小牧原美心はいただきますが言えない 25
幅が二メートルあるか無いかの程の小さな水路。その道沿いに桜の木が並んでいる。左手にはこの街の象徴ともいえる、二股の大きな建物があり、土曜のお昼のこの時間には、散歩やランニングをしている人がチラホラと道を歩いていた。
その中には、背丈の半分ほどはある大きな白い犬を引き連れて歩く、小柄な少女の姿もあった。漆野シノだ。いや、はたから見たら、引き連れられているのは、その小柄な少女の方に見えるだろう。犬は常に彼女の前を歩き、堂々とした表情を浮かべている。それと対照的に彼女の方はと言うと、少し困った顔をしながら、そのリードを引っ張っていた。
「ちょっとアルミラージ、あんまり引っ張らないでください」
アルミラージと呼ばれたその白い大きな犬は、漆野を引きずりながらずんずんと歩き、木々の根元を嗅いで回った。やがて目的の木を見つけたかと思うと、おもむろに片足を上げて用を足し始める。大きな犬に少女が引っ張られている珍しい図に、道行く人の視線を集めていたこともあり、アルミラージが用を足している間、漆野は顔を赤くして身を縮めていた。
やがてアルミラージはすました顔で主人の元に戻り、ワンと一度誇らしげに吠える。屈んでいた漆野は呆れたように愛犬の頭を撫でて、ため息とともに呟いた。
「はぁ……アルミラージは凄いね、何をしても自信たっぷりで」
漆野は立ち上がり、リードを引いて歩き始めた。道路に突き当たるところで、アルミラージが左に曲がろうとする。しかし漆野がそれを拒むようにリードを引っ張った。
「ごめんね、今日はそっちじゃないの。公園でお友達と会うんだよ」
彼女のその言葉を理解したのか、公園という単語に反応を示したのか、アルミラージは尻尾を振って引き返し、早く行こうと言わんばかりに漆野のお尻を頭で押した。
「あぁっ、ちょっともぅ押さないで」
公園に着いた漆野はぐるりと周りを見渡す。その後スマホを取り出して時間を確認し、もう一度辺りを確認する。すると背後から「漆野クン?」と彼女を呼ぶ女性の声が聞こえた。
「やあやあ」
振り返るとそこにいたのは琴弾藍那だ。
「琴弾先輩、ですか?」
「そ、初めまして。わざわざ来てもらってごめんねー」
「いえこちらこそ、その、散歩のついでみたいになってしまってすみません」
漆野がそう言うと、合わせて挨拶をするようにアルミラージが吠える。
「わー大きいー。それにモフモフー。触っていい?」
「え、えぇどうぞ」
すると琴弾は躊躇いなくアルミラージの巨体に抱きつき、頭や顎、お腹を揉むように撫でた。
「わぁ本当にモフモフだぁ、名前はなんていうの?」
「アルミラージです」
「アルミラージ? それって角の生えたウサギだっけ? 伝説上の生き物の」
「あぁいえ、そういう訳ではなくてですね。えっと……おばあちゃんの家にいるこの子の母犬が、スティールって名前でしたので、この子の名前も本当はアルミ決めてたんですけれど、産まれたのが双子だったので、その大きい方をアルミ『ラージ』って呼ぶようにしたんです」
「あぁなるほど、大きいからラージか。にしても可愛い~」
自分の愛犬を愛でる琴弾の姿を見て、悪い人では無さそうだなと漆野は少し安堵の息をついた。
「さてと」
一通り犬を愛でた琴弾は立ち上がり、漆野の方を向く。
「改めて自己紹介するね、アタシは二年の琴弾藍那」
「い、一年の漆野シノです。よ、よろしくお願いします」
漆野がぺこりと頭を下げる。
「うん、よろしく。ホントゴメンね、夜の本番の前に、一度ちゃんとお話しておきたかったんだ」
『夜』という単語に漆野がびくりと反応を見せた。
「もしかして緊張してる?」
「は、はい……」
「こういうの初めてだっけ? そりゃそっか。うんうん、初々しくて可愛い。楽しみだね、初めての合コン」
ぺらぺらと楽しそうに喋る琴弾に少し遠慮気味に漆野が笑った。
「まぁとりあえず、座ろっか」
二人は公園内のベンチに移動して腰掛ける。漆野の足元では、アルミラージが寄り添うようにして体を折りたたんでいた。
「漆野クンの事はある程度聞いてたけど、実際会ってみると想像以上に可愛いね、びっくりしちゃった」
「えっ、あのちょっと……やめてください、その、恥ずかしいです」
漆野は顔を赤らめて俯く。すると琴弾は「そういう反応もいいね、可愛い」と言って笑った。
「その、私ホントに恥ずかしくて……」
「あははは、ごめんね。でもホントの感想だから」
