3

 一週間後。

結局、その後、美術部の体験入部で残ってくれた三人以外に、入部希望者はやってこなかった。


 まあ、三人でも御の字よね? 二年生の三人と合わせて、三年生引退後も五人以上で部維持の基準はクリアだし。

 例年以上に、個性的な面々だけどね。


「何? なんか面白いことでもあった?」

 カフェラテの紙カップを両手に持った英人が声をかけた。コーヒースタンドの一角である。

「あ、うん。今年の新入部員のこと思い出して。三人も入ってくれたの。……ありがと」

 カフェラテを受け取りながら、加奈は答える。混雑していたので、分担して席取りをしながら待っている間、ふと思い出して笑ってしまっていたらしい。


「へえ。この間は、入部者ゼロだったらどうしよう、って気もそぞろだったし。よかったね。いい感じの子が入ってくれた?」

「まあ、まだ何とも。でも、悪い子たちではなさそう。あと、結構メンタルも強いかも。……あの斎君の毒舌トークの洗礼を浴びて残っててくれたんだし」


「……それは、強いね。アイツの口の悪さには、シンヤもへこまされているし。Eightなんて、斎の前では、絶対出てこないもんな」

「それ、大丈夫なの?」

「うん。そういう時は、巽がなだめてくれている。健太が最近忙しいから、ありがたいよ。斎の弟とは思えないほどフォローがうまくて」

「ある意味、斎君の弟だから、な気がするわ……」


 二年生になって一気に成長し、身長も高くなった巽の姿を思い浮かべる。声もすっかり低くなり、武道の鍛錬の成果か、目に見えてがっしりした体つきになった巽には、もう『可愛らしい』という形容詞は使えないが、相変わらず表情を見るだけで考えていることが分かってしまうような、素直な愛されキャラで。……それが、真実かどうかはひとまず置いといて。

 英人は、幼少期の体験をきっかけに、解離性同一症、いわゆる多重人格の症状を引き起こしてしまった。退行した子供人格の「Eight」、理性的な父親人格の「シンヤ」、それに今はほとんど表に出てこないが、攻撃性の強い人格の「シバ」、それに本来の「英人」自身の四つの人格を抱えている。


 加奈がその事実を知った初冬には、会話中に突然人格交代が起きて戸惑うこともあった。けれど、一人ひとりの人格と向き合っていくうちに、加奈は主人格の英人を中心に、全人格がそこにあるように話しかけることに慣れてきた。それで安心したのか、さらに唐沢家での治療の効果もあるのか、今は副人格達の主張は少なくなった。


 英人自身も、加奈に向き合う時は、表向きは主人格の「英人」として対応している。もっとも最近は、「あ、今日は『Eight』が強いかな、甘えたいのかな?」とか、「今ちょっと『シバ』が出ていたよね? 何か落ち込むことあったかな?」とか、その時の雰囲気で微妙な人格交代を感じることもある。英人に言わせると、落ち着いている時は脳内会議で決着するが、不安定な時は表に出て主張したがるので、問題のない範囲で少し開放する時もあるという。その匙加減は主に「シンヤ」が担っているらしい。


 そんな風に、唐沢家に居候しながらメンタルケアに励む英人だが、ナイーブな英人に対しても、斎の毒舌は変わらないらしい。まあ、先ほど話題に出た健太や、恋人の加奈はつい英人に甘くなってしまうので、精神面を鍛えるリハビリが必要なのかもしれないが……色んな意味でムラがある斎にその役目を負ってもらうのも……結構不安がある。

 加奈達ほど甘やかしはしないが、斎の当たりがキツくてへこんでいる時は、それを察してフォローに入ってくれる巽の存在がありがたい。自分の興味関心のまま動く斎と違って、かゆいところに手が届く巽の調整能力は、なかなか得難いものなのだ。


「それで、今日はどこを見学したい? 産学センターに入るにはパスがいるけど、高校生は学生証見せれば大丈夫って言っていたし。スパコンとか、見られるよ」

「図書館とか見てみたいな。大学の図書館って、何だかスゴそう」

「加奈は心理学がやりたいんだっけ? 人文と教育の学生ならだいたい使うのは中央図書館だけど、せっかくだから医学部の図書館も行ってみる?」

「医学部……敷居が高すぎて怖いわ」

「図書館は普通だよ。市民開放もしているし。看護学科の子たちも使っているし」

「そうね。それは、また真実ちゃんと一緒の時で」

「森本さんは、看護希望?」

「そうみたい。ここは受験科目的に厳しいから、私立狙いだって言っていたけど」

「そっか、もともと文系選択なんだって言っていたね」


 昨年末の『事件』をきっかけに、真実は志望を看護に定めた。国公立でも文系の科目選択で受験できる大学はあるが、英人の通う国立大学の看護学科だと、理科の科目数が間に合わないため、志望校からは外している。年度末に滑り込みで選択を変えることもできたけれど、科目的に難易度が上がるので厳しい、とこぼしていた。主に物理が。


