アラカルト4 ~『優しい小牧原さん』と小牧原美心~
アラカルト4 ~『優しい小牧原さん』と小牧原美心~
このクラスで私は基本的に小牧原さんと呼ばれている。誰にでも等しく接し、友達と呼べるほど深くは入り込まない、そんな距離感がみんなに私を『優しい小牧原さん』と呼ばせている。意図したものでは無かったけど、私にとってもそれは都合が良かった。
私の名前は最高預言様がつけてくれたらしい。美しい心を持った巫女で美心。嫌いではないけど、この名前には救徒としての使命が込められている。そしてあまりにもアカシアの救徒的な名前だった。だから呼ばれるとドキリとしてしまうんだ。自分はこの没心徒だらけのクラスの一員では無くて、アカシアの救徒の巫女なんだと、それをゆめゆめ忘れるなと警告を受けている気持ちになるからだ。
でも、ふとしたきっかけで思い立って、私は彼に名前で呼んでもらうことにした。呼ばれると同じように心臓が跳ねる。跳ねるけど……跳ねるけどちょっと違う。彼に美心って呼ばれると、なんだか不思議な温かい気持ちで満たされるから――
クラスメイトの盛り上がりが落ち着いたところで、私はテルキチに手を引かれて教室を出た。
半分放心状態だったと思う。自分がどこを歩いているのかも分からないまま、ただ彼の後ろを歩き続け、気がつくと私は、埃っぽい匂いの残る薄暗い教室にいた。そこでようやく我に返る。場所には見覚えがあった。いつも独りで昼食を食べていたあの情報棟だ。あの頃と比べてすっかりと綺麗になった教室。ぐるっと見渡しても埃一つ見当たらない。普段の教室よりも綺麗なぐらいだった。目の前でテルキチは机の上に腰を下ろし、難しい顔をして天井を見上げている。しばらくすると彼と目が合った。
「……その、大丈夫か?」
テルキチが心配してそう声をかけてくれる。思えば彼にはずっと心配をかけてきた気がする。あの合格発表の日から……。
「う、うん。私は大丈夫だよ。でも、あはは……どうしようね。……受けちゃった」
「受けちゃったって……。今からでもなんか断る理由を考えないと」
テルキチがそう言って顎に手を当てる。私はとっさにその手を握った。彼が少し驚いた顔をしてこちらを見ている。
「ど、どうした?」
「……いいの。大丈夫。ちょっとやるくらい大丈夫だよ」
「顔はそう言ってないけど?」
「あはは……強張っちゃてる? 私結構表情に出やすいタイプなのかな」
「誰でもそうなるだろ。……とりあえず座れよ」
私は彼と同じように隣の机に腰を置いた。
「聖母の役をやったなんて、バレたら相当ヤバいんじゃないのか?」
「かもね。審問にかけられて、もしかしたら脱会かも」
「はぁ。だったらなおさら何であんな事を……まぁ咄嗟だったから仕方ないのか」
そう言って少し呆れたような顔をしていた。それを見て私は小さく首を振った。彼は視界の端で私の髪が揺れるのを捉えたのか、ゆっくりとこちらを見る。
「多分、考える時間を貰っても、私は受けちゃってたと思うけどね」
小さく笑ってそう言った。もしかしたら少し自嘲気味な笑みに見えたかもしれない。
「知ってるよ。誰の頼みも断らず、平等に優しく接し、いつでも明るくて頼れる『優しい小牧原さん』だからな。相談室から戻ってさ、クラスメイトと接している美心を見て、その努力をひしひしと感じたよ」
「ちょっとなにそれ、皮肉に聞こえるんだけど?」
「半々だな。多分うちのクラスのやつらは例外なくみんな、美心の事が好きだと思う。掛け値なしにな。それは凄い事だと思うぞ」
「あはは……ちょっと照れる」
「でも、もしそれで勝手に自分のイメージを決めつけてさ、そうしないと嫌われるなんて思ってたりしたら、それは馬鹿らしいとも思う」
「……」
私は頭を下に向けるだけで、返事が出来なかった。テルキチは言葉を選んで話してくれている。それでも彼の言葉がずしんと私の頭を揺らしたのは、きっと自分でも分かっているからだろう。
彼が「もし」と言って話してくれたことは、多分当たっている……私は怖いんだ。
