第10章 陽炎の乙女

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 夏休みを目前にした週末。まだ帰省には早いが、涼を求めて一足早く高原の避暑地を訪れる旅行客の姿もちらほら見える、新幹線ホーム。


 とはいえ、コンクリートが敷き詰められた駅構内は、正午に近い今、照り返す日光で足元から茹で上がるような暑さだった。


「加奈は待合室で待っていなよ」


「大丈夫よ。時間通りに着くでしょう? そんなに待たないし」


 冷房の効いた待合室で暑さをしのいでいた英人は、野暮用に付き合ってくれた加奈の身を案じて待つように促した。その気遣いに謝意を示しながらも同行しようと立ち上がるが。


「ここにいましょうよ。指定席の出口は目の前ですから、ここで見ていても大丈夫ですよ」


 英人に賛同して、珠美も加奈を引き留めた。


「わざわざ暑いところに出ていかなくても、ここで単語帳の一枚でもめくっていましょうよ。加奈先輩、試験前なんですから」


 本来、こんな場所へ連れ出していい状況ではなかったのだから、と。


 もともと英人に指導を仰ぎ試験対策をする予定だったのに、横槍を入れてきた引け目もあるのだろう。体調を気遣う珠美に、加奈も苦笑して指示に従う。


「実力試験だから、そこまで切羽詰まっているわけじゃないのよ。昨日も勉強しているし。推薦を狙っているわけじゃないし」


「いつもそう言って、頼まれると断れない加奈先輩の性格は分かっていますから。勉強はともかく、体調管理くらいはお手伝いさせていただきます」


 斎が強引に英人を指名しなければよかったが、『英人でなければダメなんだ』という斎の指示だ。


 そう言われてしまえば、英人が逆らえないのも加奈は承知している。

 自分の試験対策は、用事が済んでからまた集中して行えばよい。

 幸い、明日の科目は比較的加奈が得意な文系科目が集中している。半分理系の真実と違って、数学理科も基礎的な科目しか選択していないので、気楽なものだ。


 そういえば、その真実は、今日は遠野家で俊に理系科目、特に苦手な数学を教えてもらうと言っていた。代わりに健太が俊に英語を教えると言う。


 美矢がおもてなしすると張り切っていた。受験生の俊のためにできることを何か少しでもしたいという美矢の健気さが愛おしい。


 文化祭のあと、英人が俊を自宅に送り届けるという名目で時間をつくり、昨年起きた一連の事件に対し、謝罪をした。加奈は同行しなかったが、その後の英人の様子から、関係性は良くなった様子だ。もともと俊は、そこまでこだわっていなかったように加奈は感じていたが、英人の方が過剰に反応していた気がする。


 俊や英人の身に何が起きているのか、加奈も全ての事情を把握しているわけではない。

 いずれ、詳しく話すから、と英人は約束してくれた。

 それは、5月に加奈の身に起きた事件とも、もっと言うと昨冬の事件とも絡んでいるらしい。


 本来当事者のはずの加奈にすべてが明かされていないのは、もどかしい気持ちもあるが。


「……珠ちゃんは、みんな知っているのよね?」


「はい。と言いたいところですけれど。正直分からないことだらけです」


「そうなの?」


「本当の意味で、一番分かっているのは、斎先輩だと思いますけど。頭の中、見られたらいいんですけどね。私も巽も、理由が分からないで動いていますから」


「……それで、いいの?」


「はい。斎先輩がそうしろって言うなら、私たちは従うだけです。何も分からなくても、斎先輩が……斎兄さまがそうすべきだって確信しているなら、大丈夫なんです」


 あえて、『斎兄さま』と言い直した珠美の言葉に、わずかでも真実を伝えようとしてくれた珠美の誠意を感じた。


 表向きの『先輩』でなく、『兄さま』という珠美の声音にこもる心情は、二人の関係性を物語っている。それは、巽を通して将来義兄妹になる、というような形式ばったものではなく。


