無知[花金企画]
木炭がキャンバスの上を走る音が、美術準備室に響いている。
遠くから不明瞭な掛け声が聞こえる。きっと野球部員だろう。暑い中、大変だなあ――と
「三好、動かないで」
「動いてませんよ」
「顎の位置が変わったよ」
そう言われて顎を少し上げてみる。先生は納得したようで、木炭の滑る音が再び聞こえる。せめて横顔でなければよいのに、と千春は窓の外を眺めながら思う。例えば正面のデッサンであったなら、先生を見ていられる。それならば何時間でも、朝まででもモデルするのに、と。
朝まで。本当に過ごすことができたなら、やはり何事もないわけはないだろう。美術部員でも、受け持ってるクラスの生徒でもない自分にモデルを頼むくらいなのだ。好意をもたれているのだろう。親にはなんて言おうか。課題が終わらなくて……いや、学校に泊まる言い訳にはならない。いっそのこと親友の家に泊まるからと言った方がいい。千春の親は共働きで、彼女が一人で夕飯をすませて、布団に入った頃に帰宅する。最悪、気づかないのではないだろうか――
「ふふっ」
千春は自分の企みに思わず笑い声をあげた。窓の外を見たまま。
「何がおかしいの」
先生はデッサンの手を止めずに、千春に聞く。千春は微かに唇を横に伸ばしてから、静かに答えた。心の中では楽しくてしかたがない。
「なんでも」
「そうか」
千春は口を少し開いてから、思い直して、また唇をきゅっと結んだ。
その時、嫌な音がした。巨大なムカデが、美術準備室の床を無数の足で這いずり回るような音。それに続いて、木炭を置く音がする。カン、という金属のような音。千春は動かずに心の中で顔をしかめる。一日で一番、嫌いな瞬間だ。
「もうこんな時間か」
先生は振動を続ける携帯電話を手にして、そう呟く。
「助かったよ、三好。もう帰っていいぞ」
「はあい」
千春は気のない返事をしながら、椅子から立ち上がる。若い千春にも、放課後の数時間ずっと姿勢を正して座っているのは、つらいものだった。両手を組んで、天井にぐいっと伸ばす。んーっと吐息が漏れる。
「はは、ババくさい」
「ひどいなあ」
足元に置かれた学生鞄を肩に掛けて、千春は笑い返す。笑顔のまま、なんでもないように続ける。
「ねえ、先生」
「どうした」
「顔ばっかりじゃさ。デッサン力、上がらないんじゃないかな」
例えば――と言って千春は、窓の外を見るふりをする。
「制服の下とか」
しばらく美術準備室から音が消える。遠くに野球部員の声すら、聞こえない。千春は、ふう、と息を吐いて、先生に向き直った。
「なあんてね」
千春の言葉に、先生もようやく息を吸えた様子だった。
「ふふっ。じゃあ、また明日」
その様子を見て、満足そうに千春は美術準備室の扉に向かう。千春が扉に指を掛けた時、先生が後ろから声を掛けてくる。
「三好」
千春は、「はい、先生」と笑顔で振り返る。
「あまり――」
先生は左手で自分の頭を掻く。千春に見えるように、わざとらしく。
「先生を困らせないでくれ」
その言葉には答えず、千春は笑顔のまま、ゆっくりとお辞儀をした。
「先生、さようなら」
「……気をつけて帰れよ」
扉を閉めて、千春は小さく自嘲する。
ズルいよね。知らないふりをすれば、大胆になれる。親なんて忘れられる。先生の大切なものなんて知らない。
私は、無知な、ただの子どもだから。
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