アカシアの救徒の元で、家族以外の人とも家族同然の暮らしをしていた私は、ずっと昔から知っていた。人と人は、それぞれの好きなところ、嫌いなところ、いい所、駄目なところ。それら全部が糸のように絡まって、切っても切れない強固な関係を結んでいるんだと。だからクラスメイトにとって都合のいい顔しか見せていない自分が築いた、今のこの関係の糸はとても脆弱なものだとも知っているんだ。『優しい小牧原さん』という、たった一本の糸が切れてしまったら、きっとこの人間関係は終わってしまうのだと。私はそれが怖かった……。かといって、私にはそこから先に踏み込むことは許されない。彼の言った、誰の頼みも断らず、平等に優しく接し、いつでも明るくて頼れる『優しい小牧原さん』だけが、救徒と没心徒との間に許された、唯一の関係の糸だから。
「馬鹿らしい、のかな……」
「すまん。言い方良くなかった。なんつうか……オレらのクラスでは、もう美心はただの優しい人ってだけに収まってない気がするというか……さっきも言っただろ。みんな美心の事好きだよ。だからちょっとはみんなを信頼してもいいんじゃないかっていうか」
「言いたいことは分かるよ。私も、そうするべきだって分かってはいるの。でも……」
そう言って中学の頃を思い出した。思い出すと、怖い。それの記憶はどうしても超えられない壁のようにして、ずっと私の前に立ちはだかっている。
「ハルキ君にはさ、見せたんだ。本当の自分を。あの時はタイミングとか全て最悪で、その結果彼も傷つけちゃっから。もう同じ失敗はしたくないの。どの道私にはみんなと友達になる事は出来ないんだし……。頑張って現状を維持する。それが私の今に出来る最大限の事だから」
「無理してそれ以上を望む必要はないと?」
私は小さく頷いた。彼は「そっか」とだけ呟く。その横顔はまだ何かを考えている様だった。
「テルキチはさ、言わないよね。私にアカシアの救徒を抜けたらどうだとか、やめれないのかとか」
「まぁ」
「実は結構嬉しかったんだよ、それ。中学の時は、私を心配する先生とかはすぐにそれを聞いてきたから」
「ほら、会館での美心を見たからかな。なんかさ、みんな家族みたいだったろ。大事な繋がりなんだなって、オレも思えたからかも」
「テルキチってやっぱり頭いいよね」
「は? どうした急に」
「ほら、限られた場面から、私の気持ちを正確に当ててるでしょ。なかなか出来ない事だと思うよ」
私がそう言うと、彼は少し照れたように顔をそむけた。それが少し可愛かった。
「辞めたくないんだろ?」
「……今はまだ、ね。でもその勇気がないってだけなのかも。だからたまにどうにでもなっちゃえって思うことはあるんだ。今も、そんな気分。矛盾してるなぁ、私」
「矛盾なんかじゃないと思うぞ。そんな簡単な話じゃないと思うし、学校での『優しい小牧原さん』も、アカシアの救徒での美心も、どっちも本物な小牧原美心なんだ。だからどっちも守ればいい。勿論オレもその手伝いをしたいし、アイツも同じ事を思ってる」
「それってもしかして、來華ちゃん?」
「あぁ。アイツも美心の事が好きだからな」
そう言われて自分の顔が赤くなるのが分かる。
「……その、嬉しいな。なんかこういうの初めてだから照れるけど」
そうだ。ここにはテルキチも來華ちゃんも、それの冴島先生も、私のことを知っても一緒にいてくれる人たちがいるんだ。それを思うだけでとても気持ちが楽になる。そのせいなのか、欲も出てしまう……。いつか友達と呼べたらなんて欲が。
「……これ」
テルキチが一枚の布を差し出す。私は一瞬それが何か分からずに首を傾げると、その動きに合わせて自分の手に水滴が落ちるのを感じた。
「……あれ?」
その水滴が自分の涙だと気づくのにまた数舜かかった。
どうやら私、泣いているらしい。
「なんでだろ……あはは」
「知らん。けど、分かってるよ」
「どっちなのさ」
と言った自分の声はもう隠せないほど涙声になっていた。その自分の声を聞いてまた涙が溢れ出る。今度はしっかりとそれを感じた。私は彼から布を受け取って顔を埋める。ハンカチとは違ったふかっとした感覚が顔を包んで気持ちが良くて、真っ暗になった視界がとても穏やかだった。
「その、悪かったな」
彼がそう言った。何を謝っているのと聞きたかったが、上手く声が出ない。ぎゅっと顔に押し付ける手に力だけが籠る。
「……いや、渡すもの雑巾しか無くて」
「えっ」
今度はしっかりと声が出た。
私は布から顔を離してその手に握った布に目を凝らす。徐々に戻る視界の中で、確かにそれが雑巾だと認識できた。
「えーちょっ、本当にこれ雑巾じゃん」
「新品だから安心しろ」
「でも普通泣いてる女の子に雑巾渡す!?」
