第5章 手毬花の迷路

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 六月に入り、すぐに梅雨入りした。例年より早い梅雨入りに、テレビの気象情報では、異常気象だと声高に叫んでいたが。

 陰鬱な空模様は、まるで今の美術部の面々を表しているようで、俊はひそかにため息をつく。


 もともと決してにぎやかな雰囲気であったわけではない。どちらかと言えば、黙々と作業することが主で、たまにおしゃべりする時も、皆でワイワイガヤガヤ、という風ではなく、話している誰かを皆で微笑ましく見守る、という程度だった。だから、外から見たら、大した変化はない、と感じるかもしれないが。


「というわけで、今年の文化祭も、美術部は二階の教室を二つ使用できます。交代で当番を決めるので、クラスや生徒会の役割がある人は、早めに教えてください」


 今日は、来月初めに行われる文化祭について文化祭実行委員会で取り決めた内容や、当日の予定について部長から伝達されている。


 部長――加奈から。


「一年生は何か分からないことがあったら、私でも他の上級生にでもいいから、遠慮せず訊いてね」

 加奈が笑顔で言うと、一年生の優茉や絵梨は「はい!」と元気よく返事をし、政宗も無言ながら、しっかりうなづく。

 いつも通りの、風景。朗らかに明るく、はきはきとした、加奈。


 、の。


 それが、逆に痛々しい。


 美術部に翳りが差したのは、ここ半月……厳密には、五月の土曜日授業のあと。


 あの忌まわしい出来事から、だった。


 英人によく似たアキラに加奈が拉致され、あわやその身を汚される、という、すんでのところで加奈は英人の手に取り戻された。衣類は裂けていたが、その身には、大きな傷はなく、俊は安堵したが。


 けれど、加奈の心は、そうではなかった。


 事情を知る部員は、顔には出さないように注意しながら、加奈を見守ることしかできない。真実から「今は静かに自分と向き合っている時だから、そうっとしておいて」と厳命されている。


 実務対処能力に優れた加奈は、美術部の役割の他、生徒会でも保健委員会の副委員長をしている。他の生徒会役員に比べればそこまで多くの責務はないからと押し付けられた形だが、なんにでも一生懸命な加奈が手を抜くわけはない。


「任せればできちゃうから、みんな加奈にやらせたがるし、加奈も嫌がらず引き受けちゃうから。ホント、損な性分よね」と真実も言っていたし、俊もそう思う。今までは、そんな加奈をただ感心して見ていただけだったが。


 あんなことがあっても、加奈は変わらず、明るく振舞っている。むしろ、いつもより忙しく動き回り、声をかけ、笑顔で。




「いっそ、何が起きたか忘れてしまっているなら、いいんですけどね」

「忘れては、いないんだよね?」

 帰宅時。雨の中、俊は回り道をして、美矢を自宅まで送る。電車通学の俊が駅と逆方向の美矢と一緒に帰宅するには、この方法しかない。

 たまに和矢が一緒に帰ることもあるが、今日は斎と約束があるからと別行動だ。まあ、和矢が俊に気をつかっての言い訳という感じもするが。


 俊の問いかけに、美矢はうなづき「時々、真実先輩には話しているみたいです」と答える。


「私、今でも思い出すんです。あの人……スガヤが、加奈先輩の手を押さえつけて……あの目が、怖い。それに……」


 ブルっと美矢が身を震わせる。その肩に手を差し伸べたくて、けれど俊は躊躇する。

 それぞれが傘を差しているので、二人はいつもより離れて歩いている。その距離が、今はありがたい。先日、同じような会話をした時に、思わず美矢の肩に触れたら、悲鳴を上げられてしまった。美矢は気が付いて、すぐに謝ってくれたが。


 加奈の身に起きたことを、美矢は自分の体験としてとらえている。想像して、という意味ではない。リアルタイムに、美矢は加奈の体験を、自分の身で感じ取った。


 どうやら加奈と美矢には、シンクロしやすい何かがある、とあの出来事の後聞かされた。美矢だけでなく、それは俊との間にも起きていたらしい。


 1年前の俊の暴行事件の時、加奈は俊の危機を感じ取って、意識を失っていたという。その時、加奈から聞こえた言葉で、美矢はそれを知った。他の誰にも話していないし、加奈自身も覚えていない様子だという。


 今回は、その時以上に、明確に加奈と美矢は同調シンクロした。加奈の目と体を通して、美矢は何が起きたのか、知ることができた。その、心の痛みさえも。


 何でもないように振舞っているが、それが表向きのことであることを、美矢は知っている。そして、今や加奈の一番の親友となった真実は、加奈の微妙な変化を感じ取り、今はひたすら加奈をガードしている。


