Chapter-3 吸液受難-II

天使が戻ってきた。

秘蹟を見守っていた両者の間に,気まずさが。

噛み跡は次々と修復段階に入る。

うっすらと歯形が浮かび,消えた。

口元を拭い,平静さを取り戻した天使は,

意地悪げに嗤いかける。


"地上界だけじゃ無いでしょ?君の能力の源泉って。仕掛けがあるね"


ノイルもまた嗤う。

此奴は好奇心が強く,そして残酷だ。

あの《液》達を唆し,

旅路に同行させてやるかと思いきや,

塔の動力であろう,

あの長方形にわざわざ溺れさせたのだ。


"俺の歴程について行けば,絡繰が明らかになるやも知れないぞ?"


"うん,いいね。そういう謎解きも大好きだよ。早く行きたいな"


未知への憧憬を高めし不老の御使いは,

観察者の物語に混ざりたがる。


天使に手を繋がれた。

先程まで,

追従を決めた者の肉を抉っていた手。


"僕の名前を言ってなかったね。僕はマル。君を癒してあげたいな"


癒しを施される以前に,

その言霊を奏でる口で痛めつけられたが。


"君の名前は?"


"さっきも言っただろ。ノイルだ。ノ・イ・ル"


"好きな響き。ノイル,ノイル,ノイル...糸屑みたいに,儚い名前だね"


やけに生温かいマルの手が,

翼の柔らかさも合わさって,

ノイルに休息する頃合いとして

余りにも妥当に,眠気を思い出させた。



(...これからは,この天使の戯言が一番の試練になりそうだな)



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



"こっちの方が近道だよ"

藝術の残骸か,薄暗い納骨所に出る。嘗ての聖人が好みそうな空間だ。


"...マルとは,本名か?"


"勿論,違うよ。君の本名を教えてくれたら..."


"その手には乗らんよ。教えたら魂へのアクセス権を与えるからな"

ちぇっ,と軽い舌打ちが響く。

散らばった人骨の1つを踏み砕いた。


"君は諸界の叡智にも詳しいんだね。それも,洗練されている"


納骨所の下層には,

写本達が積まれた書庫があった。

誰が灯したのか,キャンドルの朧な焔が

不釣り合いに揺れている。


"君の為に藝術を産んであげる?天界の子守唄を聞かせようか?"


子守唄。聞けば,人間には到底発せられぬ

美麗な音色を奏でるとか。

誰もが下種としての,翼持ちし上位者との隔絶を痛感,涙するらしい。

されどノイルにとっては,

滑稽な光景として映るのだろう。

書庫に飾られた絵画に,戦場を唄で鎮める天使の伝説が描かれていた。


"君は僕に,何をして欲しいの?直接,君の言葉から聞きたいな"

"...意外とお喋りなんだな"


扉を閉めれば,暖かき灯火も消える。

待つのは冷厳な戦役への道。

階段が遠くに見える...出口は近い。

ノイルは振り返った。


"...殺戮だ"


やや饒舌な口調で,

これからの行動目標を伝えた。

帰還困難なる魂の旅に敵を葬る事もまた,

心地良い"子守唄"なれば。


"ふうん。僕に死神の片割れとして,戦場を飛翔して欲しいんだね"


目標の意外な無機質性に

落胆の兆しを見せるも,

何かを思い直したのか,

マルは階段端の石柱に駆け寄った。


"でも久々だよ。僕の翼に御霊を狩らせるのはね"


巧緻な造りの石柱に指を這わせ,

機構で見せた笑顔を再び。


"僕は強いよ。片手だけで,この柱を粉々にしてあげようか?"


"いや,いい。実戦で存分に暴れ回れ"


"...わかったよ。真面目だね"


落ち込んだ顔をして,天使は漸く

詮索に悪戯を止めてくれた。



階段を降りるノイル。


"...ノイル。僕のこと,嫌い?"


"嫌いも何も,今日が初対面だろうに"


"そうなのかな?

ずっと昔から,旅してきたみたい"


"...君の翼は気持ち良かった。

包まれて寝ると快適そうだ"


"ふふ,その時は頭を撫でてあげるね。"


階段を使わず,石柱に飛び移るマル。


何方とも知れず,

蹴飛ばされた石英の欠片が 砕けた。



"今から何処に行くの?"


"巨塔最寄りの村落だ。待ち人がいる。"


マルは歩みを止めた。

ノイルの上着を両手で引っ張り,制止させる。

あと数歩で,柵が抜け落ちた窓から陽光を浴びれるというのに。


"...僕は人間を戮したくなるんだ..."


俯きながら,しかし明確な殺戮の意を示す。

マルにとって人間とは藝術の材料だ。

新鮮で,何にでも象れる。

聖油で固めれば,

絵画にも,トルソーにも,工藝品にすらも。

観客は不要だ。材料の原石が,

材料の結果をなぜ拝む必要があろうか?

そして,軈ては選別の果てに滅する彼らに,

何を騙るというのか。


"僕達は彼らを肉の民とも呼んでる。視覚でしか,世界を見れないから"


そう易々と,エノクの介在抜きに

霊の世界を見れてたまるか。肩を竦める。

この調子では,間違いなく

都市に幕営で揉めるだろう。

毎日の雑事に追われ,

醜くも偽りの神話に縋る民草共は...

もはや,天使からすれば,

藝術としての昇華でしか救えないのだ。


そもそも天族を引き連れ回す時点で

混乱は覚悟している。


"人間は本物の美しさから逃げ続けているんだ"


"本物の美しさ...?"


"君は,もう知っていると思うよ"


"ハニカム構造に封緘された

《領有》霊の事か?"


"...僕の中の方舟すら,お見通しなんだね"


卵殻よりも鋭き白さの肌が,

ノイルへの懸想で赫みを帯びた。


"そうだったね。僕達が美しさに向き合わせればいいんだ。愚かな肉達をね"



歴程は続く。

巨塔に,孕んだ機密に,別れを告げて下界へ。

巨塔の窓より出づる客人は,

断崖絶壁の淵に巣を見つけた。


雛鳥がいた。

雛鳥が,遥か高層に巣を設けた親鳥を待ち,

泣き喚いている。

マルは近寄り,

人型の《液》にも見せた

慈母の笑顔で観察し,


そして





巣を蹴落とした。




虚空に落下する雛の眼が, マルに助けを乞う。

親鳥は地の果て迄もマルを追い詰め,

殺そうとするだろうか。

もはや堕ちる雛の姿も見えなくなると,

靴に付いた木片を叩き落とし,

軽やかに友へと舞い戻った。

翼を張り,友を抱擁しながら飛翔準備に入る。


"行こう,ノイル。

ばら撒かれた種,全てを引き裂く戦役にね"


"暴いた血を好きなだけ啜り,臓腑で細工を編むがいいさ"



何かが砕け散った音がした。

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