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 梅雨が明け、日に日に気温が上昇していたが、三方に景色が見渡せるテラスには、心地よい風が吹いていた。


 山、と言っても普通に住宅もある散歩コースレベルの山中の中腹にある、小さなレストランである。

 周囲が開けており、三方の景色を見渡せる立地から店名を三景が見えるという意味で「サンケ」としたという。ちょっとイマイチなネーミングセンスだと斎は思ったが。


 ネーミングセンスはともかく、料理やスイーツは評判で、地元でも人気のレストランである。

 立地の関係で車がないと来られないため、美術部の話題で出たことはないが。


 こっそり、森本さんを連れてきていそうだよな、健太のことだから。


 確か、遠野弓子と組んで仕事をしていた時にも、取材をしていたと記憶している。風景写真家を目指しているというだけあって、なかなかよいコントラストの写真が掲載されていた。そう、丁度この辺りから見える風景だった。

 基本的に人間が好きな健太は、人物写真も、優しい雰囲気で写す。あの穏やかな眼差しで見られたら、多くの人は心が安らぐだろう。その多くに、自分が入っているのは癪だが。


 森本真実とのことがなかったら、もう少し健太に歩み寄れただろうか?

 自問して、即座に否定する。


 間に真実を挟んでいるからこそ、より健太への執着も強まる。


 真実に手を出したあとの健太の警戒具合は、ことさらに斎をワクワクさせる。


 ああ、もっといたぶって遊びたい!

 

 そんな自分の歪んだ感情――性癖に近い、他者への関心の寄せ方に、斎自身苦笑せざるを得ない。


 もっと僕に関心を寄せる人間に執着できれば、色々スムーズなんだろうけどな。

 

 珠美のことにしたって、身内意識で大切には思っているものの、自分に思いを寄せていることが分かった時点で、それ以上の感情は感じなくなった。もし、珠美が自分でなく巽を一番に思っていたら、たとえ巽と争ってでも珠美を得ようとしたかもしれないが。


 簡単に得られると分かった時点で、関心を失う。このどうしようもない自分の心の有り様は、生来の性格なのか、環境ゆえか、それとも。


 まあ、もともと唐沢の血筋には、よく生まれるタイプの人間らしいし。


 便利だから、富も権力も享受しているが、なければ自分で得ればいい。

 そんな思考の人間が、連綿と続く唐沢宗家の人柱とされてきた。そこに、唐沢宗家にあるだけでいいから、という甘い環境ではあるが。


 束縛されることを忌避する人間にとっては、おそらくぬるま湯の牢獄だっただろうな。


 自分も、何もなければ飽いていただろう。たとえ巽という楔があっても、総領の座など放棄してしまったかもしれない。

 自分の代に和矢を始め、俊や英人、健太が現れてくれたのは、僥倖である。


「僥倖、か」


 それが口癖の少年を思い出して、また斎は苦笑した。

 自分を信奉してやまない木次政宗。


 例外的に、自分に強い関心を寄せるあの少年を、斎は気に入っていた。


 彼も、なかなか面白いよな。


 自分への惜しみない憧憬と、実の兄への憎悪。

 そして、自分への憧憬が、実兄――須賀野時宗への代償でも何でもなく、純粋に一人の人間への興味であるのも面白い。

 時宗への代償は、自分自身。かつて尊敬していた兄に自分自身で成り代わろうとしている。その憎悪や防衛機制の根底には、母親への報われぬ愛があることも自覚している。


 ひどくアンバランスなようでいて、絶妙なバランスを保っている。


 楽しい人材ばかり揃っていて。

 本当にかつてないほど、面白い人生だ。


「お待たせ」

 待ち人、きたる。


「楽しそうね。かなりお待たせしてしまったようだけど」

「待つのは好きですよ。色々思索できるし。それに約束の時間には十分に間に合っている」


 約束は、ここに十一時。今は十時五十分である。


「やっぱり日本人ね。待ち時間よりもずっと早く来ようとするなんて。私も含めてね」

「イギリス人は比較的時間に正確だって聞いていますけど」

「そうね、でも、早すぎることもないわよ」

「まあ、おかげで道に迷っても間に合うんだから、日本人の時間感覚に感謝でしょう?」

「よく分かったわね、迷ったって」


 驚いたように寿々木恵麻は軽く目を見開く。


 生成りのノースリーブの綿ブラウスに深い青色のキャミソールを透けて見せている。

 明るめの群青のスリムパンツの、その七分丈の裾からのぞく足先は裸足に白いノーヒールの編み上げサンダル。

 洗練された、品の良い夏らしい装いの年上の美人に斎は儀礼的に微笑む。

 