驚きの中でまだ少し声に違和感はあるものの、私の涙はピタリと止まってしまった。ぐるっと首を回してテルキチの顔を見ると、彼は少し悪戯めいた笑いを浮かべていた。
「あははっ、ほぼタオルみたいなもんだって」
「そういう問題じゃないよ!」
笑っている彼の顔に向かって私は雑巾を投げる。ポスっという軽い音と共にそれは命中したが、まだ彼は私に笑みを向けていた。
「涙止まったな」
「こんな止まり方嫌なんですけど。……テルキチ絶対モテないでしょ」
「それは関係ないだろ」
「大アリだよ! こういう時は普通『泣きたいときは泣けばいい』とか、そういう優しい言葉をかけて、ハンカチを手渡すのがスマートなの! 雑巾とか信じらんない」
「悪かったって。でもマジで雑巾しか無くて」
「むしろなんで新品の雑巾持ち歩いてたのさ……」
「勿論ここの掃除のため。まったくさ、人がせっかく親切にしたのに、そんなに怒んなくてもいいじゃんか」
そう言うと彼は少し拗ねたように唇を尖らせた。まただ。この人のこういう表情の変化というか、小さな仕草はいつも可愛らしく見える。それだけで何でも許せてしまいそうで、そう考えると少しずるいとも思った。そんな事を考えながら、私は顔を背ける彼の目を追った。別に悪い事をしているわけでは無いのだけど、何となく正面から見るのは気が引けて、横目で盗みるような形になる。すると私の視線に気づいたのか、彼がぱっと顔をこちらに向けた。私は驚いて、とっさに視線を逸らそうとするももう遅く、目と目が合って動けなくなった。彼がじっと私の目を見つめている。そのまま少し前のめりになり、彼の顔がぐんと目の前にまで近づいた。一体何を考えているのかは全く分からず、ただ早鐘を打つ自分の心臓を抑えることで私は必死で、そのたった数秒間で途方もない時間が流れているようにも感じた。
「目、別に赤くはなってなさそうだな」
顔を離した彼がそう言った。
「え……?」
「そろそろ教室に戻らないとだけど、目が腫れてたら心配かけるだろ」
「あ、そ、そうだね」
目よりも心臓が痛い。多分顔も赤くなっているだろう。色白の來華ちゃん程ではないけど、私もそこそこ顔に色が出る。このまま教室に戻ったら、テルキチが言うのとはまた別の心配をクラスメイトにさせてしまうだろう。
私は立ち上がって深く息を吸い込んだ。少し落ち着く。するとテルキチも立ち上がり、一言「戻れるか?」と尋ねられた。私はもう一度深呼吸をしてから「うん」と答える。
教室に戻って、私は今一度聖母の役を引き受けるとみんなに伝えた。後ろでテルキチは心配そうな顔をしていたが、不思議と私の中に不安は無かった。それはきっと感じると思っていた罪悪感が無かったからだろう。でも考えてみればこれはごく普通の事なのかもしれない。高校生にもなればみんなそれまで駄目だと言われていた事もやり始めるんだ。門限を破ったり、買い食いをしたり、塾をサボって遊びに行ったり。中にはこっそりとお酒を飲んでみた人だっている。言われたことを守るだけじゃなく、自分で考えて行動をし始める。私とアカシアの救徒との関係も、それと同じように変化していくのだろう。
そう考えると私は気づいてしまった。私は今、アカシアの救徒よりもここでのみんなとの関係を優先したんだという事に。少しだけ驚いたけど、そうなんだと納得もした。
みんなは私を囲んで「ありがとう小牧原さん」と口々に喜んでくれている。私も「一緒に良い文化祭にしようね」と返した。とても居心地がいい。やっぱりこの、優しい小牧原さんという関係の糸は、決して切り離したくないと今一度思えた――。
「美心」
背後で私の名前を呼ぶ声がする。このクラスで私のことを美心と呼ぶのはテルキチだけだ。振り返ると彼はまだ少し浮かない顔をしていた。私のことを心配しているのとも少し違った感じだった。
「なにかな?」
「オレはこれ、変な感じがする」
「え?」
「ごめん、今は上手く言えない……けど、このままだといつか、美心が壊れてしまいそうな気がしてならないんだ」
その時、私は彼が何を言っているのかはよく分からなかった。でも彼の目はとても真剣で、それでいて少し悲しそうに見えて、そしてその奥に何か、固い決意のようなものを私は感じたのだった。
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