漆野は黙りこくる。主の異変を感じたのか、アルミラージがむくりと起き上がり、じっと琴弾を見つめた。その視線にもう一度「あはは」という、今度は乾いた感じの笑いを浮かべた。
「で、本題なんだけど。東雲クンから聞いたよ。何か目的があって、今夜参加するんだよね。その、さ。何のために参加するのか、聞いてみてもよかったかな……?」
「そ、そうですよね。普通気になりますよね」
「だめ?」
「い、いえ。別に隠してるってわけでもないので。ただ、大した話じゃないですよ……?」
「それでも聞かせてほしいかなーって」
終始笑みを浮かべて話す琴弾。そんな彼女と目を合わせようとはせず、漆野はただ足元にいる自分の愛犬を見つめて話し始めた。
「なんとなく、思ったんです。自分を変えてみるには、こういう荒療治もいいのかなって……。今でも私、先輩と目を合わせて喋れてないじゃないですか? 人見知りというか、こういう地味な自分を変えたくて、でもずっとどうすればいいのか分からなくて、ただキラキラしているみんなを羨んでいるだけだったんです。そんな中で東雲さんからこの話を聞いたのは、ちょうど初めて素敵だなって思える人が出来て、その人に背中を押してもらって、ちょっと火がついたと言うか、変わりたいっていう気持ちから変わらなきゃという思いになったタイミングだったんです。だから……」
「思い切って飛び込んでみたと」
漆野は頷いた。
「全く縁もゆかりもなくて、会うのもこれ一回きりの人たちだと思えば、もしかしたら普段より大胆になれるかもしれないですし」
漆野が苦笑いを浮かべる。するとその視界の端に、琴弾の頭の動く影が映った。彼女の方にゆっくりと視線を向けると、空を仰ぐ姿が目に入る。「はぁ」という呆れとは違った優しいため息と共に、彼女は優しく笑っていた。
「つまり、漆野クンも男目的じゃないってことだねー。あ、じゃあお持ち帰りされそうになったら助けた方がいい?」
それを言われて漆野が顔を真っ赤にする。
「お、お、おもっ……って、えぇ!? そんな、私達まだ、こ、高校生ですよっ」
慌てる漆野を見て琴弾はニヤッと笑う。
「向こうはそういう気満々かもよ? つか多分そう」
「……うぅ。た、ただでさえ緊張しているんですから、脅かすようなこと言わないでくださいよ」
「あはははっ、ごめんごめん。ダイジョーブだよ、その時はちゃんと助けるから」
「よ、よろしくお願いします……」
「でもそっか、東雲クンもなにやら不穏な目的があるっぽいし、今回はアタシの仕事はなさそうかな」
「琴弾先輩の仕事?」
漆野は首を傾げた。
「そ、仕事。あぁそうだ。ねぇねぇ、アタシの噂とか異名とか、一年生の間で話したりしてるの聞いたりしたこと無い?」
「あっ、それならえっと……合コンの女王とか……アシストクイーンとかって……あと、彼氏が欲しければ琴弾先輩に相談すればいいとか……え、もしかして仕事って、そういう斡旋とか……」
「違う違う」
琴弾は苦笑いを浮かべて首と手を振った。
「そういう言われ方するとすっごい犯罪臭しちゃうね。ごめん、仕事って言い方が悪かったわ。アタシはただ、恋する女の子のお手伝いをしているだけ。まぁたまにカップルの情報を弘彦クンに売ってはいるけど……はいこれあげる!」
そういって名刺サイズの紙を一枚手渡した。ピンク色のその紙には『蓋身学園 恋愛相談同好会 会長 琴弾藍那』と書かれ、その下に連絡先のQRコードが載っている。裏には彼女の手書きと思われる女の子のイラストと『恋の相談お待ちしてます』というセリフが書かれており、どこか少し怪しげな雰囲気を纏っていた。
「恋愛相談同好会?」
「まだ正式じゃないんだけどね。放課後に二号館三階の、MCバトル同好会の部室の隅を間借りして活動してるから、もし何か相談があったら是非遊びに来てね! ちょっとうるさい部屋だけど、アタシ相談には真剣に乗るから!」
「は、はぁ……」
自分の周りでラップバトルが繰り広げられている部屋での恋愛相談。漆野はその様子を想像して、どういう状況だろうと眉をひそめた。
「まぁ、宣伝はそれくらいにしておいて……。今回は東雲クンも漆野クンも、別に男女の出会いを求めているわけじゃないって事ね。ごめん、呼び出しちゃったのはそれを確認したかったからなんだ。アタシ達初対面だし、電話だと言えない事もあるかなって思って」
「いえ、それに関しては気にしないでください。私も昨日の夜から緊張で落ち着かなかったので、むしろお話しできて少し安心しました」
「なら良かった。……でもホントどうしよう。周りの女の子をアシストする合コンしか経験なかったから、今回はどう進めればいいのやら」
