三日月[花金企画]

 枕が変わると眠れない――なんて繊細には出来ていないけれど、今日は目が冴えてしまってベッドに入っても眠れなかった。


 ベッドサイドのデジタル表示の時計を見て、私は眠る努力を止めた。清潔な白いカバーのついた枕に軽く顔を擦りつけてから、勢いをつけて上半身を起こす。


「よいしょっ」


 両足をベッドから下ろして、床にあるスリッパを足の感覚だけで探り当てる。安そうなペラペラのスリッパに足を突っ込み、窓に近寄る。

 カーテンから外を見ると、夜中でも明るいパリの街並みを見守るように、三日月が夜空で微笑んでいた。


「……綺麗」


 すでに昨日になった一日、こもっていた美術館での記憶がよみがえる。


 ・・・


 美術館巡りに一日を使うと決めた日だった。


 有名な蓮の絵の美術館の後、今回の旅一番の目当てであるガラスピラミッドの美術館に入った。その後は、駅舎を改築した美術館に行く予定だった。


 半日ですべて見るのは不可能な広さと収蔵品数を誇る世界有数の美術館には、教科書で見た美術品や初めましての作品が数多くあった。満員電車状態でチラッと見えただけの『世界で一番有名な美女』の絵も。


 だが、旅程を狂わせた出会いは階段の踊り場にあった。


 百人も通れそうな大きな階段の踊り場にある有翼の女神の大理石彫刻。天窓からの光を受けて、刻一刻と光と影のバランスを変えながら圧倒的な存在感を示していた。首から上はないのだけれど、まるで美術館を訪れた――いや、パリにいるすべての人々に微笑み、導いているような。その姿に私は釘付けだった。


 結局、踊り場に何時間座っていただろうか。


 数え切れない人が行き交っていたが、ずっとそこにいたのは、私と若い男性だけだった。熱心にスケッチブックに向かう男性。よっぽど好きなのだろうと感心しながら、私は彼をチラッと見た。

 すると彼はおもむろに立ち上がり、近づいて来た。


『Hi』

『……? はろー?』


 男性は青い目を細めて、スケッチブックを差し出して来た。


『Please, take a look』


 スケッチブックの上で何度も手をひっくり返すのようなジェスチャー。


 ――見ろってこと?


 スケッチブックを受け取って、おずおずと開いてみた。そこには、私が見ていたのとは別角度の女神像が描かれていた。鉛筆一本とは思えない精細なタッチ、はっきりとした濃淡。彼の女神像もまたとても美しい。そう彼に伝えようと分かる英単語を口にした。


『べりーびゅーてぃふる』

『Thank you』


 男性は再び、ページをめくれとジェスチャーしてきた。ページを繰ると女性の顔があった。真剣な眼差しで何かを見つめるような女性。

 もしかして女神像の顔を想像して描いたのだろうか。


『びゅーてぃふる』

『It's you』

『ゆー?』


 男性がスケッチブックと私を交互に指さす。


『私!?』


 大声が館内に響き渡った。遠くにいた美術館のスタッフにシーッ! と人差し指を立てられた。右手で口元を隠す私に、男性はニコッと微笑んだと思ったらスケッチブックを掴んだ。


 ビィッ。


 一気にページを破って、差し出して来た。


『For you』

『え、くれるの? えっと……さんきゅー?』


 そう言えば美術館の前に「五ユーロで」と言いながら似顔絵を描こうとしてくる人がいたけど……お金を払った方が良いのだろうか?


『まねー?』


 私が聞くと男性は目を丸くして、一瞬止まり、それから弾けるように大声で笑い出した。スタッフがより一層大きな音でシーッと注意してきたが、男性は気にした様子はなかった。


 その後、男性は英語で何かを言ったが早口な上、独特のアクセントがあってよく聞き取れなかった。でも、その時の口元は三日月のようで、すごく素敵な笑顔だった。


 ・・・


 あの時、彼はなんと言ったのだろう――


 なんとか思い出そうとするけれど無理そうだ。白み始めたパリの空から消えた三日月を探すように、どうしようもない。そう思うと急に眠気に襲われる。


 今日はパリの観光名所を巡る予定だから少しでも寝よう、と私はベッドに入る。


 ――ピピピピッ。


 目を閉じた次の瞬間には、朝食のために仕掛けていた起床アラームが鳴っていた。


 ホテルステイの楽しみのひとつ、朝食。

 ヨーロッパの三ツ星ホテルは正直期待してはいけない。数種類のパンと煮詰まったコーヒーだけでも用意されているだけありがたい。


「今日はクロワッサンにするか」


 私は人がまばらな食堂で朝食をいただく。まだ寝ぼけた頭でボーッとクロワッサンを見る。


「そういえば……クロワッサンって『三日月』って意味なんだっけ」


 手の中のクロワッサン――バターたっぷりのサクッとしたそれは、三日月のような彼の笑顔みたい。


 私は鞄にしまったスケッチを思い出す。鉛筆で描かれた女性の顔。美しいのは造形じゃない。よく観察された表情。一点を見つめるまなざし――それは彼が見ていたもの。


「……よし」


 今日は予定を変更して美術館に行こう。


 そして、もし彼に会えたら――まずはクロワッサンの話でもしようか。

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