「加奈は、何とかいけそう?」

「まだ厳しいけどね。絶対無理ではない、とは、言われたわ……」

 英人の通うこの国立大学を(ちなみに今いるのは大学構内の生協直営のコーヒースタンドである)志望する加奈だったが、地区最難関の壁は高い。


「僕でできることは、協力するよ」

「嬉しい。家庭教師してもらいたいわ」

「いいよ。加奈専属で徹底的に指導するよ」


 英人の進んだ経済学部社会学科と、受験科目はそれほど違わない。しかも、大学の成績はA評定が並んでいるらしい。斎がこっそり教えてくれた。

 年末に一時大学を休んでいたものの、ほとんどの受講を半ば終えていたため、出席数もギリギリ満たして単位認定試験をクリアした。おかげで、問題なく三年生に進級している。


 この春からは、全面的に復帰して大学に通い始めている。英人の復学に一安心した加奈がふと「私も来年合格できれば、一年間だけでも一緒に通えるかも」と漏らした言葉を聞き逃さず、その希望を叶えるべく動き出し、まずはモチベーションを高めるため、大学見学に誘ってきた。オープンキャンパスなども実施されているが、それとは別に個々の大学見学も受け入れているため、必要な手続きを調べてきてくれた。基本的に解放されている場所は自由に散策していいらしい。


 今日は見学がてら、英人と疑似キャンパス体験をしている。

 先日入学式を終えたばかりの大学構内には、まだ高校生っぽい雰囲気の抜けない新入生がキョロキョロしながら歩いており、加奈も自分はそれほど浮いていない、と、思っている。本人は。


 今年から加奈の通う石高では隔月で土曜カリキュラムを取り入れ、その振替で平日休みの日ができた。おかげで、平日である今日の午後、まだ講義スケジュールにゆとりのある英人に大学構内を案内してもらえることになった。その分、来週の土曜日は登校しなければいけないのだが。


「じゃあ、早速行ってみようか」

 飲み終えた紙コップをゴミ箱に捨て、二人は構内をそぞろ歩く。まだ開講していない科目も多く、事務室で簡単な手続きをして、空き教室も見学させてもらえた。

 広い構内を半分も歩かないうちに、一時間以上経ってしまう。


「本当に、大学って広いのね……体力いるわ」

「はは、大げさだよ。実際には、学部で使うエリアが限定されているから、こんなに歩き回らないし。僕も、理学部や工学部の方には、ほとんど来たことなかったし。少し休む?」

 道端に設置されたベンチで休憩を促すと、英人は「飲み物買ってくるよ。お茶でいい?」と少し離れた自動販売機を指で示した。

「あ、私も一緒に……」

「いいよ、休んでいて」

 腰を浮かせかけた加奈を抑えて、英人は小走りに自動販売機に駆けていった。


 相変わらず、加奈に対する気遣いにあふれ、……ちょっと心が痛む。


 もっと我儘を言ってくれていいのに。

 

 思わず首元に指を伸ばす。そこには、英人が誕生日に送ってくれた、オープンハートのペンダントヘッドが揺れている。指先で、そのハートを彩る冷たい石の感触を確かめる。今自分では見えないが、小さなトパーズがついている。

 その淡い赤みを帯びた黄色の宝石を送ってくれた日のことを、加奈は思い浮かべる。


『僕はもっと加奈のことが知りたい。加奈に対して誠実でありたい。これからもずっと、加奈といたいって気持ちが、炎のように僕の心に宿っている』

『……加奈と、幸せになりたい』


 あの時は、まだ本当の英人の姿を知らず、でもその影を感じてとても不安だった。

 今とは違う。なのに。


 相変わらず加奈に対して、真摯で、優しくて、でも、以前よりはずっと素直に感情も見せてくれるようになって。

 加奈を壊れ物のように、大切に扱おうとする英人の気持ちは、嬉しい、とても。


 けれど、決して一線を越えてこない、英人への不満も、実はある。

 そもそも自分が見せる恐れや不安が、英人にそれをためらわせていることも、分かっている。

 でも、一度は、その機会もあったことだし。


 あの事件の直前、イルミネーションイベントの『赤いリンゴのモニュメント』の前で、英人と加奈は、自然な流れで口づけを交わそうとしていた。そこに間が悪く居合わせてしまった俊と美矢に気付かなければ、きっと、そのまま。