 クラスは違うが、同じ文系選択で授業がかぶるため、実際はクラスメートの俊よりも一緒にいる時間が長い。その上、昼休みはもちろん、保健委員の当番や文化祭実行員会にもむりやりついて行って(本来は副部長の斎の役割なのだが)、加奈を決して一人にはしない。


 帰宅時もわざわざ加奈の家まで送り届けている。真実と加奈は降りる駅は違うが方向は一緒なので、それほど負担ではないと本人は言うが。むしろ周りが(主に健太と斎が)心配して、加奈を送り届けた真実を迎えにいく、という状況になっている。


 例外として、どうしても真実が一緒にいられないクラス活動では、俊が周りににらみを利かせるように言われている。ここまで真実が気を張って加奈をガードする理由が、俊にも痛いほど分かるので、クラス内では俊も目を配らせている。


「……あの人が、アキラが、英人さんでないのは分かるんです。別人だって。でも……怖いんです。スガヤとは別の……あの、冷たい目が。まるで、モノのように、ただ、傷つけることだけの目的で、私を……加奈先輩を見下ろしていた、あの顔が。英人さんじゃないのに……」


 その恐怖は、英人だけでなく、男性全般に感じている。

 あれほど親しく言葉を交わしていた美術部の男子とも、真実は近しく接触させない。加奈は普通に振舞っているが、極度の緊張に襲われているという。


 そしてそれは、美矢も同様なのだ。俊とも、こうして一緒に歩いてくれているが、時折怯える様子がある。その心の傷を痛ましいと思う一方で、かすかな苛立ちも感じる。相反する心の波立ちを何とか抑え込もうすればするほど、俊は自己嫌悪に悩まされる。


「英人も……ツラいだろうな」

 英人は今、加奈と直接会うのを控えている。一番加奈についていたいだろうに。


 英人の顔を見ると、加奈はさすがに落ち着きがなくなるらしい。電話やメールは大丈夫だし、顔を見て悲鳴を上げるまではいかないが、明らかに顔色が変わる。


 加奈を送り届けた真実を迎え行く健太に、必ずと言っていいほど、英人は同行している。会いはしないが、せめて遠くからでも見守ろうとする英人の思いも、また俊の心を痛める。


「……そうかもしれませんが。でも、元は言えば、英人さんが……『シバ』が、原因なんだもの」

「それは、そうだけど。でも、アキラが言ったような事実は、英人にはないんだよ?」

「先輩が、それを信じるのは構いません。私も、さすがにそれはないと思います。加奈先輩をあんなに大事にしてる英人さんが、他の女性に、何かしたなんて、でも」


「スガヤを、あんな風にしたのは、俺なんだよ」

「先輩?」


「はっきりとは覚えていない。でも、思い出せることがある。一年前のあの夜、最後に見たのは、スガヤの、引きつった顔。恐怖に満ちた……あの破壊された壁の内側で、同じ顔をしたスガヤがいた。スガヤの心を壊した原因が『シバ』なら、直接手を下したのは、俺だ」


「違います! 先輩は、ただ、傷つけられていただけで!」

「何が起きたのか、俺にも分からないけど。でも、俺が、何かを……」


 突然、美矢が傘を放り出して、俊の胸に縋りつく。

 いきなりの行動に、俊は硬直する、が。


「……先輩は、悪くないです。だから、私も、こうして触っても、平気です」


 言葉とは裏腹に、美矢は震えている。うつむいていて、くぐもっているが、必死なその声も震えているのが分かる。


「だから、そんなこと、言わないでください……」


 俊の胸にしがみついて震えるその肩を抱きしめたい。

 美矢の肩に手を伸ばし、けれど俊は動きを止める。


「遠野さん……肩に、触っていい?」

 しばらくの沈黙のあと、美矢は小さくうなづいた。


 恐る恐る、俊は美矢の肩に左手をまわし、腕全体で美矢の身体を包み込む。

 一瞬びくりと震えたが、そのまま美矢は俊に抱きしめられていた。


「……ほら、平気ですよ」

 くぐもった声が、少し湿っているような気がした。


「うん、ありがとう」

 怯えながらも、こうして俊に寄りってくれる美矢の思いが、胸を打つ。

 

 目の前の空のように、いまだ晴れない加奈の心にも、いつか日差しが戻る日がくるといい。


 ……アイツの、心にも。


 英人ではない、もう一人の気がかり。



『何で、兄さん』

『お前が』


 憎しみに満ちた、政宗の声。



 美矢の身体を抱きしめながら、俊はあの夜のことを思い出していた。

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