「左腕だけやたら撫でていて、右腕に比べると血色も悪い。日の当たらない左腕だけエアコンで冷やし過ぎたんじゃないですか? 麓の駅前からここまで、自動車なら15分程度。よっぽどエアコンを強くしなければ、そこまで冷えないでしょう。30分以上当たっていたんじゃないですか? ここは、地元の人間でも迷うことが多いって聞いていますし。ナビでなく、看板を見ながらくれば逆に迷わないんですけど。……レンタカー、借りたんですか? それ、駅前のレンタカーサービスのでしょう?」


 エマのバッグからのぞく車のキーに付いたタグを、斎は目ざとく見つける。

「タクシーを使えばよかったのに」

「ついでにドライブでもって思ったのよ。……山道をなめていたわ」

「全くのペーパーってわけでもないんでしょうが……地元でない方には、ちょっと酷かもしれませんね」

「まあね。一応、あっち――イギリスでもたまには乗っていたし。っていうか、よその人間って、よく分かったわね?」

「言葉とか、微妙なニュアンスですよ。語尾の発音が、この辺りとは違いますし」


 それ以前に、シンプルなファッションながら、端々からこなれた都会的なセンスが窺えることも理由の一つではあるが。

 無駄に服装を誉めて喜ばせる必要もない。


 そういう斎は、さらにシンプルと言ってよい無地の白のTシャツに青デニムのジーンズ。

 洒落っ気ひとつないが、意外と引き締まった体躯がくっきり見えて、野性的な色香すら感じる。


「さすがね。観察眼といい、論理的思考といい、ますます好みだわ」

「まあ、僕も場所もよく知らないのに、ちょっと行ってみたいって訪問したこともない店で待ち合わせするような無謀な女性は、嫌いじゃないです」

「あら、意外と用意周到なのよ? いつもは。……ああ、なにか注文しない? 喉が渇いちゃった」


 恵麻の言葉に合わせたかのように、店員が恵麻の分のお冷とおしぼり、それからメニューを持ってくる。

 

 日曜日の昼近くにしては、店内は閑散としている。他に二組、客がいるだけで、店員も余裕があるのか、少し離れた場所で斎達のテーブルを見守っている。


「せっかくだし、おススメにする? ここ、結構ランチが有名なんでしょう?」

「せっかくですが、お断りします。初めての人間とは、食事はしないことにしているんで。お茶だけいただきますよ」

「この時間に待ち合わせってことは、ランチを想定していると思っていたけど。警戒しているのかしら?」

「いえ、好き嫌いが激しいんで。僕のことは気にせず、どうぞ頼んでください。知り合いによると、焼きオムライスと手作りハンバーグがおススメらしいですよ」

「ひとりだけ食べるのは、性に合わないわ。私もお茶と……デザートくらいは頼もうかしら?」

「どうぞ。あ、スイーツなら、手作りのブルーベリーチーズケーキがおススメだそうですよ。ブルーベリーは自家栽培、チーズも牛乳も地元産だって話です」


 斎のアドバイスに従って、恵麻はブルーベリーチーズケーキと紅茶をポットでオーダーする。銘柄も斎に合わせようとしたが、お好きなものを、という返答を受けてアールグレイを注文する。


「おススメ情報まで用意してくれているのに、一緒に食べてはくれないのね」

「食事を共にするってことは、信頼関係の構築には役立ちますけどね。僕の知り合いは、初めて出会って、食事を共にして、そのまま恋に落ちましたけど」

「ロマンティックね。でも、私は好みじゃないな。そんなことで、相手を見極めるなんて」

「価値観の問題でしょう。食っていうのは、生命維持の方法でもありますが、単純に生活でもある。僕は栄養価に価値を置いていますが、嗜好に価値を置く人間にとっては、その乖離は生活スタイルのズレになるでしょうし」