 ……それに引き続いた騒ぎのせいで、以後、何となくきっかけを掴めないでいる。

 それは、英人も同じなのかもしれない。何か、きっかけが、あの事件の記憶を塗り替えるような、華々しいイベントが、必要だ。

 とすれば。


「……やっぱり、狙うなら、バースデーよね。あ、でも七月か……」

「誰のバースデー?」

 目の前に人影を感じ、慌てて加奈は視線を上げる。

「あ……あの」


 一瞬英人かと思ったが、違った。


「初めまして、だよね? 美しいお嬢さん。この大学の学生かな?」

 黒よりも少し淡い、栗色の髪。日本人でも少ない、深い黒の瞳。けれど、その彫りの深い顔立ちと抜けるように白い肌は、明らかに欧米人の血を感じさせるもので。


「あれ? ボクの言葉、通じているかな? ボクの日本語、おかしいですか?」

「……あ、あの、大丈夫です。分かります」

「よかった。ボク、留学生です。昨日、この大学に来たばかり。アキラと言います」

「アキラ? あ、日本名?」

「そうです。ボクの母は日本人。あなたのお名前は? レイディ?」

「あ、加奈です。三上加奈」

 初対面の、素性も知れない男性にフルネームを明かすようなことを、普段の加奈ならしなかった。けれど。


「Oh! カナ! かわいい名前ですね。よかったら、ボクとお付き合いしてください。まずは一緒に、この大学の中、探索しませんか?」

「え……いえ! 困ります! 私、この大学の学生じゃないし! それに、お付き合いとか、できません!」


 慌てて断りの文句を並べる加奈の隣のスペースにアキラはいきなり座る。

 その距離が、ものすごく近い。


「大丈夫です。ボク、大学の地図、持っています。案内できます。一緒に見に行きましょう」

「いや、ダメですったら!」

 どんどん体を近づけてくるアキラから逃げるように、加奈は立ち上がる。その拍子に、誰かにぶつかった。


「あ、スミマ……あぁ、英人」

 恋人の姿を認め、加奈はホッとして、その腕に縋りつく。

 その腕を通して、英人の荒い息づかいが伝わる。加奈の危機に気が付いて慌てて駆けつけてくれたのだろう。

「大丈夫? ……何なんですか? あなたは。いきなり……え?」


 怒り心頭でアキラを睨みつけていた英人の表情が、驚愕に変わる。


「これは失礼しました。でも、大切な女性だったら、目を離してはダメですよ。しかも、そんな美しいお嬢さん、すぐに攫われてしまいますよ。では、カナさん、またご縁があればお付き合いしてくださいね」


 冗談めかして謝りながら、アキラは去っていった。

「……アイツ、誰?」

「知らない人。アキラって、名乗っていた。留学生だって言ってたわ」

「アキラ? 日本人? いや、でも留学生なら、日本国籍じゃないのかな……ともかく、悔しいけど、アイツの言う通り、加奈みたいな可愛い子は、油断していたらダメだよ。名前まで教えたの?」

「ごめんない。びっくりして、つい、うっかり」

「……いや、確かに驚くよ。自分でも、驚いている」


 アキラの目鼻立ちは、確かに欧米人めいた彫りの深いものであったのだけれど、純粋なそれよりは浅く、いかにもハーフらしい、絶妙な造作で。

 その髪の色を濃くし、その肌にもう一層黄みを与え、その瞳を同じ黒でも、どちらかと言えば黒曜石のような透明感を加えると。

 ……英人そっくりになる。


「お母さんが、日本人だって言っていたわ……」

「……今、加奈が考えていること、僕も否定できない」


 英人の実の両親は、不明だ。生年月日だけは分かるが、母親が日本人だということ以外、情報はない。井川英人、という名は、養親に名付けられたものだ。


「でも、これ以上アイツに近付かないように。今日はもう、絶対離れないから」


 腕に縋りついたままの加奈の手を自分のそれで包み、英人は念押しする。その目に――まだ傷が治らないため、未だに前髪に隠された右目は見えないが、露わな方の左目に、浮かぶ、嫉妬の光。


 それが、妙に嬉しくて。


「うん。離さないで」

 その肩に、頬を寄せ、なお一層力を籠めて、腕に縋りつく。


「加奈、ちょっと上を向いて」

「え?」


 反射的に上を向いた瞬間、素早く英人の顔が、被さり。


「……行こうか」

「……うん」


 まるで、風が通り過ぎたかのような、一瞬の接触。

 その一瞬の感触が、加奈の唇に残る。


 思いがけず訪れた、ファーストキスの瞬間。




 恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになり、アキラの存在は、もうすっかり加奈の脳裏から抜け去っていった。

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