琴弾が腕を組む。
「その……私たちは多分、東雲さんと相手側のえっと、ハルキさんでしたっけ? その二人が二人っきりになれる場面を作らないとですよね」
「あぁそうだった。なんかよく分からないんだけど、その二人を一緒にすればいいのよね。その話に弘彦クンも一枚噛んでるみたいだし、なんかややこしい事になりそうだけど、アタシ達はとりあえずそれに尽力しますか」
この人は小牧原さんの事は聞かされていないんだ。と漆野は察し、踏み込んだことを口にしなくて正解だったと安堵した。
「ま、細かい作戦はアタシが考えておくから、漆野クンは会話を楽しんでて」
「会話を楽しむ……」
「人見知りを治すって、そういう事でしょ。人との会話が楽しいって思えれば、きっと漆野クンの言うキラキラに近づけると、アタシは思うんだよ」
琴弾は立ち上がってにこっと笑う。彼女が立ち上がるのにつられて、床に伏せていたアルミラージも体を起こした。もう琴弾には懐いたようで、はあはあと荒い息を立てながら、舌を出して彼女の太股に顔を突き出す。それが可愛らしかったのか、琴弾は更に表情を緩めてしゃがみ込み、アルミラージの頭と顔を少し荒々しく撫でた。
「あぁこの子ホント可愛いぃ。また今度会いに来ていい?」
「え、えぇ是非。いいよね? アルミラージ」
そう呼びかけるとワンと弾むように吠えた。
「じゃあアタシは一度帰るね。また後で会いましょ」
「はい。その、よろしくお願いします」
「えぇ、よろしく」
琴弾が公園を後にする。信号前で一度振り返り、漆野らに向かって手を振って去っていった。
「……さ、帰ろっかアルミラージ。私も準備しなくちゃ」
夕方。集合場所の駅前に一番最初に到着したのは漆野だった。右を向いたり左を向いたり、あからさまにそわそわとしている。ロータリーを挟んだ先の、ショッピングモール前の道を琴弾が歩いてくる。二人の間には二百メートルほどの距離があったが、漆野の落ち着きのない様子は、遠くの琴弾の視界にも目立って映っていた。
「やぁ、お昼ぶり」
琴弾のその声に、背中を向けていた漆野がぱっと振り返り、緊張で強張らせていた顔を緩めた。
「あぁ琴弾先輩、こんばんは」
「東雲クンはまだ?」
「まだ私だけです」
「そっか。……なんか緊張してるね」
「あ、当たり前ですよ!!」
と、力の入った声で返事をする。
「散歩終わってから、もう緊張で何も食べれてなくて……今もちょっと気分が……」
「それは相当だね。ま、アタシがサポートするから気楽にいこっ」
「はい……」
そう数言交わしていると、ロータリーに入る高級車が目に入った。それを物珍しそうに見つめる二人。すると目の前で車は止まり、後部座席の扉が開く。そして中から、顔面蒼白の東雲來華がのそのそと現れた。
「……こんばんは」
お腹を押さえながら力ない声で來華が呟く。運転していたのは前回とは違い、お手伝いの人で、來華を下ろした後、心配そうな顔をしたままロータリーを回って戻って行った。その車をどこか名残惜しそうに來華が眺めている。疲弊ともいえるその表情に、二人は言葉が詰まった。
「だ、大丈夫? 東雲クン……?」
「顔色悪いですよ……?」
二人の声に振り返った來華は、何かを言おうとした瞬間、とっさに口元を抑える。
「うっ……吐きそう」
「ちょっと東雲クンっ!? ホントに大丈夫?」
「えっ、えっと、ふ、袋っ!」
慌てる二人を制止するように來華が手を掲げる。その後固く目を閉ざして生唾をのむ音が響いた。
「……だ、大丈夫」
「どうしたの? 体調悪いならやめておく?」
來華が首を横に振った。
「緊張……しているだけですので」
そう答えた彼女は、ポケットから錠剤の吐き気止めを取り出して口に放り込んだ。二人はその様子を心配そうに見つめるが、何か話しかけるとまた彼女の吐き気を誘発させてしまいそうで、黙って彼女の言葉を待つしか出来なかった。
「……とりあえず、電車に乗りましょう」
來華はそう呟いてふらふらとエスカレーターの方へと向かった。漆野と琴弾は一度顔を見合わせるが、仕方なく彼女の背中を追う。
土曜の夕方という事もあり、名古屋方面の電車はかなり空いていた。三人がホームに到着して間もなく電車がやってきたが、それでも向かい合って座れる分の席を確保でき、その周りにも他の乗客は少なかった。窓側にもたれ掛かる様にして來華が座っている。その隣には漆野が座り、向かいに琴弾が座った。電車が動き出すと、來華はまた何か薬を取り出して飲み込んだ。パッケージはよく見る市販の胃薬だ。