「価値観、っていうのは大事かもね。でもそうすると、私とあなたは、関係を結ぶのは難しいのかしら?」

「価値観を合わせていくことが苦にならないほど、相手を思うのなら、それはそれでありでしょう? そこまで愛せるなら。ただ、自分でなく、相手を変えようとする人間が多いから、価値観のズレ、なんてモノが離婚理由になる。全く何でもピッタリ、なんて本来はありえない。人間は個別性、多様性の存在なんだから。さっきの、僕の知り合いの、彼らだって、出会いはきっかけに過ぎない。悔しいほど、相手を思いあっていますよ」

「……もしかして、その知り合いの片割れは、斎くんの――失礼、唐沢くんの思い人?」

「斎でいいですよ。そうですね、割と本気で好きみたいですよ」

「他人事みたいね」

「ええ、それこそ、僕は恋愛に価値を置いてないので。ただ、このもどかしい感じを楽しんでいます」


 にっこり微笑む斎を見て、恵麻は少し悲し気に、目を伏せる。


「いやだわ。自分を見ているみたい。私って、自己愛の強い人間だったのかしら?」

「安心するんでしょう? 思考過程が似ていると。でも、全く一緒ではないから、面白いんですよ」


 慰めるような言葉を、どこか他人事のような乾いた口調で斎が口にする。


 と、店員がオーダー品を運んできて、テーブルに並べる。


「アイスの方がよかったかしら?」

「そこまで暑くないですし。ああ、ストレートでいいですよ」

「いい茶葉ね。蒸らし方もちょうどいい」

 

 ティーカップに注いだ濃い琥珀色の液体から立ち上る香りがあたりに広がる。

 華やいだ香りに、かすかに柑橘系の匂いが被さる。


「初めての店でアールグレイを頼むのも、あなたらしい無謀さですね」

「あら、メニューの載せ方に自信が感じられたもの。せっかくミルク用に準備してもらったんだから、ミルクも使ったら?」


 フレーバーティーであるアールグレイは、淹れ方によっては香りがきつく、味わいを損なうことが多い。アイスかホットか、ストレートかミルクか生の柑橘類を添えるか、などによって蒸らし時間も変える必要がある。


「この方が、味が分かって好きなんですよ。……確かに、ちょっと他の茶葉とは違うな。花の芳香もする」


 斎はティーカップを軽く回して香りを楽しんだあと、一口、口に含む。

 恵麻はミルクを入れて、同じように紅茶を口にした。


「いい舌と鼻をしているのね。紅茶は好きなの?」

「とりあえず、何でも口にしてきましたから。好き嫌いというより、知識として」

「そうなんだ。家柄がいいのかしら? 知識のために味の違いを覚えるなんて」

「そうですね。そうしないと、命も危ぶまれるような家でしたから」

「まるでドラマみたいね。まさか、どこかの御曹司とか。命を狙われるなんて」

「ええ。でも、ちょっと違います」


 こくり、と斎はもう一口、紅茶を口に含む。


「今日は、一応デートのつもりだったんですよね?」

「まあ、そうね。斎君が、そう思ってくれるなら、嬉しいけど」

「残念ながら、そんな気分には、僕はなれないな」

「はっきり言うのね」


 目に見えて、恵麻は落ち込む。いつか斎の遺伝子が欲しい、と言っていた割に、求めていたのは斎との恋人関係だった、かのように。


「さすがにごめんですよ。初めてのデートで、お茶に毒物を仕込むような人間は、ね」

「……何のこと?」


「僕はね、命を狙われるのには、慣れていないんですよ。むしろ」


 トン、とティーカップをソーサーに置く。磁器特有の澄んだ音が響く。


「命を、狙う立場だったんで。なので、このくらい、僕には効きませんよ」


 ティーカップの中身は、すでに半分ほど減っている。それを見て、恵麻は目を見開く。先程、道に迷ったことを言い当てられた時以上に。


「まあ、幻覚剤なんで、致死性は低めですけどね。……あなたも、だいぶ毒されているようだね、恵麻さん。それに」


 押し黙る恵麻から視線を外し。


「そろそろ、出てきたらどうだい? 晃=ケネス・香月?」


 厨房から、ゆらりと現れる、人影。


 英人に酷似した、美貌の、漆黒の瞳の青年の顔に浮かぶのは、口の端を歪ませた、薄笑い。


「ようやく、会えたね? その悪魔のような美しい顔を、近くで見たかったんだよ」


「ああ、僕もだよ。ジパングで暗躍し続けた伝説の毒使いの末裔。この程度の献毒は失礼だったかな?」




 答えるかわりに、斎はもう一口、毒入りの紅茶を、口にした。

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