無愛想[花金]

 少し肌寒くなった風が優しく薄紅色の秋桜コスモスを撫でていく。私の心の中と同じように小刻みに揺れる花が橋のたもとで揺れている。ゆっくりと欄干に置いていた手を離してからお腹に触れる。無意識に愛でるように上下する右手がみっともなくて、目に映る景色が滲んでいく。


 溢れるものをき止めたくてまぶたを閉じると、彼の声が聞こえた。


『ピンクのコスモスの花言葉って知ってる?』


 この橋の上で彼が求婚する前に言った言葉。去年のいつだったか、今日よりも秋桜が美しく河原で咲き誇っていた。正確な日付なんてものは、もう忘れてしまった。


『乙女の……あれ、なんだったかな?』


 そう言って彼は、胸ポケットからメモを取り出して――ついでに駒鳥の卵色ロビンズエッグブルーの四角い箱を落としてしまって。慌てて拾ってから夕焼けに染めた顔に笑みを作ってみせた。黒い縁取りの奥の目だけがそれを作り物だと教えてくれた。


『どうも、僕はカッコつかないな』

『……そんなところを好きになったわけじゃないわ』

『君は――』


 彼の顔が不味いものを口にしてしまったように歪む。それを見て、後悔した。今までうまくやってきたのに、なぜこのタイミングで口を滑らせてしまったのか。


『君はいつも真っ直ぐだ。僕にとってピンクのコスモスなんだよ』


 言葉を選ぶように、彼の口から音がぽろぽろと漏れていく。


『……すまない』

『いいの』

『どんな時でも、どんな僕でも……君は受け止めてくれたよね』


 曖昧に笑い返す私に、彼は続ける。


『こんな勝手に付き合わせてしまった。殴ってくれて構わない』

『……じゃあ』


 彼の苔色のセーターを両手で掴む。皺にならないように優しく。


『目を瞑ってちょうだい』


 一瞬驚いた顔をしてから、彼は頷いて、眼鏡を外して見せた。思いのほか長い睫毛が伏せられて揺れている。殴れといいながら覚悟なんてできてない。いつもそう。


『……ズルいヒト』


 日が陰るなか、橋の上の影が一つに重なると、足元の秋桜が歓声を挙げるように揺れた。見開かれた彼の瞳と目が合う。それだけで満足してしまって、彼の鎖骨に指を這わせて思い切り突き飛ばしてやった。


『さようなら』


 それ以来、彼とは会っていない。一年も前のことだ。

 だけど今も瞼の裏には虚像というには確かすぎる彼の姿が浮かび上がる。


 婚約者とうまくいかなくなったと愚痴る彼。私の誘いに簡単に乗ってみせた彼。いつでももとに戻れるなんて言葉を巧みに利用して、私に呪いの言葉を送った彼。ピンクのコスモスの花言葉――乙女の純潔。心も身体も奪われたのに、それ以来、私は純潔を装わなければならなくなった。そんなもの下らない妄言だと分かっていたのに。


 それだけ愛していた。心から愛していた。


 いつかは橋の上へ戻りたいと思っていた。やり直せるなら。私と別れた直後、婚約者に求婚した男に――今度は自尊心なんてかなぐり捨てて、すがりつくのに。


「ごめんなさい」


 溢れる思いも涙も止められずにうずくまる。子どものようにしゃくり上げながら、謝罪の言葉だけを繰り返した。あの日の自分に。星になってしまった小さな命に。


「ごめん、なさい……」


 橋のたもとでは、薄紅色の秋桜が無愛想に揺れている。

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