「なんて答えた?」
「分からないって答えたわ。もちろん、初めての友達だからとかそういう事もあると思う。でもここまで出来る理由は分からなかったの」
「……過去形なのが気になるな」
そう言うと來華は軽く笑った。
「……唯一の繋がりだから、なんだと分かった。小牧原さんとだけじゃない。あなたとも……」
その言葉に雪輝の心臓が跳ねる。
「小牧原さんとの事が無ければ、教室に戻ったあなたと私は、元の他人に戻ってしまう。……それが怖かったんだと思う」
來華はそう言って、体にかけていた雪輝の学ランを頭まで被った。雪輝も照れ臭くなったのか、体をくるっと回して背もたれの方を向く。
「……来週から、放課後に顔を出すよ」
「うん……」
狭い部屋で、二人は背中を向け合って目を閉じる。お互いにまだ眠れそうにない。
遠くの部屋で誰かが歌っている声が聞こえてきた。別に大して上手いわけでもないバラードが妙にむず痒く感じた。
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