「……あ、東雲さん。その胃薬、まだありますか?」
少し恥ずかしそうに漆野が問いかける。
「あるわよ」
「その、分けてもらえたりしますかね」
「もちろん。……というか、付き合ってもらってごめんなさいね」
來華が鞄から先程の胃薬を取り出し、漆野に手渡した。その際にチラッと見えたカバンの中は、他にもさまざまな種類の薬でいっぱいだった。
「あ、ありがとうございます。……前も言いましたけど、私も放ってはおけないって思ったので」
「そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいわ……言いだしっぺがこんなザマで申し訳ないけど」
「いえ、私も同じような感じですから」
「しかし東雲クン、いつもキリっとしてる印象だったからこうなるのは意外だね」
「……」
來華は少し唇を尖らせた。
確かに学校での東雲來華は、いつも冷静で落ち着いていて、あらゆるヘイトを無視する冷たい政治家の娘という印象が強い。しかしそれは単純に誰とも喋ろうとしなかったからであり、コミュニケーションを放棄した結果なだけだった。そして本人はしっかりと自分の本性を理解している。慣れていない人と会話をすると、数言で体のどこかが震えだし、自分の視線と相手の顔に、反発する磁石のような抵抗感を感じた。どこに視線を置いていいか気になって落ち着かない。会話の間が持たない。切り上げ方が分からない。沈黙が焦らせる。來華は自分がそういう事を苦手にしている人間だと理解していた。
「人間には得手不得手があります。これから会うのは、出来れば会話したくないランキング最上位の人種ですから」
「何そのランキング」
「最下位は優しいお爺さんお婆さん。次に大人しい女子。超えられ壁があって次に大人しい男子。また超えられない壁があって普通の人間。またまた超えられない壁があって……」
「はいはい、もうなんとなく分かったから」
「……」
「ちなみにアタシと漆野クンは大丈夫なの?」
その言葉に漆野もピクリと反応を示した。
「二人は……と言いますか、最近はちゃんと会話が出来る人もいる事に気づいたんです。他の人と何の違いがあるか分からないですけど」
來華は美心との事を思い出していた。初めは他の人と同じように、少しの会話で足が震えたが、いつの間にかそれは無くなって、助けたいとすら思うようになった。続いて雪輝の顔も思い出す。彼は間違いなく、出来れば会話したくないランキング上位の人種だった。最初は無視もした。でもここ二週間、相談室で足音が聞こえるたびに、彼のものでは無いかと期待し続けた自分に気がついていた。
「とにかく得手不得手があって、体が奴らとの会話を拒絶しているんです」
はぁとため息まじりに來華が言う。薬が効いてきたのか、二人との会話で少し緊張が紛れたのか、心なしか顔色は良くなっているように見えた。
「し、東雲さんの気持ち分かります。私も実は、明るくてやんちゃそうな男の人とお話しするの、あまり得意じゃなくて……」
「でも漆野クンは今日、そういう自分を変えたくて来たんだよね」
「……はい。だからその、もし東雲さんが無理そうなら言ってください。私が頑張って話をします……!」
どこか決意の籠ったような物言いに、來華は彼女の目を見た。互いに微かに震えている。
「……ありがとう、漆野さん」
「おー。まるで小動物が決起して肉食動物に反旗を翻す図じゃない。これは面白い……今までで一番面白い合コンになるかも」
琴弾がにやっと笑った。それに対して漆野が慌てて返す。
「お、面白がらないでくださいよぉ……! 琴弾先輩に援護してもらわないと私達多分ずっと無言ですからね!」
「ダイジョーブだって、そこら辺はちゃんとサポートするから、任せなさい」
「……頼りにしてます」
「うん。とにかく最優先は東雲クンとハルキという少年に会話の場を作る事。ふふっ、合コンの女王なめんなよ。ちゃんと作戦練ってあるから、二人は流れに身を任せちゃって」
自信ありげに琴弾が言う。
「……うぅ、それでもやっぱり凄く緊張しちゃうね」
「効くか分からないけど、プレゼンとかスピーチ用の緊張をほぐす漢方薬もあるわ」
「い……頂いていいですか?」
「もちろん。私はもう一日の摂取量オーバーしてるから、気にせず持って行って」
そんな二人のやり取りを、琴弾は目を細めて眺めていた。
「はぁ……情けないねぇ、二人とも」
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