8 ヘアピンの彼(side:麻耶)
登校すると、机の上にチョークで落書きがしてある。
死ねネクラ、とか、ガリ勉、とか、貞子キモイ、とか。
もう見慣れたそれをティッシュで拭いて消して、私は周りのクスクス笑いを気にしないように心に蓋をして、ゴミ箱にティッシュを捨てた。
ネクラ。本当のことだもん、言い返す気力がない。
でも、ガリ勉とか言われるのは心外だ。
授業が終わってすぐ休み時間に復習をするのは、その方が効率がいいから。遊ぶ相手がいないからっていうのもあるけど。
学校で復習を済ませてしまえば、家に帰ってから無理に勉強の時間を取らなくてもテストでちゃんとできるし、その分好きなことをする時間が増える。
学校の図書室で借りた好きな本をすぐ読んで、また新しい本を借りられる。
髪が長くて下ろしたら背中の真ん中辺りまであるし、前髪も長いから貞子って言われるんだろうけど、その言い方は古いなって思う。だいたい、いつもちゃんと邪魔にならないように三つ編みにしてるし。
私がいじめられる理由は、「成績いいのがむかつく」かららしい。
クラスの中でも成績ビリの方の、陸上部の子が体育祭で私の事を見下ろしながら「こんなのいるからクラス優勝できないんじゃん。消えろよ」って言ってきた。
そんなことを言われても、「こんなのがいるからテスト平均点学年ビリになるんじゃん」とは私は言い返さない。
そういう同レベルのやりとりをしたら、もうその時点で「負け」だから。
嫌がらせされても、私は学校に行くのをやめなかった。
家で泣いてお父さんとお母さんに「休んでいいのよ」と言われても、学校に行った。
だって、勉強するのが好きだから。
学校は勉強をするところだから。
頭いいっていじめられて、私の好きな勉強まで邪魔されるなんて、それだけはどうしても許せなかった。
だから、志望校に電車で20分も掛かるような高校を選んだときも、両親は何も言わなかった。先生はすぐ近くで県下有数の進学校でもある熱井高校に行って欲しかったみたいだけど、近くの学校になんか絶対に通いたくなかった。
当然、雪見台高校を受験するのは学校の中で私ひとり。
駅から学校への道を、何度も地図上でシミュレートする。と言っても、
万全に準備を整えて、私は入試当日を迎えた。
今日の星占い、ラッキーカラーはブラウン。
担げる験は全部担ぎたいから、私は少し悩んで普段は使っていないブラウンのシリコンゴムで髪を結んだ。
ひとりで電車に乗って、川左駅へ。そこから歩いて、15分ほどで写真で何度も見た雪見台高校へと着いた。
私以外は近くから来ている人が多いのか、中学の先生が引率したりしてる。
学校の門をくぐると、受験番号ごとの教室の割り振りが張り出してあった。それを確認してから、昇降口に向かう。
靴を脱いで、袋に入れて、いつも学校で使っている上履きに――。
体を屈めた瞬間、耳の近くでピンッという音が響いた。
「えっ?」
何、今の音。
私が戸惑っていたら、結んでいた髪がバサッと広がった。長い前髪が垂れてきて視界を隠す。
「嘘……」
シリコンのヘアゴムが、左右一気に2つとも切れた……。
た、確かに、3回くらい使ってると伸びてきたり、切れやすくなったりすることはあったけど、新品を使ったのにいきなり切れるなんて。
縁起が、悪すぎる。
上履きを一段高い廊下に置いたまま、私は昇降口のすのこの上でうずくまってしまった。
その時。
「どうしたの、具合悪い? 大丈夫?」
うちの学校とは違う制服に身を包んだひとりの男子が、体を屈めて私を心配そうに覗き込んでいた。
「あっ、大丈夫。大丈夫です。髪の毛を結んでたゴムが切れちゃっただけ」
顔の横に垂れてくる前髪を払いながら立ち上がると、彼はよかった、と軽く笑ってくれた。
それから、ふと気付いたようにポケットに手を入れ、何かを私に差し出す。
「これ、よかったら使って」
「……ヘアピン?」
「前髪邪魔そうにしてたから。たまたまポケットに入れっぱなしにしてただけのやつだから、気にしなくていいよ」
「あ、ありがとう」
私は彼から2本のヘアピンを受け取り、頭を下げた。
「じゃ、頑張ろうね」
ちょっと手を振って、彼は私が向かうのとは別の階段を上がっていった。