 もっと近しい、全幅の信頼を置く存在であることを、示すようで。


 ……そこに、かすかな恋情の響きを感じたのは、気のせいかもしれない。



 新幹線の入線を伝えるアナウンスが響き、わずかな時間差で、ゆっくりと車体がホームに滑り込む。

 のろのろとした動きを止めた車体は、ぴったりとホームに設置された開閉扉にその位置を合わせて、ドアが開く。


 全体的に大荷物の旅行者らしき乗客が多い感じがする。短い停車時間に、次々と降りる人波を見つめ。


「あ、あれかしら?」


 ひときわ目を引く頭髪の輝きを見つける。


 斎に頼まれた用事。


 イギリスからの旅行者の出迎え。


 容姿までは教えてもらえなかったが、迎えに行けば分かる、という言葉に、典型的な欧州人を思い浮かべていたが。やはり、想定したとおりの金髪碧眼か、それに近い容姿なのかもしれない。


「え?」

 その腰まで届く長さの、輝く金の髪をなびかせて、飛び降りてきた、少女。


 ガラス張りの待合室の中からでも分かる、美しい少女は、いきなり英人に近づき。そして、飛びつくようにして、抱きついた。


 反射的に立ち上がり、夢中で英人のもとに駆け寄った加奈の目の前で。


「…ィロムミー!」


 身をよじらせて少女を払いのける英人が叫び、救いを求めるように加奈の方に体を向ける。


 Stay away from me!


『自分から離れろ』と聞き取れた。


「……ニー? フ―?」


 少女の口から洩れる、言葉。


 戸惑うその響きの中に、聞き取った、名前。


「あなた、……アキラ=ケネスの?」



 少女が英人に対して呼びかけた、『ケニー』という名前。


 それが、『ケネス』に対する呼びかけであることを、加奈は知っていた。


 ぞっとするような恐怖が、加奈の脳裏を埋め尽くす。


「加奈! 大丈夫! ここにヤツはいない!」


 慌てたように、加奈を抱きしめる英人。その腕にしがみつくようにして、何とか加奈は呼吸を整える。


「だい……じょうぶ」


 荒い息遣いで、なんとか言葉を吐き出す。


「アナタハダレデスカ?」


 片言ながら、日本語で問いかける少女の不安げな瞳に、逆に冷静さを取り戻し。加奈は英人を見上げて、対応を促す。


 流暢な英語で、自己紹介し、出迎えを頼まれたこと旨を英人は伝えた。


 珠美が少女にスマホを手渡す。二言三言、英語で話しかけ、少女はうなづいて、自分もスマホを取り出して見比べながら何かを入力した。


「自分のスマホは、在日用に対応させていなくて、使えなかったみたいですね」


 待っている間に、珠美は状況を加奈に説明してくれた。何とか聞き取っている自分と違って、英人だけでなく、珠美まで流暢に英語が話せることに加奈は軽いショックを受けていたが。


「彼女は、アキラ=ケネスの、婚約者、らしいです」


 電話が通じたのか、笑顔で通話している少女を、加奈は食い入るように見つめた。


 アキラ=ケネスの?

 ならば、彼女が、アキラの言っていた、『大切な人』?

 

『あの男は、僕の愛する人を奪った。その純潔も、尊厳も、……心も』

 

アキラは、そう言っていた、その人?


けれど、彼女からは、そんな気配は感じられない。


 おそらくアキラと間違えて抱きついたものの、自己紹介を受けて、別人だと気づき。


 不思議そうな顔はしていたし、興味は引いたようだが、そこには特別な好悪の情は感じられなかった。


 アキラが言っていた人とは、別の人なの?


 混乱をきたした加奈の耳に、さらに衝撃の言葉が届いた。


「ケニーズヒャ」


Kenny is here. 


そう、聞き取れた。


『ケニーが、ここに、来ます』


 嬉しそうに、微笑みながら。


 足元から吹き上げている熱いはずの風が、冷たく感じる。

 暑さからではない汗が、背中を伝う。




 ニコニコと笑う少女は、きっと何も知らないのだろう。


 アキラ=ケネスが――ケニーが、加奈にしたことを。

 心の奥底で、悪魔が加奈にささやく。


 すべてを、暴露してやればいい。


 アキラを慕う、この美しい少女に、あの男の非道な振る舞いを、すべて。


 ほの昏い喜びに支配される、が。


 停車せずに通過する新幹線が、甲高い風切り音を立てて通り過ぎていく。


 その音に我に返った加奈は、少女の深い青の瞳を見つめて。


 たどたどしいながら、英語で自己紹介し、名前を尋ねた。


 少女は、笑顔で名乗る。






 シンシア・ブライトン。






 それが、陽の光を浴びて輝く、金の髪と青い瞳の、美しい乙女の名前だった。

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