その場でヘアピンで髪を留めて、私は気合いを入れ直した。
頑張ろう。
この学校に合格したら、誰も知らない場所で私はやり直せる。
今の男子みたいに優しい人もいる。
ヘアゴムが切れたときにはどうしようかと思ったけど、やっぱりブラウンは今日のラッキーカラーだった。
彼の姿を記憶に焼き付けながら、私は今までにない集中力で試験に臨んだ。
時間の許す限り、何度も何度も見直しをして。
そして、合格発表の日、私の受験番号は合格者一覧の中にちゃんとあったのだ。
あちこちで歓声が上がっている。倍率自体は凄く高かったわけじゃないから、たくさん落ちた人がいるわけじゃないけども、肩を落として帰る人もいた。
そして私は、人混みの中で受験の日に会った男子を探して、少し離れたところに彼の姿を見つけた。
会ったら御礼を言って返そうと思っていたヘアピンはポケットの中。
私と彼の距離は5メートルくらい。
でも、その5メートルにはみっちりと受験生がいて、彼は同じ学校の友達らしい人と一緒に喜んでいたから、話しかける勇気が出なかった。
ポケットの中のヘアピンから手を離して、私はくるりと回れ右をして帰宅することにした。
合格しましたって、心配してる先生と親に伝えなきゃいけないし。
4月になったら、彼とは同じ学校に通うことができる。――そう思ったら、嬉しさが膨らみすぎてだんだん恥ずかしくなってきて。
私は、変わるんだ。絶対変わってみせる。
誰も私を知らない場所で、根暗な貞子じゃなくなって。
その決意はとても強くて、今までずっとロングだった髪を、入学式の前にバッサリ切った。前髪も短くして、鏡の中の自分は別人みたいだ。見た目を変えただけなのに、中身まで変わったみたいに思えてしまう。
制服も重いセーラー服じゃなくなって、紺ブレザーに緑のチェックのプリーツスカート。胸元のリボンがいかにも高校生って言う感じ。
同じクラスの中に彼の姿はなかったけど、入学式の時にちらっと見かけたから必ずまた会えるはず。
そして、私は下校の前に昇降口の前で彼の姿を探していた。
会ったら、なんて言おう。
あの時はどうもありがとう。おかげで受験頑張れたよ。
私、あの日助けてもらってから、ずっとあなたにもう一度会いたかった。
会って、ちゃんと御礼を言いたかった。
知らない相手のはずの私を助けてくれてありがとう、って。
緊張しすぎて、気がついたら昇降口を出る人を無意識に数えていた。
14,15,16……23,24.25。
26!
「あ、あの!」
私が思いきって彼を呼び止めると、彼は驚いていた。
あ、どうしよう……。周りに人がいるし、こんなところで「あの時助けていただいた鶴です」みたいなことを言ったら注目を集めてしまう。
「な、何?」
驚いてる彼の腕を咄嗟に掴んで校舎の横に連れて行ってしまったのは、我ながら驚きの行動だった。
私の突然の行動に彼は凄く驚いていた。私でも驚いてるくらいなんだから、された方も驚くよね。
改めて向き直って、ポケットの中のヘアピンに触れる。
御礼を、言わなきゃ。
あれ、でも私、髪の毛もバッサリ切って、あの時とは全然違う印象のはずで。
あの時助けていただいた鶴ですって言わなければ、私の事はわからないんだよね……。
「付き合って下さい!」
私の口から出たのは、「私は変わるんだ」という勢いに押されたそんな言葉だった。
本当はずっと、あの日から彼を想って自分の支えにしてた。
たった一度しか会ったことのないあなたを好きになりました。しかも合格発表の時も声を掛けられずに見てましたなんて「暗い私」の部分は言えなくて、私はとんでもない言い訳までしてしまった。
それでも鳥井くんは、思ったとおり優しくて。
私の事はやっぱり気付いてもらえなかったけど、いきなり振ったりするんじゃなくて、「お試しなら」って受け入れてくれて。
鳥井くん。私、本当に好きなんです。あなたのことを。
うまく言う事ができないけど、本当に、本当に大好きで。
「初対面」の私と付き合うことにオーケーしてくれて、駅まで送ってくれて。「また明日」って。
幸せすぎて、私は電車に乗ってから泣いた。
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